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第三話 死霊

 

 8 ご破算


 残虐な宴が始まれば、破滅は自ずと近づく。

 宴を止める者はいない。反対する側が一人ならば、いないのと同じだ。ましてや、当の本人は両足を針金で拘束され、まったく身動きが取れない。エノラ・グリードは、これから行われる、残酷な処刑を傍観するしかない立場であった。

 彼女は、レイナードを恨めしく思った。この男こそがすべての元凶なのだ。

 数時間前に甦生したレイナードは、肥満体の青年である。脂肪の垂れた足。二人分はある太い腕。前に突き出た腹部。首が埋まる丸顔は、隙間なく汗が浮いている。

 エノラは一切の同情を抱かなかった。悪いのは本人だ。彼が分不相応な行為なんかしなければ、自分も、商人も、こんな目には遭わずに済んだはず。

「あたしはね、実はあんたを見直してたんだよ、レイナード。アレをする時にナニが腹の肉で被さって見えないし、重いし、鈍間なあんたが、皆の物を全部盗んで逃げる度胸があるなんて、今まで知らなかったもの」

 十一歳の少女であり、野盗のリーダーを務めるウィノナ・ウォーカーは、鉄柱に磔にされた青年に言った。

 レイナードは今、ここに連れてこられた当初のエノラと同じく、骨組の鉄柱を背にして、肢体と首を針金で何重も固定されていた。唯一違うのは、彼の膝小僧から上、左右の太腿辺りが、異様なほど頑丈に巻かれている点であろう。

 点と例えるほど小さな目が、落ち着きなく右往左往する。見慣れないエノラを指摘する余裕もない様子だった。

「あんたのやった事は理に適ってる。最初はさすがにムカついてたけど、帰って来るまでは、偉いと見直してたんだよ」

 少女が手を伸ばし、レイナードの窮屈そうにはみ出た腹をさする。今になって気がついたが、爪には薄いピンクのマニキュアが塗ってあった。

「あんたはドジを踏んだの」

 手を引っ込めた代わりに、揺れる頬にボーガンの矢先を突きつける。

「ひえっ!」と、レイナードは素っ頓狂な声を上げた。

「売女に騙されたんじゃ、ざまあないよね」

 矢先は頬から離れ、ゆっくりと下降し、ちょうど腿辺りに止まる。

 風を切る音が走った。肉を裂く音が続き、間髪入れずに青年が絶叫する。

 放たれた矢が、腕の三本分はあるぐらい太い腿に突き刺さっていた。巨体を動かそうとするが、張り巡らされた針金でどうにもならない。

 少女は足を上げて、突き刺さる矢尻を押すように踏みつけた。ズブリと肉が抉れ、矢先が骨に当たらずめり込んで貫通した。

 再度こだました悲鳴が、エノラには赤ん坊のそれに聞こえる。

「どうして何もしなかったの、レイナード? なんで、美人局のカップルを殺して逃げなかったの? なぜ、さっき在り処を探しに出た時、お兄ちゃん達を殺して逃げるぐらい考えなかったの?」

 少女の問いかけに、仲間の三人は、互いに気まずい顔を見合わせる。

「どうなの、レイナード?」

 切実な面持ちでウィノナは大きなオッド・アイの瞳を、ブルブルと震えてばかりの青年に詰問する。

「お、お、思いつかないよ。そ、そ、そんな恐ろしい、事……」

 声変りが遅れているのか、少し幼く聞こえた。丸顔に汗の玉がポツポツ浮かぶ。レイナードの返答に、少女は、さも残念がるように首を振る。

「それじゃあダメなのよ、レイナード。ダメなの。チャンスはいくらでもある物じゃない。その時が来たら、絶対に見逃してはダメ。チャンスの方が逃げたんじゃないわ。あんた自身が、すべて取り落としちゃったんだよ。分かる?」

 出来の悪い生徒を説教する教師みたいな口調で、ウィノナは諭す。実際、背伸びした化粧の顔は、真剣そのものだった。

「許してくれ……僕が悪かったよ。もう、二度としないから」

「あんたの貯金は底をついたの。人生最大の賭けに負けたんだ」

 少女はしゃがみ込み、膝小僧から足首までに絡まる針金を、ペンチで切って自由にした。当然、柱を背にしているので、脛足は後ろには動かせない。

「自信ないけど、あたしなりに、敗北の痛みをあんたに教えたげる」

 少女は、長い鎖をレイナードの足首の肉に食い込むほど巻きつけた。さらに南京錠をいくつも掛ける。床に広がる鎖の先は、そのまま入り口まで続いて、駐車していた雪上車の後方に飛び出した突起に繋がれていた。

「嫌だぁぁ! ごめんなさい! 僕が悪かったから許してくれぇ!」

 意図が分かったのか、レイナードが急に喚きだす。

「今すぐ止めなさい! こんな事をして何になるというの?」

 上体を起こして訴えたエノラに、ウィノナの背中が面倒くさそうに返す。

「あいつのためなの。来世で同じ轍を踏まないようにね」

「あなたは狂ってる」

「でも、理には適ってるだろ?」

 背を向けていたウィノナが身を翻すと、エノラは悪寒を走らせた。彼女の予想に反し、少女は笑ってはいなかった。

 ウィノナはただ無表情のまま、ゆっくりとその手を挙げる。

 突然、入口に駐車していた雪上車のエンジンが掛かった。(レイナードは、顔の肉をプルプル震わせ、繰り返し懇願する。ごめん、ごめん、ごめん、と。もう二度としませんと)唸りを上げて急発進し、(ウィノナの背中に向かって、命乞いを壊れた人形のように言い続けるが、少女は微動だにせず)八輪のタイヤが煙を吹かして、(助けて、助けて、助けて、と、もはや誰に向かって言っているか定かでなく)瞬く間に車体は外の雪原へと消えていく。魚のかかった時のリールのように、(判別できない喚き声を周囲に響かせ、首が壊れた何かを真似るように、休みなく揺れて、最後には――)鎖が高速で外へと吸い込まれるようにして消えていき――。

 鎖が水平に張った瞬間、骨の砕ける音が鳴り響く。同時に、レイナードの膝から下が関節に逆らい、前方に向かって反り返った。

 聞いた事のないほどの断末魔が轟いた。エノラも悲鳴を上げた。

「おおおおぉぉぉ!」と唸り声を絞り出し、レイナードは大きく点の眼を開いた。瞳孔が縮小する。太い舌が飛び出し、歯が噛んで血を垂らす。弛んだ頭を激しく振り乱し、髪は逆立ち、両手が痙攣し、胴体にも伝わる。折れた右足は水平に上がりきり、先のない膝小僧からは、膝蓋骨(いわゆる、膝の皿)が突き破っている。千切れた血管が垂れ、血肉と骨の破片が床を汚していく。

 エノラは泣いた。恐怖を通り越した罪悪感が強烈に締め付ける。私刑を目に前にして、何もできない無力さ。ふと頭を上げると、スワイブとトールが異なる反応で、レイナードの処刑を見つめていた。

 小男は腹を抱えてゲラゲラと愉快に笑い、長身は青ざめた顔色で、落ち着かない様子で膝の辺りに長い手で押さえる。

 ガス抜きと見せしめ。とうとう、エノラは耐えきれずに目を背けた。

「一人だけ、善人面すんなよ」

 ボンヤリとした声を漏らし、ウィノナはまた手を挙げる。クックの運転する雪上車が、バックして戻ってきた。 

「お兄ちゃん、次」

 スワイブが駆け寄り、水平に浮く右足の鎖を外す。代わりに左足へ結んで合図をした途端、雪上車が猛スピードで外へ消える。舌を突きだしたままのレイナードを無視し、高速で鎖が巻かれ水平に上がった。

同じ悪夢が繰り返された。同じように、左足も直角に曲がった。

 一際、すさまじい断末魔が轟いた。

「次」

 二人はレイナードの両腕を、後ろに回しそのまま肘から上を柱に固定した。後ろに回った両腕にそれぞれ鎖を巻きつける。

「効率よく、両方一緒にね」

 雪上車がさっきと同じく、合図の直後に加速して外へと消えると、鎖が高速に回収される。連続的に骨折の音が響き、縛られた青年の両腕が、両足と同じく関節とは正反対の方へ反れた。

 三度目の絶叫が廃墟に轟く。顔を痙攣させたレイナードは、白目を剥き、口から血の混じった泡を吹き始めた。

 舌打ちし、ウィノナが慌てて命じる。

「最後は首。急いで」

 スワイブが鎖を外して、今度はレイナードの首にかけた。頭部は両手の激痛に痙攣しているが、ウィノナは最後の合図を送った。

 驀進する雪上車と、目にも止まらぬ速さで消える鎖の山。工場の中を横断する鎖が上がり、水平に張る。刹那、首に溜まった脂肪がせり上がり、青年の顔が一際大きく膨らんだ。

 レイナードの首がなじれ、千切れ飛ぶ。

 回転し、青年の頭部は床に落ちた。引き千切られた胴体の断面から、血流が噴水みたいに舞い上がった。

 頭を失った体がバタバタ暴れ、やがて動きは止まった。白目を剥き、鼻から黒い血を垂らす。口が一文字に結ばれているのが、かすかに見えた。

 工場の中が、バッテリーのぎこちない駆動音だけが支配する。

とうとうやってしまった。忠告を無視し、再生者を殺してしまった。不可抗力では許されない、最大の禁を犯したのだ。

 声を震わせながら、エノラは少女に言い放つ。

「ウィノナ。皆、死ぬわ」

 時ならず、レイナードの口に笑みが広がった。

 

 9 死霊


「死んだのに、まだ動いてやがる」

「死後硬直って奴じゃねえの?」

 兄がふざける横で、ウィノナは呆れるように言った。

「バーカ。死後硬直は、死んで数時間経つと体が硬くなる現象だよ」

 彼らは口々に話している間も、首がなくなり、骨が砕けて関節が外れているはずの四肢は、各位に意志を宿したように小刻みする。

 唐突に死体の揺れは止まった。骨抜き状態の四肢がダラリと下がる。誰が指示するともなく、トールがナイフを構えながら、恐る恐る重い足取りで、鉄柱に固定されたままの息絶えているレイナードに近づいた。

 いつの間にか、外の吹雪は止んでいるのか、風の吹く音もしない。滴が一斗缶に落ちる水音がかすかに聞こえた。

 怖いほどの沈黙。意味もなく脈が高鳴る。目に見える訳でもなく、息遣いが聞えるでも、異臭がするでもなく、肌に突き刺す感触もない。五感以外の感覚――気配に、エノラは焦燥を極め、図らず、互いの二の腕を掴んだ。

 間違いなく、ここに、あれがいるのだ。

 逃げるには、もう遅過ぎる。

 トールは、小さな物を拾うかのように指先を震わせながら、皮膚だけでぶら下がっている手を持ち上げ、死体の脈を取る。やがて、安堵に肩をすくめ、長身の青年はこちらを向き、「大丈夫だ。ちゃんと死んで――」

 突然、脈のない手足が動き、目にも止まらぬ速さで細長いトールの体に巻きついた。太い四肢が一気に締め上げ、骨を軋ませる。

 甲高い悲鳴を、生首の嘲笑がかき消した。

『ボクを見捨テないでくれよオ』

 白目を剥いたレイナードが、口から血の泡を吹かせた。人間離れした声は、前の特徴的な幼さとは似て非なる。

「こいつ――放しがれぇ!」

 トールは細身に巻きつく手足に、持っていたサバイバルナイフの刃を何度も振り下ろした。厚い脂肪の肉が裂け、血がボタボタ滴り落ちるが、締め付けが弱る兆しはない。とうとう、手からナイフが落ちた。

 ウィノナ達は手出しもできずに唖然とする。普通の武器では、それは殺せない。レイナードは、もはや再生者・人間ですらない。再生者としての生は断たれ、今、死霊として生まれ変わったのだ。

 水中にいるタコやイカが獲物に巻きつく形で、レイナードの手足だった触手がトールを締めつけ続ける。やがて、バキバキと骨の折れる音と共に、とうとう痩身がだらりと下がった。なおも、自分達が処刑した者と同じく、口から血だまりの泡を吹き出し、折れた骨が所々に体を突き破る。

 タコというよりも、アナコンダなどの大蛇に近い行動を髣髴とさせる。大蛇は、捕えた小動物を丸呑みにするため、とぐろを巻きつかせて得物の骨格を粉々に砕く。

 死霊と化したレイナードは、まさに人の形をした大蛇である。

 唯一違うのは、首なしの大蛇という事だろうと、エノラは思った。

 手をこまねく彼らの前方を、レイナードの首が転がり横切った。獲物を屠ったばかりの胴体に近づくと、足の触手が伸びて拾い上げる。

 持ち上げられた頭部は嬉々とした表情を浮かべて、一際大きく口を開いた。唇がめくれ、牙のように鋭くなった歯の並びがむき出しになる。そして、大口がトールを頭から齧りついた。

 バリバリと噛み砕くように咀嚼され、細切れになった頭蓋や肌色の脳漿が、首から抜けて落ちていった。

「ば、化け物……」

 ウィノナの絞り出した一言に、死霊が捕食を止める。白目を彼女に向けた。「ひいっ!」と少女は小さく叫ぶ。

『ゼッタイに許さナイからネエェェェェ』

 四肢が獲物を放した。骨抜きにされた半身がダラリと床に転がる。死霊はいとも容易く針金の束縛からスルリと抜け出した。

 ウィノナがボーガンの矢を放った。スワイブもそれに倣った。二本とも、レイナードの腹に刺さり、その反動で死霊は後ろの鉄柱にぶつかる。

 否定するエノラの通り、腹に刺さったままの怪物は何事もなく立ち上がった。脂肪で垂れた足を波立たせて床を踏みしめる。軟体動物に似た動きは、人間よりも俊敏だった。

 その間、エノラは鉄柱の裏に這って隠れ、足に巻きつく針金を解こうと試みた。だが、頑丈に結ばれているためかビクともしない。

 死霊は常に飢餓の状態にある。甦生師相手でも容赦しないだろう。例え、黒い血が自分達にとって致命傷であろうと、彼らが初めから知っているわけではない。せいぜい不吉な腐臭を感じ取る程度だ。

 餓死寸前の動物だって、腐った残飯や毒にも手を出すのだ。

『腹が減ったぁっぁ』

 再び、死霊が二人に向かって駆け出した時、クックが運転する雪上車が、鎖を引きずらせながら戻ってきた。死んだはずのレイナードが立っているのを捉えるや否や、運転席の顔が歪む。

 アクセルを踏んだのか、雪上車が再び唸りを上げた。鉄柱にぶつかりながらも強引になぎ倒し、死霊に向かって真っすぐ突っ込んでくる。

 エノラは必死に這い、隠れていた鉄柱から離れた。直後、その柱もなぎ倒して通過していく。

 雪上車が火花を散らして走り込み、レイナードの巨体を轢いた。骨肉の砕ける音が響く。結局、レイナードは二度も同じ目に遭ったわけである。


 灰色の煙を吹かせ、雪上車が倉庫の手前で止まった。静寂が生まれる。外の吹雪が天井のトタンを叩く音しか聞こえてない。ウィノナやスワイブ、運転席でクックは放心したままでいる。

 エノラだけが、第二波に備え、物陰から窺っていた。目線の先は、ウィノナである。彼女が黒い血の空砲を持っている。それは、死霊に対抗できる唯一の要。

 突如、雪上車がいきなり唸った。うるさいアイドリングを繰り返し、クラクションが目まぐるしく点滅する。

 運転席の禿頭が唖然とした目で、手前のハンドルを必死に回しているのが見える。やがて、諦めてドアを開けようとしているようだが、出てくる様子もない。

 次はあれに憑りついたと、エノラは確信する。

 車の天井が潰れ、両端のドアも中心に向かって寄っていく――運転席が徐々に狭まる。

 クックが無理に縮ませる。間もなく、車体は内側にひしゃげ始め、運転席は狭まり、青年を圧迫した。フロントガラスが飛び散る。そして――運転席から人が入れる空間が閉じられた。

 鉄の壁と化した残骸から、クックの皮膚だけが飛び出した。幅は限りなく薄くなり、左右に潰れた目玉がひり出てくる。

 ウィノナが甲高く叫び、工場の二階へと続く階段に向かって走り出した。遅れて、兄の小男も足を縺れさせながら慌てて走る。

 粉砕された体を吐き出し終えると、雪上車は恐竜の雄叫びにも似た鉄の軋みをこだました。八輪のタイヤを足にして、二人に向かって直進する。


 階段の手前で、スワイブが足を絡ませてバランスを崩した。その拍子にウィノナの足を掴む。手すりとつかんだまま、彼女もまた呆気なく地に着いた。

「何すんだよ、バカ!」

「助けてくれ、ウィノナ! 兄ちゃんは死にたくないよ!」

 スワイブは小さな体を揺らし、しまいに失禁で股間を濡らした。死霊が勝ち誇ったように唸りを上げて、止まっている二人に直進する。

 ウィノナに躊躇はなかった。一方の足を振り上げ、彼の手を踏みつけた。 

「クソ兄貴が、一人で死んでろ!」

 スワイブが手を放した瞬間、ウィノナは死に物狂いで階段に上っていく。鼻水に塗れた顔で何かを言うとする青年の顔を、追いついた巨体が押し潰した。

 断末魔に続き、車体の下から血流が吹き出し、臓物や骨が四方に噴射する。

 二階の渡り廊下に到達したウィノナは、惨状に嗚咽を漏らした。後は、もう自分しかいない。

 フロントガラスにへばりついたクックの顔の皮が、少女に向かって歪む。

「ヤダ!」と上げて、ウィノナは駆け出した。

「弾を投げなさい!」

 エノラが叫んだが、少女の耳には届かない。立ち止まる余裕の欠片などない。人喰いの雪上車が信じられない動きを見せたからである。

 死霊と化した車体は一度バックすると、車体の前部を自力で上げた。後輪を足にして、重量車両の動きとは思えないウイリー走行で突っ込み、ウィノナのいる二階の壁に激突した。

 手すりのパイプが弾け、壁のコンクリートが木っ端微塵に砕け、飛び散った破片が、ウィノナの肌を傷つける。

 雪上車は、前輪で這いながら横に移動し始めた。

「何なんだよ、ちくしょう!」

 ウィノナは泣きながら渡り廊下を走った。直後、伸びた前輪が壁を次々と抉る。少女の背後をかすめ、等間隔に並ぶドアを破壊していく。

 とうとう、ウィノナは廊下の端に追い込まれた。

 クラクションが喜悦の雄叫びを上げる。

「ウィノナ! 死にたくなかったら、銃の弾を投げて」

 やっと気づいたのか、少女が向いた。慌ててポケットをまさぐり、実包と黒い空包を投げた。直後、前輪が橋の壁を抉る。

 二発の弾は弧を描いて、彼女のそばに落ちた。

 怪物の爪と化した前輪の真下で、ウィノナはペッタリと壁にもたれていた。無事であったが、タイヤで身動きが取れず逃げる術はない。捕えたと言わんばかりに、目が眩むほどの強力なヘッドランプが彼女を照らす。

「ごめんなさい! あたし達が悪かったから、レイナード、ゆるして!」

 少女は号泣で鼻水を垂らし、逃げる際に負った傷が顔中に痛々しく点在する。赤色のアイシャドーも崩れ、潤んだ大きな瞳から赤い涙を流している。

 前面がゴムみたいに屈折し、せり出した顔の皮が彼女と対面した。

『キミはア、僕ヲ何てエ呼んでタア?』

 二本のワイパーは、らせん状に伸びて床を走り、少女の足元まで到達すると、ジーンズが覆う細い足の上を進み、怯える顔の前に止まった。

「ごめんなさい……あたしは、あんたを豚インポって呼んだ。何度でも謝るよ。お願いだから――」

 途端、ワイパーの先が高速に回転しだす。ウィノナは悲鳴を上げた。二本の針が顔から下がり、彼女の股先で止まる。

「ヤダアッ! そんなん入れられたら死んじゃう!」

『今ノ僕はネ、ナンでもヤレるんだ』

 クックの顔の皮が、愉悦に歪む。

 ワイパーの爪がジーンズの生地をくすぐる。そのまま貫こうとした時――。

「これでも入れなさいな」

 背後から凛とした声が発し、死霊の顔から歓喜が消えた。

 人の背中に当たる車体に、エノラが二双の銃口を突きつけた。一切の躊躇なく、左の引き金を引いた。

 黒い閃光が車体を貫いた。すさまじい轟音が周りにこだまする。

 鉄の腹に大穴を開け、クラクションの断末魔で工場をかき乱す。前輪を滅茶苦茶に振り回し、ウィノナは一階へ突き飛ばされる。

 車体が傾いて、雪上車は地面に伏した。

 その際、一瞬だが、廃墟の壁や天井が大きく揺れた。


 10 暗闘


 黒い血で変色した針金で固定された両足で飛び跳ねながら、エノラは倒れている少女に近づいた。間の抜けた移動法だが、這って進むよりかは効率が良い。

 白い額に汗を流し、ウィノナの少女の元に辿り着くと、だらしなく開いた口に手を当てた。息はしているので、死んではいない。

 閉じていた目をカッと開き、咄嗟にエノラは後ろに跳ねた。

 突然、大声を喚き立てて、ウィノナが襲いかかろうとして、足をもつれさせて転倒する。怪我をした手には、大振りのナイフが握られている。

 エノラは直立したまま、ダブルバレルの照準をバンダナが覆う頭に向けた。

「あなたの悪運も相当ですね、ウィノナ・ウォーカー」

「全部、あんたのせいだ!」

 エノラを射抜くオッド・アイは、あらん限りに見開いている。自慢の化粧も崩れ、水で薄めた絵具を被ったような顔だった。

「私は散々、注意したはずです」

 エノラは、はっきりした声で言葉を連ねる。納得してもらおうとは期待してはいないが、確固たる事実は伝えておきたかった。

 ともあれ、ウィノナの一派は略奪品も手元に戻らず入らず、あろう事か仲間を失い、広大な荒れ地の足となる雪上車も壊れ、挙句、隠れ家も半壊した。レイナード一人を殺した事で、裸一貫で放り出されたようなものだろう。

 誰一人いない、荒れ地で少女が単独で生きるのは不可能だ。街に行けば、自警団に捕まり、相応の罰を受ける。中には、強盗に入られ、家族を殺された者もいれば、裁判抜きで私刑されるのは目に見えている。

 ギロチンか縛り首か、袋叩きか――いずれにしろ死に至る未来しかない。

 エノラは少女に同情していない。チャンスが逃げたのではない。ウィノナ自身が、約束を守らず、すべてを取り逃がしてしまったのだ。

「私は、甦生術師です。望み通り、死者を生き返らせるのがすべてです。あくまでも再起の機会を与える事。その後は知らない」

 ウィノナは歯をむき出し、ナイフの刃先を震わせる。

「あたしは諦めない。あんたを奴隷にして、兵隊をたくさん生き返らせて、王国を造るんだ。もう、あんたを女神にさせてやるもんか。あいつみたいに手足を切って、奴隷どもの慰み物にしたげる。公衆便所のまま一生を送らせてやる」

「ウィノナ、遊びはもう終わりです」

 エノラは銃を構え、引き金に指を掛ける。対して、少女には怯えはなく、薄い笑いを浮かべた。

「撃てやしないさ。あんたに人は殺せない」

 エノラは無表情のまま彼女を見つめ、やがて銃を下げた。

「そうよ。あなたとは違うもの」

 エノラ・グリードは本当の声を出して言った。無理な敬語を放っていた時とは違う、冷たく澄み切った声に、ウィノナは一瞬たじろぐ。さっき味わった危機的状況とは異なる、底知れぬ恐怖を彼女から感じたのか、思わず背筋を震わせた。


 一度、吐息を漏らし、エノラは声を戻した。

「これ以上危害を加えるならば、足を撃ちます。そうすれば――」

 突如、首に圧迫が加わり、エノラの体が宙を浮いた。

 どこからか伸びてきた触手が、彼女を捉えたのだ。拍子に、肝心要のダブルバレルが手から落ちた。

 レイナードの死霊はまだ生きていた。

 破損したエンジンからオイルの血と炎が吹いた。眼球と化したヘッドランプを点滅させ、捕えたばかりの獲物を睨みつける。手足をばたつかせて抵抗するエノラに顔を近づけ、鉄の牙が隙間なく並んだ口が大きく開けた。

 すかさず、彼女は舌の端を噛む。溢れる黒い血を口に含ませ、間近に迫る死霊に向かって吹きつけた。

 人面を模した車体に煙が立ち、肉の焼ける異臭が漂う。歯車を軋ませる断末魔が、廃墟全体を振動させる。

 甦生術師の体内に流れる黒い血は、死霊にとって猛毒に等しい。

「ウィノナ、それを撃ちなさい!」

 悶える死霊が、エノラを掴んでいた触手を大きく振り飛ばした。細い体は、鉄柱に激突しなかったものの、数十メートル地点まで一溜りもなく吹っ飛ばされた挙句、何度も回転しながら床に叩きつけられる。

 だが、機会は十分だった。ウィノナは、銃を死霊に向けて構えていた。

「バケモンがくたばれ!」

 反動は半端ではなく、右の引き金を引いた瞬間、鼓膜が破れるぐらいの轟音が耳朶を打ち、万力で後ろに引っ張られるように、ウィノナは後ろに倒れた。

 運転席が丸ごと消滅した車体は、断面から炎を噴き出したまま倒れた。前後のライトも点滅していたが、やがて消えて沈黙した。人体ならば、首一つが吹き飛んだ事になる。

 ついにやったと、ウィノナは歓喜を上げて跳ねた。遠くで見たエノラはしかし、内心、舌打ちした。銃が再び、彼女の手に渡った事実よりたちが悪い。

 少女は実包の方を放った。残っていたのが、通常のスラッグ弾なのは仕方がないとしか言えない。だが、状況は振り出しに戻った。普通の武器では、憑依した人や物は破壊できても、それは殺せない。

 死霊の怪物は生きていて、まだどこかにいる。

 ウィノナは、懐から茶色くて長細いベルトのような物を取り出した。ダブルバレルの負革である。スラッグの実包と黒い血の入った空包とが、規則的に弾差の小部屋に収まっている。

 エノラは驚愕した。あろう事か、それを火が燃えている雪上車に向かって投げ入れたのである。連続的な破裂音が生じる。

 死霊を倒せる武器は消えた。ダブルバレルはただの筒と同じだ。

 少女は狂ったように笑いながら走ってくる。立場が逆転したと悟ったのだろう。エノラは立ち上がろうとするが、床を強かに打ちつけた痛みが尾を引き、全身の関節が弛緩して力が入らない。

 少女は走り寄って、彼女の脇腹を蹴りつけた。エノラは呻いて仰向けに転んだ。その上に、ウィノナが馬乗りになる。

 首筋に、冷たい感触と小さな痛みが走った。

「あんたも、とことん運の悪い奴だね」

「……あなたといい勝負です」

 空のダブルバレルを持つ左手に持ち、右手のナイフを針金の跡が薄く走る首に突きつけながら、少女は静かな声で言った。

「エノラ、あたしと来て。嫌なら、この場で殺してやる」

「なぜ、それほどまでに私を欲しがるのですか?」

「はぐらかすんじゃねえよ!」少女が吼える。

 そう、いつでも殺せたはずだ。目の前の少女は、いつも自分を殺すのを躊躇う。レイナードを生き返らせた直後にしても、二人だけでいた時も。そして、今に至っても、やはり同じく自分を試そうとする。

 エノラは黒い瞳を閉じた。一番不可解なのは、自分自身だと悟る。こんな状況に追い込まれても、我を曲げらなかった。

「ウィノナ……私は、あなたとはいられない」  

 肌の表面に刺さる刃先が、かすかに動いた。一筋の血が流れ落ちる。そのまま力を入れられたら、間違いなく死ぬだろう。もはや、余裕などない。

 目の前の少女を殺さなければ、もう、どうにもできない。

 その時、鉄扉が独りでに閉まった。すべての隙間や窓が勝手に閉まり、吊るされた電球が一片に割れる。

 薄い闇に包まれた工場の中で、どこからともなく人ならぬ嘲笑が流れる。

「何? 今度は一体何のさ!」

 ウィノナがあたふたし始め、ナイフの痛みが弱まった。

 死霊は依然、この工場の中にいる。強いて言えば、レイナードだった死霊は、この工場自体に憑依したのだ。不自由なままの体勢を起こして、エノラは確信する。

 自分達は今、死霊の口の中にいる。


 同じ頃――徐々に強まる吹雪の中、僅かに残る轍の上を歩き、廃工場へ向かう者がいた。もはや、肉眼で建物を見渡せるほど接近していた。

 厚い外套に身を包むその人物は、ただの人間ではない。



               《最終話へつづく》

 最終話は、来週の2月17日(金)の同じ21時に投稿します。

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