第一話 エノラ・グリード
1 迂闊
「あれは人じゃなくて?」
エノラ・グリードが問うた。喪服と見紛う黒装束に、胸の辺りで揃えた黒髪と黒い瞳が光沢を放つ。唯、東洋の顔立ちから成る白い肌が、黒尽くめの風貌と対をなす。
「俺は近視なんだ」
彼女の隣に立つ男が、素っ気なく答える。分厚い防寒具に身を包み、顔に至っても目出し帽とゴーグルで隠している。すべて、エノラの指示であった。
二人は今、膝が埋まるほどの雪原にいる。見渡す限り白一色。空には灰色の雲が覆い、いつ天候が崩れてもおかしくない。アムールという村に立ち寄り、“術”を施してから足早に出立して、白銀の地を移動すること数時間が経とうとしていた。
エノラの目は正しかった。前髪をかき上げ、少し先を眺めると、かすかな点が映る。岩肌、過去の戦禍の爪痕、または自分達と同じ旅人か。
彼女は、さらに黒い瞳を細めた。双眼鏡は背嚢に入れたまま。雪で足が取られる場所でわざわざ取り出すには少々面倒だった。
複数――三つないしは、四つの点。さらに歩を進める。先にエノラが足を止めた。尋常ではない光景に体が強張る。少し遅れてから、相棒も気づいた。
一人は地面に伏して、子供がすがり泣き叫んでいる。女の子の声がかすかに聞こえてくる。小柄で、輝くほどの金髪がとにかく目立った。
少女を囲む二人組の男。一人は長身。どちらの手にも、大振りの狩猟用マチェットを持っている。
白い荒地は広大である。そのため、野盗の跋扈を許す。点在する集落や町から一歩外に出ると無法地帯と化し、交易を阻む要因となっていた。
親子または兄妹(?)に襲いかかり、連れが襲われ、もう一人の少女にも襲いかかろうとする二人の野盗。エノラ・グリードには、そう映った。
無言のまま背嚢を下ろし身軽になると、肩に持った布筒の紐をほどく。幸い、野盗らの背後に自分達はいる。子供を助けるならば、今しかない。
「誰か、助けてぇっ!」耳に流れる少女の叫びが、エノラを焦らす。
走り出そうとするエノラを、シルベスターが肩を掴んで制した。
「勇み足はよせ、エノラ」
「あなたは、あの子を見捨てる気なのですか?」
「そうじゃねえ。ただなんか、嫌な予感がするんだ」
彼女は、相棒の手を払いのけた。無責任な出任せを言っている場合ではない。
獲物に近づく小動物みたいに腰を屈め、軽やかで俊敏な動きで、二人の暴漢の背後に接近した。極力、音を立つ事なく。卑猥な笑いを上げる野盗と、少女の叫びが、幸運にも雪を踏む音を掻き消してくれている。彼らも、数メートルまで来てもまだ気づいていない。てんで隙だらけだ。
エノラは口元をほころばせ、深呼吸し、キュッと唇を締めた。勝負は一瞬で決まる。下手を打てば、逆に殺される。失敗は許されない。
長身の背後に立ち、ニット帽の頭に銃を突きつけた。
「ナイフを捨てなさい」
相手は背中を震わせた。「なんだ、てめえは!」
振り返りざま、相手の頭を銃身で殴った。暴漢は体勢を崩す。もう一人が振り向いた時には、エノラはその鼻も同じく殴りつけた。白い地面に、細かい血の玉が飛び散る。続けざまに、相手の体を力一杯に突き飛ばした。一度、深い雪に転倒すれば、立ち直るのは容易ではないからだ。
ふらふらと起き上がる長身に、エノラは銃を向けた。よく見ると、思ったより若い。自分とそう年は変わらないかもしれない。
「何しやがる!」
「一度しか言わない。ナイフを捨てろ」
慣れない脅しのせいか、心なしか声が震える。実際、初めて出す言葉であった。だが、背に腹は代えられない。ましてや自分は女。弱気になれば見透かされる。
エノラは銃を構えたまま、涙を流す少女に近づいた。足元には、彼女の連れなのか、同じぐらい小柄の子供がうつ伏せになっている。
まさか、子供だけで旅をしているわけではあるまい。親はどこにいるのだろうか? 疑問がエノラの脳裏をかすめる。
ふと、少女に目を映した。思わず息が止まる。ローブからつき出る細い足から、一筋の血が伝い落ち、足元の雪を赤く染めていた。
憤怒の火が冷静の氷を一気に溶解する。エノラは野盗達を睨みつけた。
「こんな子供になんて事を……この、ケダモノめら!」二人の男に銃を交互に向けたまま、「さっさと、どこかへ消えてしまえ!」
自分の中に、こんな凶暴な人格があるのに、一瞬、エノラは戦慄した。
卑劣漢どもの服装は、寒地を移動するには薄い。根城が近くにあるのだろう。
「お姉ちゃん……お兄ちゃんを助けて……」
涙を流しながら、少女がすがりつく。まだあどけなく、十一、二歳ぐらいだろう。西洋の血が流れていると思われる、雪焼けした肌。オッドアイの大きな瞳。唇は薄く、薄く青みがかっている。化粧でもしているのか?
エノラは、豊かな金髪から血が流れる細い足を一瞥した。
もしかしたら、自分が、何をされたのかも自覚していないかもしれない。
「もう大丈夫、心配ないから……」
少女に向かい、落ち着いて諭すように言うや否や、キッと暴漢達の方を睨む。「何をしている? さっさと消えないと、本当に撃ち殺す!」
妙だった。いくら脅しても、彼らは動こうとしないのだ。むしろ、エノラと少女を楽しげに観察しているようだった。
仕方なく、エノラは引き金に手にかけた。相手が冷酷非道な野盗でも、子供の前で撃つのは間違っている。だが、エノラの得物、水平二連式の散弾銃は、弾が二発しか装填されていない。連中の数もちょうど二人。
彼らに殺意があるなら、外すわけにはいかない。いくら銃で脅したとはいえ、相手は野盗である。一枚の硬貨を手に入れるのに人を殺す。飢えを満たすためなら、ハゲタカのように人肉をついばむ。女を犯すのに長幼を選ばない。
人の姿をしながら、人であるのを辞めた、どん欲で残忍な輩。
「よお、嬢ちゃん」
「この子に話しかけるんじゃない!」片方に銃口を向ける。
「ちげえよ。あんたに話してんだよ」
鼻血を垂らす男が言った。同じく若い細面に、頭は禿げ上がっている。
「あんたは知ってるかい? この辺の野盗は賢いし、連携の取れた連中なんだよ。例えばな……」もう一人の長身の方が唇を歪めながら説明する。
「一方は襲う役、残りは襲われる方を演じて、通りがかった英雄気取りの間抜け野郎を釣るとか。もう先は分かるよな?」
いつの間にか、少女のすすり泣きは止んでいた。
途端、腰の辺りに固い感触が当たる。ハッとして下を向くと、鋭利な細い棒があり、その先は銃に似た武器を握る少女。彼女はもう泣いていなかった。その手にあるのは、ボーガンだと分かり、エノラはその顔を見た。
「助けてくれてありがとう、お姉ちゃん」
三日月に口を広げ、少女は酷薄な笑みを浮かべていた。今まで倒れていた小男――子供とは似て非なる老け顔の青年も、ボーガンの矢先をエノラに向ける。
「引き算、分かるよね? 弾は二発。二人は死んでも、残り二人は無事。矢で撃たれるか、ナイフで刺されるか。どっちにしろ、あんたの負けさ」と、さっきとは打って変わり、大人びた口調で言った。
「エノラ!」
シルベスターがこちらに気づいて、走ってくる。来ないで。エノラが逃げるように叫ぼうとした矢先、少女がボーガンの向きを変えた。
「うざったてー」
「やめて!」
エノラが叫ぶより、先にボーガンの矢が放たれた。風を切る音が横切り、振り返った時には、シルベスターの胸辺りに命中した後だった。矢を突きたてられたコートに包まれた体が後ろ向きに倒れ、やがて視界から消えていく。
「さっさと逃げれば、命拾いできたのに。馬鹿な連れだね。まあ、あんたも似たり寄ったりだけど。さあ、銃を捨てな。もう勝負はついたんだ」
エノラは従い、銃を地面に置いた。悔しいが、この状況で形勢逆転はあり得ないだろう。自分の思慮の無さを呪うしかない。
「人助けしたら幸運に恵まれると思う奴は、ただの馬鹿だよ、甦生術師さん」
――なぜ、私の事を……。
四人の野盗に連れられ、雪原がやたら盛り上がっている場所へ来た。長身と吹き出物が、“地面”を掴み引っ張る。地面に見えていた、白い幌が取り払われた。
中から、見慣れない乗り物が出てきた。馬車でもソリでもない、機械だらけの大きな乗り物。後で知ったのだが、雪上車というのだという。
「あたしらの隠れ家まで同行してもらうからね」
ボーガンとダブルバレルを持ち、少女は言った。大きな瞳は、底なしの暗黒に映り、これから遭うであろう、残酷な仕打ちを暗示していた。
いつの間にか、暗雲が空を支配し、雪がポツリポツリ降り始めていた。
2 監禁
武器を取り上げられた彼女は、古い雪上車に乗せられた。暴漢達の卑猥な嘲りと蔑視に耐えながら、しばらく車体に揺られるうちに廃工場に到着した。
雪上車から降ろされると、薄暗い工場の中へ通された。一歩踏み入れた途端、背後で鉄扉がゆっくり閉じ、束の間、漆黒が視界を包み込む。
逃げ道は消えた。エノラは暗澹たる気分だった。
誰かがマッチをこすり、弱い炎がきらめいた。松明を頼りに、一人がそばに鎮座する四角い機械に近づき、突起を掴んで一気に引っ張る。
機械は唸りを上ると、工場内に眩い明かりが点る。あまりにも強力で、エノラは思わず目を塞いだ。
現代にはない、古の道具。この工場も、過去の戦禍がもたらした跡だろう。
屋内は思っていた以上に広かった。間隔を開けて鉄柱の骨組みが並び、向かって奥の壁は、五つぐらいあるシャッターで区切られていた。端に階段があり、二階へと続いている。
「よお、さっきは本当に痛かったぜ」
横から発せられた声に遅れ、後頭部の衝撃にエノラはバランスを崩した。間髪入れずに、無理やり起き上がらされる。
禿頭の青年が小さく笑い、渾身の力でエノラの顔を殴った。今度は地面に叩きつけられる。
起き上がろうとすると、遠くから助走してきた長身が腹を蹴り上げた。腹腔を圧迫され、息が詰まる。エノラのか細い体は、ひとたまりもなく吹っ飛ばされた。
彼女は何度も小さく呻き、埃の目立つ地べたを反吐で汚す。
さらに、小男がエノラの首に何かを括りつけた。小男が歩き出すと、細く固い針金が首にきつく締まる。予期せず気管を塞がれ、声なき喘ぎを漏らしながら、両手両足を空にバタつかせる。
冷酷な笑いを上げ、小男はエノラをそのまま引きずり、一本の鉄柱まで連れて行くと、首を絞める針金をそこに括りつけた。
そして今――エノラは、冷たい床に伏している。
両手を後ろに回され、両足と共に針金で縛られている。肌が裂けて血が出るほど暴れたが、徒労に終わった。首もまた輪で固定され。ある程度、身動きができるようにはしてあるが、針金が張ると息苦しくなる。
緊縛された後も、エノラは三人の男達から暴力を受けた。最初は、仕返しと言わんばかりに彼女の武器、ダブルバレルの銃床で顔や体を散々殴ってきた。
エノラはじっと相手を睨む。状況が悪化すると知りながら、意地であった。案の定、目と鼻を強かに殴られた。鼻血が、唇を伝い落ちる。
「見ろ! こいつ、黒い血を流してやがる」
「やっぱり、この女は化け物だぜ」
ゲラゲラと下品な笑いを繰り返す野盗。異常だ。エノラは、死の恐怖が徐々に自分を侵すのを知り、体を震わせた。自分にはないと信じていた感情が蝕んでいく。
片目は腫れ、奥歯も一本折れた。少し動いただけで全身に激痛が走る。
単調な暴力に飽きたのか、小男がニヤニヤしながら胸倉を掴むと、勢いよくエノラの服をはぎ取った。黒のランジェリー一枚になりながらも、彼女は歯を噛み締めて耐えた。例え犯されようが、男達を興奮させるだけの悲鳴など、死んでも出したくない。代わりに、黒く虚ろに染めた瞳を向けた。
白い肌の肩やすらりと伸びた足、下着越しの胸の膨らみに卑猥な視線が舐めまわす。
「ヤッた事ないんだろ? アソコの血も黒いか確かめてやるぜ」
結局は、強姦が目的だったとは……。エノラは野盗の浅はかさと、彼らごときに捕まった馬鹿な自分を嘲笑った。相棒の警告を聞いていればよかったのだ。
疑問の奔流が脳裏を駆け巡る。シルベスターは死んだのか? そして、これから自分はどうなるのだろうか? 彼らは自分を解放するだろうか?
目の前で、小男がズボンを脱ごうとして――。
「やめな! 下手したら、協力してもらえなくなるよ」
少女の制止で、しぶしぶ引き下がった。
「ごめんね。こいつら怒ったら見境なくなるんだよね」
少女はしゃがみ込み、倒れているエノラの顔を持ち上げる。
「あたしは、ウィノナ。ウィノナ・ウォーカー。小さいのが、あたしの兄のスワイブ。背がデカいのが兄の友人のトール。そんで、禿げ頭がクック」
ウィノナの後ろで、おざなりな紹介で済まされた三人が愚痴をこぼす。
パッチリした大きな瞳。化粧を施した幼い顔に、水色のルージュを塗った唇に、迷彩の模様をしたバンダナから伸びる金髪。反対に、子供が着るには地味な古着。
ウィノナという少女からは、子供の背伸びとは違う、狂気じみた印象をエノラは感じた。子供であって、大人でもある。またはその逆でもある。矛盾した雰囲気は狂気を帯びている。野盗の一員として、彼女もまた狂っているのかもしれない。
「私を、殺すの、ですか?」
口の中にガラスの破片でも入っているみたいに、一語一語がしみる。
「あんた次第よ、甦生術師さん。それとも、プルートの民かな?」
プルートの民。エノラのように、死者を生き返らせる、再生の血を体内に宿す者を指す俗称。または蔑称。エノラ自身、“死に神の片割れ”に聞こえてならない。
「聞いてくれる? あたし達はね、ここらの荒れ地を拠点に盗賊みたいな事をしてるんだけどさ、困った問題に直面しているの」
少女は躍るように、手を広げて廃墟の中を駆け巡る。服装と化粧のせいかもしれないが、妖精というより夢遊病者のようだった。
「ある日、仲間の一人が逃げちゃったのよ。皆で必死になってかき集めた、食料やお金、色々エトセトラを……」ウィノナは、わざわざ手を広げて説明する。「こーんなデブッチョで、人一倍食い意地が張ってるくせに、逃げ足だけは早いときてるんだ」
ウィノナによると、レイナードという名前の肥満体の男で、二週間前、皆が寝静まっていた間に、戦利品と共に行方をくらましたという。
「あたし達は草の根分けて探したわ。苦労の甲斐あって、簡単に見つけ出したんだけど、その場にいたのはアイツだけだったの。荷物もなし、金もなし、食料もなし。ルンペンみたいに道端歩いていてさ、あたしらは雪上車であいつを追いかけたの」
ウィノナ達が雪上車に乗っていたという事は、レイナードは徒歩で逃げたのだろうか? この廃墟がどこなのかは定かではないが、野盗の隠れ家ならば、集落や町の近くにあるとは考えにくい。肥満の男が大荷物を持って、ほとんど漆黒に近い雪原の中を逃げる光景が、エノラにはどうも腑に落ちなかった。
ウィノナの言う通り、その男は後先を考えない愚鈍なのか、それとも……。
「そしたら、デブがこけちゃったの。雪で足が取られたみたい。ほんで、こっちも車で追いかけてたものだから、急には止まれないわけでしょ。ブレーキを踏むには遅過ぎて、そのまま車で押し潰しちゃってさ――」
スワイブがリヤカーを引いて来て、ウィノナの傍に止めた。リヤカーの上には幌が掛けられ、大きく盛り上がっている。タイヤの周りがやけに赤い。引いた後方から、赤い轍が続いている。
少女は歩み寄ると、勢いよく幌を取った。
口の痛みを忘れ、エノラは小さく叫ぶ。
リヤカーの上に置かれた赤い塊。所々に白い突起が飛び出している。肌色をしたゴムに似た管がとぐろを巻く。端の肉片がポロポロと床に崩れ落ちた。
「これが、ホントの死人に口なしだ」
ウィノナの一言で、初めて人間の肉塊だと分かった。肉の山の天辺に、斜めになった頭の半分が乗っているのを、遅れて気づいた。肉の垂れた青年の片目が大きく見開かれ、エノラを恐怖で射抜こうとする。
「こいつが死んで、戦利品の在り処も分からなくなっちゃった。最寄りの村も探したけど、手掛かりはゼロ。八方塞の袋小路にどん詰まり……」
ウィノナは乱暴に幌を被せると、エノラに向き直る。先刻のような道化とは違う、作り物めいた仏頂面に変わっていた。
「もう、ここへ連れてこられたワケが分かったろ? こいつを生き返らせてよ」
エノラは小さく言った。
「どこで私の事を?」
「アムールって村で、あんたが村長の息子を生き返らせるのをお兄ちゃんが見たんだ。そこで、急いであんたの先回りをしたってわけ」
アムールは、エノラ達が直近に立ち寄った村だった。異端者の集落でもあった。エノラのような、プルートの民、甦生術師を神に近い人間だと崇拝していたのだ。こちらの素性を告げた途端、来賓のごとく手厚い歓迎を受けた。
さらに村長の願い通り、先月、流感で死んだばかりの息子を甦生させると、これ以上ないほどの感謝を繰り返され、神の使いと祭り上げられる始末。
このままだと逆に居心地が悪いと思って、丁重に礼を返しながらいそいそと出立したのを、エノラは覚えている。
まさか、あそこに彼らがいたとは夢にも思わなかった。人前で血の力を見せびらかすのは今後控えるべきだろう。
“今後”があればだが。
「生き返らせたら、その人は……?」
「もちろん殺すよ。当たり前じゃん」
甦生した人間――再生者を殺してはいけない理由を言うべきだと思ったが、信じてもらえる相手とは思えなかった。どのみち殺される人間を生き返らせるために、自分の血を利用されたくなかった。
「断ります」
再生した者、決して殺すべからず。黒い血を与えた男、師の言葉を反芻させる。
「あ?」ウィノナの顔が気色ばんだ。
「私の力で、そんな事はさせない」
――本当にそれでいいの? 別の自分が問いかける。
「こんな状況でもそんな事言えるんだ。すごい!」
ウィノナは、照明の端にいる彼らを呼んだ。
「レイプと殺すのはダメだよ。死ぬ寸前までやっちゃって」
冷酷な笑みを浮かべる三人をすり抜けるように、少女は退場した。
「あんたが選んだ地獄なんだからね」
エノラは固く目を瞑り、体を硬直させた。そうだ、自分自身で決めた苦しみだ。こうなれば、ギリギリまで耐えてやる。
本当にそれでいいの? また、弱い自分が囁きかけた気がした。
3 餌
「おーい、生きてますかぁ?」耳元で、ウィノナが叫ぶ。
頭上の少女を虚ろな目で見上げつつ、エノラは声さえも出せないでいた。爪が何本か途中で折れていたが、痛みはない。幾度となく繰り返された暴力で、体が麻痺してしまっているのかもしれない。
反応のないエノラに、少女はわざとらしくため息を吐いた。
「昔、歩く兵隊さんのお人形を持ってたの。シャカシャカ音を出して行進したり、“サー・イエッサ!”って喋るんだけど、一々叩かないと動かなくなったから、最後は捨てちゃった……」
軽くステップし、倒れているエノラの横に立つと、細い足を振り上げる。
「あんたも叩いたら、まだ動くんだろ!」と叫んで、彼女の肋骨の辺りを踏みつけた。
エノラはたまらず呻いた。肺を圧迫され、言葉が出ず、喘息に似た呼吸が漏れる。まどろんでいた感覚がはぎ取られ、どっと吐き気が押し寄せた。
「やっぱり、狸寝入りしてんじゃんよ」
地べたの埃を気にする事なく、ウィノナはエノラの真正面に寝そべった。彼女は顔を背け、少女の目線から逃げる。
「こっちは遊びでやってるんじゃないんだ。あんたさ、このままじゃ死ぬよ。本当にそれでもいいの?」
どうせ、言う通りにしても助かる保証などない。こちらは文字通り身ぐるみを剥がされ、下着一枚の状態なのだ。
「戦利品の隠し場所が分かったら、無事に解放してあげる。あたしが約束する」
エノラは沈黙した。すべてが嘘に聞こえてならない。
「私はここでは死ねない、て顔してる」少女は指を伸ばして、エノラの鼻先をさすって薄く笑った。「でも、従っても助からないかもしれない、ていう目つきしてる」
ウィノナは横たわるエノラの頭に近づき、傷だらけの顔を舐めた。
「確かに、保証がないね。でも、何もしないなら答えは決まってる。手品のできないマジシャンは、生かしておいても意味ないもの」
少女の小さな舌が、黒く凝血した唇や鼻、紫色に腫れた目の上を何度も這う。生暖かく、不快な感触に、エノラは背中を粟立たせた。
「あんたは、ただの放浪者じゃない。強い意志で目的地を目指しているんでしょ? こんな所で死にたくはないでしょう? ね」
接吻しそうな距離まで顔を接近させ、少女は問うてくる。居た堪れなくなり、エノラは、黒い瞳を閉じたまま沈黙に徹した。
「もう……しょうがないなあ」と、ウィノナはゆっくりと下ろした。
「また、拷問ですか?」
首を横に振り、「あんたじゃない。どうせ死ぬまで負けたくないんでしょ。だから、バトンタッチ」
三人の手下が無理やり連れてられ、中年の男を一人、視界に入って来た。見慣れない被り物に、背中に背負った背嚢。旅商人だろう。
「放せ、金なら出す! 目当ては金だろう? お願いだ、やめてくれ!」
「この人は?」
「あんたの前にひっかかった馬鹿。生かしといてよかった」
暴れる男に、クックが持っていたピッケルを振り上げ、商人の足に突き刺した。男は悲鳴を上げて、その場に倒れた。
「やめてくれ! 妻が死んで、私には娘しかいないんだ。私が死んだら、家に残ったあの子は死ぬしかなくなる……」
商人の命乞いを無視し、痩身が天井からつるされた鎖を商人の首にかけると、もう一人が手元のスイッチを入れる。
電動で鎖が巻かれ、商人の体が首吊りの状態で宙に浮いた。
「人間提灯だ」誰かが笑う。
「やめなさい! 酷過ぎるわ!」
鈍痛に構わず身を起こしたエノラに、ウィノナは怒鳴った。
「カッコつけて、ヘソを曲げるからさ。あんたが承諾するまで、いくらでも代わりを連れて来て、あんたの目の前で吊るしてやる。他人を犠牲にしてまで意地を通したいなら、勝手にそうしてな!」
「人でなし! あなた達はそれでも人間ですか?」
「あんたと同じ人間だよ。でもね、今こいつが死んだら、あんたも同罪さ。殺すのと見殺しにするのと、どう違うの?」
商人が足をばたつかせる。ピッケルは刺さったままなので、血が滴り落ちる。商人の顔が蒼白に染まっていく。手足の抵抗も弱まる。
「アリエッタ……パパが……すまない」商人が声を漏らす。
「子供の名前? パパ、死んじゃヤダァ!」少女は嘘の涙を浮かべながら駆けて、商人の体に飛びついた。
商人が大きく呻いたところで、エノラはとうとう折れた。
「生き返らせるから、とっととその人を下しなさいな!」
エノラの叫びが廃墟に響く。ウィノナは微笑すると、商人から離れた。急いで手を振ると、鎖を引っ張っていた三人が手を放した。商人は床に落とされる。空気を求めて、彼は必死に咳込んだ。エノラも知らずに、束の間の息苦しさに襲われた。
「早く、そう言えばいいじゃん。なら、善は急げ。時間を無駄にはしたくないからね」
「私の荷物を持ってきてください。それと……」
「分かってるって」そして、長身に命じた。「甦生術師の先生に、服を返しな」
4 儀式
「言っとくけど、妙な気は起こさないでね」
甦生術の道具に小さなナイフがあったためだろう。が、周りにボーガンを持って立たれたらどうにもならない。
一応、薄着のローブだけを返してもらったエノラだが、ズボンを履いていないせいか、やけに足が冷える。素足なので、床の上が氷に感じる。それでも、下着一枚でいるよりもましだった。
「変わった銃に弾だね」
エノラの銃を眺めてるウィノナの横で、待っていたと言わんばかりに、長身のトールが「そいつはたぶん、元々長かったバブルバレルを短かく削ったモノだぜ。銃口が荒い。持ち運びには便利そうだが、反動は半端ねえはずだぜ。それに、二発しか撃てねえから、敵が四人いたら、投降するしかねえ」
「トールは銃に詳しくないくせにマニアぶってるから気にしないで。さっさと儀式を済ませてよね」
「私もそのつもりです」
エノラは男達に、儀式に必要なものを集めさせた。再生者――雪上車で押し潰されたレイナードの骨。それと、肉は同じく回収できる。できる限り本人のものに近いほど、甦生の可能性は飛躍的に上がる。
「後は、血が要ります。私ともう一人、生きた者の血が」
ウィノナは、背の低い兄を指名した。老け顔のせいかもしれないが、あまり似ていないので、本当に兄妹なのか謎だ。
「ええ! オレ、血を抜かれるの嫌だな」
「お兄ちゃん、お願いだから……」ウィノナは小男に近づき、耳打ちする。スワイブの口元が卑猥にほころんで、少女の頭を撫でた。
「分かったよ。可愛い妹のためだ」
小男は打って変って、腕をまくって積極的に献血する。
これですべてが揃った。後は儀式を始めるだけである。
エノラは、小さな骨の欠片を、同じ持ち主の男の肉片で包んだ。赤く曇ったコップに入れておいた血だまりに放り込む。そして、自分の腕をまくる。あざが所々に浮き、暴力の凄惨さを物語っていた。早く済ませたかったので、一番血管の多い二の腕にナイフの刃を突き立てた。
「あんた、正気!」ウィノナもさすがに驚いた。
流れ出た黒い血は、生き物のような蛇行して細い腕を流れ、手首から指先へ伝い、真下のコップへと滴り落ちていく。
赤い湯気が上がる。赤い血と黒い血が混ざり合う。否、生と死が混ざり合っているのだ。エノラはコップの中身を眺める。
コップの底にある肉の玉を長いピンセットで取り出す。赤と黒のまだら模様に染まっているそれを紙の上に置いた時、エノラは眩暈に襲われた。いつもの事だが、今回は度重なる拷問のせいで体力が落ちている。
エノラは急いで、皮袋に入ったスッポンの血を一気に飲み干した。
その際、ウィノナに目を向ける。「あなたもいかが?」
「キモい」
紙の上に乗った腫瘍が波打っている。自分の出番は終わった。再生者、レイナード次第になる。後は野となれ、山となれ、だ。
「終わりました。後は待つのみ――」
いきなり足元がもつれ、床に手を突くエノラ。とうとう意識が朦朧してきた。目の前にいるウィノナ・ウォーカーが三重に映る。声もエコーがかかる。
「どうしたのさ?」
少女の声を遠くに聞きながら、エノラはその場に倒れた。
《次回へつづく》
次回は、1月27日(金)の21時に予約投稿しています