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Act1:繁栄の果て

 ――聖書曰く、世界は神の手により、七日かけて創造された。

 闇の中に光を生み、昼と夜を生み出した。

 次いで、神は天を創り出した。

 大地を生み出し、海を生み出し、植物を生み出し、太陽や月や星を生し、魚や鳥を誕生させ、獣と家畜――そして、自らを模した人を創生し、休息を取った。

 七日によって生み出された、気まぐれの創造物。

それが世界だ。

そして、この世界に幾つも存在する神話――その多くで、人の住む世を生み出すのはいつも神だった。



 ――――逆にいえば……



 世界を壊すのもまた神である――という推測くらい、誰だって思いつくであろう、簡単な法則だ。

 そして、その推測の答えが今、そこにはあった。

 ひとつ、またひとつと空から降り注いでくる、目測で全長数メートルにも満たない岩の雨。

 炎を纏い、高速で空から降り注ぐそれは流星――否、小規模の隕石だった。

 ひとつ、またひとつと降り注ぎ、大地を穿つ隕石群。

 それは(やり)だ。

 天の果てより投げ落とされる、炎を伴って大地を貫き、文明を討ち砕き、命を瞬時に焼き払う――生ける者にとって恐れるべき災厄の鑓。

 抗う術はなかった。

 無慈悲に振り続ける隕石の雨を、人々はただただ止むことだけを希った。

 ある日、唐突に空より降り注ぎ続けた隕石の雨。

 それは神の創生と同じように、七日の時を以て終わりを告げた。

 そして残されたのは、崩壊し機能を失った世界各国の都市と、これまでの安寧を失い、呆然と空を仰ぎ続ける数を減らした人々と、そして――――


――――神と名乗る存在によって齎された、試練を告げる神託だけだった……



   ◆   ◆   ◆



 最早過去の繁栄した時代の残滓と呼ぶに相応しい、瓦礫と化したビル群。そこはある種の人間にとって、この上ない宝の山だ。

過去このビル群がまだ都市の一つとして機能していた頃に使われていた多くの情報演算機(コンピューター)の残骸を始め、様々な文明機器が今も損傷しながらも形を残して放棄されている。

 ひと昔前は、パソコンなど一人が一台所持していて当たり前だった。

しかしその頃に比べると、現在はその手の精密機械はそう易々と手に入るものではなくなり、最先端技術の大半は現在を生きる大企業やら中央政府の中枢機関に集中していて、一般の人間は手を出すこともできない高価な代物へと逆戻りしていた。

 そんなもの、なければない状態での生活を送ればいいと思うかもしれないが、人間一度便利な道具を手に入れ、それを用いた生活に慣れ過ぎてしまうと、そういった物がなくなった状況に逆戻りした時、中々その頃の生活に戻ることが出来ないのはある種仕方がないことと言えるだろう。

 その当時を生きていた人間にとってはなおのこと。便利な生活に飽きはなく、それを得る方法があるのならばどんな手を使ってでも手に入れたいと思うものは数多い。

 そして――そういった過去の栄華の一端でも取り戻したいという人間相手に商売をする者たちにとって、このビル群は――いや、〈崩壊都市(フェアファル)〉は、金の成る木と言っても過言でないくらいに物資に満ち溢れているのである。

 だが、未だその多くの廃材物資は手付かずであると言っていい。

〈崩壊都市〉とは、その名の通り十年前に起きた災厄、【神罰の日(ネメシス・デイズ)】――通称《七夜の災禍(セブンス・ヘブン)》の多大な影響により機能を完全に失った大都市群のなれの果てである。当時から現在に至るまでの間、各国政府から完全に管理放棄されたこの地は、世にいう無法地帯と化している。

 無論、現政府側も一般人の〈崩壊都市〉侵入はすべて禁止しているが、侵入したからといってそれを罰する法律は現在のところ存在していない。

 つまりは政府からの「〈崩壊都市〉に勝手に入って何かトラブルが起きたとしても、我々政府は一切の責任を取らない」という、ある種の暗黙の了解ということだ。そしてその件に関して文句を言う人間は、今のところ存在しないと言って良い。

 危険な目に逢いたくない人間は最初からリスクを負ってまで〈崩壊都市〉に赴くことなどしないし、逆に〈崩壊都市〉に赴いて廃材回収をする人間にしてみれば、最初からリスク覚悟で挑んでいるのだから、文句の言いようもないし、文句を言うこともないのが通例だ。

 偶に好奇心に任せて遠足気分で挑む者もいるが、そういった輩は大体〈崩壊都市〉の制裁を受けて酷い目にあうか、還らぬ者になるかの二つに一つ。

 少なくともあの地は、お遊びで挑むような場所ではない。

 神によって齎された、神託の碑文が聳え立つ地。

 人の常識が及ばぬ魔の領域。

 かつての栄華の残滓が漂い、現在では及ばぬ技術の埋もれる遺産と死と混沌が蔓延する、最早異邦の地と化した瓦礫の世界。

政府も企業も市民も関係ない。誰もが命を賭して挑む場所――それが〈崩壊都市〉である。



 人の住まなくなった住宅や、誰も使わなくなったビルというのは、人が思っている以上に早く劣化していく。積もった埃の山が部屋全体を覆い、割れた窓から吹き込んだ雨で床は腐り、コンクリートの壁はひび割れ、放置された庭の草木は際限なく増殖して建物を侵食してゆく。

 小隕石の落下に伴う衝撃はかなりのものだとしても、これほどの惨状になるものなのかと、当時幼いがために記憶が曖昧な自分では把握し切れないな、トバリは崩れ瓦礫の積もったビルの廊下を注意深く歩きながら胸中で小さく嘆息した。

 目深に被られたフードの奥から覗く長い前髪の色は白く、その間から見える赤い瞳は注意深く周囲を見回している。警戒を怠らない獣――という表現をされかねない雰囲気を醸した青年は、軽やかに、だが慎重な足取りで奥へと進む。

 天井からむき出しになり、垂れ下がってきている無数の電気配線を避けて、廊下の突き当たりを曲がって見えた部屋に入り込む。

 ブーツの爪先が瓦礫の欠片を踏み、パキッという軽い音を立てて欠片を砕く。

 部屋は窓際の広い部屋だった。数十の業務机とその上に散乱する幾十もの精密機械の山。まだ手つかずのオフィスルームか何かだと推測に至ったトバリは、真一文字に結んでいた口の端を僅かに吊り上げ、

「……掘り出し物だな」

 にやりと笑うと、ズカズカと部屋の中を物色し始める。

 こういった大きめのビルに残されている機械類が、未だ手つかずというのは非常に珍しいことだった。

 この〈崩壊都市〉にやってくる者の共通認識として存在する一つが、『大きいビルにはそれだけ大量の機械が残っている』というものが多い。かつて市場を争っていた幾つもの大企業が集中していたビル街は、当然ながらそれだけ多くの仕事人間がいて、その人数に比例して精度の高い機械類が用いられていたというのは、《七夜の災禍》以前を生きていて、それなりに知識を持っている人間なら誰もが知っていることだ。当時九歳だったトバリですら認識しているようなことを知らない人は果たしてどれほどいるだろうか。

 当然、機械は精度が高い物ほど高値で取引されるため、一攫千金を狙うような連中がこぞって手に入れようと奔走する。

 世界がどんな惨劇に見舞われようとも、ライフラインが断たれようが、情報の一切が遮断されようが、そこに生きる人間は酷くしぶとく、そして――無駄にたくましかった。

(つくづく……悪あがきすることだけは天才級な生き物だよな。人間(おれたち)って)

 政府管理都市――タカマガハラの周囲に点在する高層ビルなどにあったであろう機械たちが、今は使えないガラクタを残して一つも存在していないのは、そういった理由からだ。

 トバリが訪れたビルは、遠くもないが決して近くでもない。管理都市から約三十キロ離れた場所にある、地上四十階建ての高層ビル。そこの三十五階だった。

 近くにあったデスクに歩み寄り、その上に鎮座する機械――その多くはパソコンの類だ。トバリは軽く手で触り、大きな破損がないかを確かめた後、腰の小型バッテリィ取り出してパソコンの主電源と繋ぎ、手軽に操作して立ち上げ、起動を確認して笑みを零す。

「よし! こいつは動くみたいだな。もしかしたら、此処のあるやつはほとんど生きてるかもりれねぇ……一つ正常起動ってだけでも儲けもんだが、此処の全部使えたとしたら、それこそ大儲け間違いなしだな」

 久々の大収穫に、トバリは満足げに何度も頷いた。

 機械類の中でもパソコンなどの類は、今の市井では超がつくほどの高級品だ。一般市場で出回っている物は昔の物と比べればそれこそ天と地ほどの性能が上がっており、《七夜の災害》以前の生活レベルで扱うのなら全く必要がないというくらいハイスペックと化していて、それに合わせて値段も常識外れの高値で売り出されており、よほどの金持ちでもなければ手を出すこともできないような物となっている。

 当然、そんな高性能なパソコンを必要とする者などそうはおらず、結果当然の流れと言うように〈崩壊都市〉に眠る程度の物を市井の人々は求める。だが、命を危険にさらしてまで入手したいと思うほどの猛者は少なく、結果〈崩壊都市〉に転がる廃材を集めて売り払い、それで生計を立てる廃材猟奪屋(ジャンクスティーラ)――通称〈発掘屋(スフィーダ)〉が重宝される。

 トバリもまた、そんな〈発掘屋〉を生業とする人間だ。この仕事を始めて三年になるが、これほどの当たりに出会えたのはこれが初めてのことだった。

「これでしばらくは飯代に困ることもないな!」

 そう独り言を口にしながら笑い声を上げるトバリ。パソコンが起動したのを確認し終え、バッテリィを外した。

「それじゃあ、次の奴の確認と――」

 別のデスクのパソコンを調べようとしながら口にした言葉は、



 ――――――――パキッ……



 瓦礫の踏み砕かれた音によって閉口された。

 音を耳にした瞬間、トバリは大きくその場から飛び退いて反転、身体全体を音の聞こえた方向――先ほどトバリ自身が入ってきた廊下の方に視線を向け、元から鋭い視線をより一層鋭く細め、音の原因を探る。

 いや、探るまでもない。

 音の原因など、この領域――〈崩壊都市〉では二つしかない。

 一つは人間。トバリと同じように、この場にまだ眠る機械類を求めて訪れた〈発掘屋〉という可能性。

そしてもう一つ。この〈崩壊都市〉が政府の手により不可侵領域と認定されている理由の根源。

 この地が危険地帯と呼ばれる元凶。

 あの《七夜の災禍》以降、この世界に生ける生命を襲った悪夢。

 頭に過る嫌な予感に舌打ちをしながら、トバリは腰に差しているナイフを左手で抜いて、逆手に握る。

 刃渡り二〇センチ程度の小振りなナイフを構え、トバリは視界に捉えたそれを見た。

 のっそ……そんな擬音がつきそうなくらいゆっくりと姿を現したのは、筋繊維を剥き出しにしたような全体が真っ赤に染まった、人とも獣とも形容し難い中途半端な生物。

食人種(カルバニス)〉――彼の存在はそう呼ばれていた。

 名の通り、〈食人種〉は人を襲い、人を食らうことのみを行動概念としている生物の変異体。

 ねちょり……という不快感を煽る音が、〈食人種〉が動くたびに音を立てた。全身から半透明の粘液が垂れ落ちて床を濡らす。

 四足歩行の動物の形をした〈食人種〉――おそらくイヌ科の生物が変異したものだろう。その〈食人種〉の爛々とした光を宿す視線が、ゆっくりとトバリに向けられる。

 ごくり……と、トバリは苦笑いしながら無意識に唾を嚥下し、喉を鳴らした。

 同時に犬型の〈食人種〉がトバリ目掛けて疾駆する。

 ただでさえ足の速い犬型というだけでその速度は目を剥くものだというのに、〈食人種〉と化した犬の速度はさらに早い。

 距離が詰まるのに一秒も必要としなかった。瞬きにして二、三度程度。それだけの時間で、トバリと〈食人種〉の距離はつまり、〈食人種〉は地面を蹴って飛び上がり、その唾液に濡れた無数の牙を帳の喉に突き立てようと飛びかかる。

 それと同時に、トバリも動いた。

 向かってくる〈食人種〉の動きを一挙手一投足見逃さぬ気概で視線をそらさずに動きを見ていたトバリは、〈食人種〉が飛び上がるのと同時に体を開き、直進してきた〈食人種〉の牙から逃れる。

 転瞬――左手に握るナイフを強く握り直し、身体の軸を連動するよう回転させながらナイフを振り抜く。

 ナイフの刃が弧月の軌跡を描き、斬撃が〈食人種〉の喉横を切り裂く。

 浅い――ナイフの柄を通じて感じ取った手応えに、トバリは舌打ちしながら目の前を通り過ぎていく相手を追撃する。

 体勢を崩して床に落下した〈食人種〉が、ギャン! という悲鳴を上げるが、〈食人種〉は即座に立ち上がってトバリを振り返る。が、その時にはすでにトバリが脇をすり抜け、ナイフを大きく振り抜いていた。

 刃が先とは逆側から喉を切り裂く。今度はより深く、より鋭い一撃。静止しているのと変わらない相手になら、一刀で致命傷にすることぐらいは造作なかった。

 皮一枚で繋がっているが、パックリと切り開かれた傷口からは、粘着感のある赤い液体がどろりと流れ出る。だが、その一撃でも〈食人種〉はまだ動いていた。

 必死の一撃を叩き込まれたにもかかわらず、犬型の〈食人種〉は四肢を震わせ――トバリがその動作の意図を察し、阻止するために止めを刺すよりも早く、〈食人種〉は大きく遠吠えた。

 咆哮が空気を震わせ、建物全体へその音が反響(ハウリング)する。

 トバリの耳朶を強く叩く獣の遠吠えを最後に、犬型の〈食人種〉は全身を身震いさせたのを最後に床に倒れ、動かなくなる。

 が、トバリは舌打ちをして周囲に視線を走らせ、神経を研ぎ澄まして警戒する。

 耳に届く、遠くから近付く無数の足音。人間のものではない。今も足元に転がる〈食人種〉と同類の四足歩行の気配。

 トバリは舌打ちをし、フードを目深に被り直す。

「……しくじったな」

 宝の山に飛び込んだつもりでいたが、それが思い違いだということを理解した。

 此処は餌場――いや、狩り場だ。

 手つかずのまだ使える機械という餌におびき寄せられ、この場に群がる人間を〈食人種〉たちが食らうための狩り場。

 存外に頭が回る……と、トバリは〈食人種〉たちの知能に脱帽した。

 ――元々が犬の類ってだけのことはあるな……

 胸中で苦笑いするトバリをねめるように見据える眼光の雨。部屋に入ってくる〈食人種〉たちの突き刺すような、逃すまいとする狩人の視線。

 日すら当たらぬ暗闇に呑まれた廊下から感じる、背筋の凍るような気配は十や二十では足りない。

 その数は数えるのだけで鬱屈してしまいたくなるだろう。トバリは二十七まで数えて早々に諦めた。

「……大穴かと思ったら、実ははずれくじ摑まされた気分だ。こりゃ赤字だな」

 指先で器用にナイフを回転させながらそう嘯くトバリ目掛け、〈食人種〉が一斉に走り出したのを見て、トバリは一目散と割れた窓に向って走り出す。

「お前らの相手なんざしてられねーよ!」

 捨て台詞を残し、トバリは窓枠のサッシに足をかけて走った勢いのまま、その身を虚空へと投げ出した。

 何体かの〈食人種〉もまた、窓の外に飛んだトバリを追って虚空へと飛び出す。まるでレミングの自殺のような光景だが、トバリは落下していく〈食人種〉を見てにやりと笑う。

「ざまあ見やがれ」

 そう言い放ったトバリはというと、彼自身は腰のベルトに備え付けてあったワイヤーを使い、宙吊りのような形で、五階ほど階下に位置するビルの壁際を漂っていた。

「よっ……と」

 身体を揺らし、その勢いを利用して割れた窓目掛けてビルの中に飛び込む。床に着地するのと同時に装置を操作。ワイヤーの先についているフックを外して、残されたワイヤーを回収すると早々に走りだす。

 五階ほど下に降りたからといって、安全な領域に辿り着いたわけではない。

 なにせ相手は犬の姿形をした〈食人種〉。鼻も利くし、足も速い。急いでこのビル自体から脱出しなければ、トバリの身の安全は全く保障されていないのだ。

 足早に部屋を出て、廊下を疾走するトバリの耳に、早くも数階上を走る足音が無数に届いていた。

「くっそ、ついてねーにもほどがあるだろ」

 愚痴を零しながら、トバリは走る速度を上げて階段に辿り着くと、ほとんど飛び降りるのと変わらない勢いで階段を駆け降りる。

 というか、飛び降りた。

 螺旋状になっている階段を、トバリは数階下の向こう側の手摺り目掛けて飛び降りていた。そして手摺りに着地すると同時に身体を反転させ、同じ要領でまた反対側の手摺りへと飛ぶ。

常人なら考えたとしても決してやろうとはしない、命知らずな行動である。失敗すれば一階まで真っ逆さまに落下して死ぬだろう。

だが、トバリはそのようなことは考えていない。失敗するという発想が、彼にはなかった。

 トバリの頭の中には、この方法で一階まで急いで戻るという、その方法が成功するという自分の姿しか存在しない。

 失敗など考えず、成功する未来像のみを脳内にイメージすることで、失敗する際のリスクを相殺している。

 強引すぎる精神論。だが、トバリにとって、この方法こそが上手くいく決定打。

 実際、彼は階段の手摺りを飛び降り往復し、物凄い勢いで階下へと迫っていた。すでに階数は一ケタの位置にいる。

(あと数回でいいな……)

 心の中で呟く。

 脳裏に描くのは成功する未来図(ヴィジョン)。そこに至るための構図(イメージ)

 どの程度の力で、どの程度の高さで、どの程度の勢いで跳ぶか。それを脳で予想測定(シュミレート)する。

 そして跳ぶ。

 数階下の手摺りという名の着地地点。そこを目指して跳躍する。

 重力の手が全身を摑み、大地目掛けて引きずり落とされる。だが、飛んだ勢いまでは消えない。身体は放物線を描き、トバリ自身の身体は階下の手摺り目掛けて落ちていく。

 ブーツの底が、手摺りを捉えた。

足首を曲げ、膝を折り、全身を屈めて、それらの動きを順を追うように動かして、着地の衝撃を受け流す。

足場を踏み締め、体制を整える。

反転。

視線を買いかに巡らせ、着地するべき位置を見定めた。

そして跳躍する――否、飛び降りる。

 もう終着点はすぐそこにあった。階数にして見れば、わずかに五階。それでも十分に高いが、トバリにとって、その程度なら飛び降りるだけで済む程度の高さだった。

 軽い身のこなしで一階の床に降り立ち、上を見上げる。

 気配は遠い。反響する無数の足音はまだだいぶ上から聞こえるものだ。

「……まあ、まだ撒いたとは言い難いか」

 外に逃げても、おそらく〈食人種〉たちは追ってくるだろう。久々の獲物を、そう易々と流すような化け物ではないことは、トバリもよく知っている。

 奴らは、人を食うことだけを存在意義としているような連中だ。そして、奴らの狙いは自分にある。此処から逃げても追ってくるとすれば、その途中で他の同業が狙われない可能性はゼロではない。

「そいつは流石に目覚めも悪くなるし……しゃーない。潰しておくか」

 溜息をつき酷く億劫そうな態度でそう呟くと、トバリはベルトに吊るしてあるチェーンを手に取り、そこに繋がれている物の一つを取り外して、頭上に掲げた。

 トバリの手に握られていたのは、黒一色に染め上げられた、衣装の凝らされた大きめの『鍵』だった。


 ――劣鍵・黒ノ零式。


 それがその鍵に名付けられた名称。

 トバリはその鍵を翳し、意識を集中させる。

 そして視界の先に描く、想像(イメージ)という名の鍵穴。

 本来そこには存在しない、あるはずもない鍵穴を、トバリは目の前にあるのだと想像し、そこに生まれた鍵穴目掛け、鍵を差し込む。

 瞬間、その差し込んだ想像の鍵穴から幾つもの色彩光が生じ、空間に幾何学模様のような図式を描くのを、トバリは認識する。

 それは鍵が正確に差し込まれたことを意味する合図のようなものだ。それを見たトバリは、ほっとしたように一息つき、目を閉じて一呼吸分の間を開けた後、ゆっくりと閉ざしていた口を開き、言葉を連ねた。


「解錠対象:大気/発動現象:急流操作/術式部類:攻撃型/分類属性:斬撃/術式対象:広域・指定なし/発動時間:二十秒」


 今回は事細かい設定入らないだろうと判断し、トバリは大雑把に自分が求める現象を淡々と口にする。

 求めるべき術も、標的も設定し終える。

 耳朶を叩く無数の足音の距離はだいぶ近づいているが、最早危惧するべきことではない。後はこの鍵を捻り、鍵を開くだけなのだから。

 意を決し、トバリはゆっくりと閉じた目を開いて、最後の言葉を口にしる。

「……術式起動。解錠」

 言葉と同時に、トバリは翳す鍵を回した。




 ――――――――――――――――――――――――ガチャ……




 トバリだけに、鍵の開く重々しい金属音が聞こえた。

 同時に、トバリの眼前に描かれていた幾何学模様が再び光を――先ほどより眩い輝きを放った。

 それは鍵の開かれた証明。術式が起動する証。

 光が発すると同時に、トバリの周囲の空気が一斉に爆発したかのように吹き荒れた。

 トバリを中心とした周囲の――ビル全体の大気の流れが変動する。

 空気の流れが一同に集い、渦を描いてその規模を大きくなり、怒涛の勢いを生んでトバリの頭上に打ち出された。

 まるで大気が己の意思を持ったかのように螺旋を描き、今しがたトバリが飛び降りてきた階段目掛け、階段を始めとしたビルのコンクリートを切り刻んで昇る姿は、常識的にはありえない現象だった。

 言葉にするなら嵐の刃か。刃の嵐か。この現象を引き起こす際、トバリはいつもどのような言葉にすればいいのかと首を傾げているが、それは瑣末事である。

 分かっているのは、トバリが『鍵』を用いて生み出したこの嵐は、触れる者を容赦なく切り刻むという特性を持っているということだ。

 生み出された『斬撃の嵐』は、ビルの階段ごとトバリを追ってきた〈食人種〉を粉微塵に切り残でその烈風の勢いに乗せて空高く舞い上げていく。

 ビルすらもバラバラにしていく嵐の様子を見ながら、トバリは「しまった」と言う風に柳眉を下げて頬を掻いた。

「……やりすぎたな」

 それは嵐の規模をさしているのか、それとも〈食人種〉をすべて粉微塵に切り裂いたことをさしているのか……あるいはその両方かそれ以外かは知れないが、トバリの行った術式は、酷く適当であったと言っても過言ではない。

 トバリの用いたこの超常の力――鍵則式。

 これは『鍵』と呼ばれる特殊な術法道具を用いることで引き起こせる――世にいう魔法や魔術に似た神秘の技法だ。

 簡潔に説明すると、この鍵則式とは『鍵』を用い、自身の望む現象を、引き起こす元となる対象に対して想像上の鍵穴を想造し、そこに鍵を差し込んだ後、口頭で干渉すべき対象を選択、さらにどのような現象を、どういった形で引き起こすかなどという流れを構築し、鍵を回すことで術を発動させるというものだ。

 先ほどトバリが口にした言葉は、一連の流れにおける発動術式の構築である。

 鍵を差した対象は『大気』であり、引き起こす現象は『気流の操作』。それによって引き起こされる術は攻撃術式であり、その攻撃方法は『斬撃』に類するもの。

 本来なら事細かく設定しなければならないにも拘らず、トバリが面倒臭がって手を抜いた結果、『斬撃』という攻撃方法に最も適する気流というのが、この『上昇する嵐』という形として引き起こされたのである。

 結果は言うまでもない。

 発動した術式は、一方的な暴力の化身の如く〈食人種〉だけではなくそこにあるすべてを容赦なく切り刻む。

 この術式の発動時間は二十秒。その間、この『斬撃の嵐』は止むことなくビルを内側から遠慮なく粉微塵にしてゆき、トバリはその様をただ呆然とした様子で見上げ続けた。

 そして――運命の二十秒後。

 トバリの手によって発現した『斬撃の嵐』は、内側の文字通り抉り取って、ほとんど外枠しか残っていない、見るも無残な状況と化していた。

 本来あるべきものすらなくなってしまったビルの中身は完全な空洞となり、天井まで綺麗に削ぎ取り、突き抜け切った天井からは曇天が仰ぎ見えた。

 見事なまでの伽藍洞。綺麗さっぱり消え去った上階を見上げ、トバリは乾いた笑みを漏らした。

「……化け物共も消えたが……飯の種も……消えた、よな……?」

 言うまでもないことをあえて口にし、トバリはガックリと肩を落とす。

〈食人種〉を殲滅できたのはいいが、それに伴い先ほど見つけた宝の山が詰まった部屋もまた、術式によって書き消えてしまったのだと確信し、トバリは心の底から自分の適当すぎる行動を後悔する。

 だが、後悔に耽る時間すら、今の彼にはなかった。

 ビシッ……ビシッ……

 何かが徐々に罅割れていくような音が、俯くトバリの耳に囁くように届けられた。

 どうにも聞いていていい気分にはなれない不吉な音に、眉を顰めながらトバリは視線を上げると、パラッ……と細かいコンクリートの欠片が降ってきた。

 顔にかかった欠片を手で拭おうとして、その手の上にまた降ってくるコンクリート片を見て、トバリははたと動きを止めて――次の瞬間ぎょっと目を剥いて立ち上がると、回れ右をしてその場から駆け出した。

 と同時に、微かに聞こえてきた罅割れる音が、より一層大きくなり、音の鳴る数を急速に増していく。

 考えるまでもなかった。本来ならビルの中身がごっそりと抉られた時点で予測すべき事態だろう。先程の『斬撃の嵐』がビルの中身を切り刻んだのなら――当然、このビルを支える柱すらも切り消してしまったということに。

 支えを失ったコンクリートの塊に、自重を支える力など存在するわけもない。瓦解するのは自明の理だ。

 徐々に崩壊の勢いを増すビルから、文字通り飛ぶように逃げだしながらトバリはというと、

「だー! 今日はとことん貧乏くじかっ!」

 自棄になったように叫びながら、怒涛の勢いで崩れゆくビルを背にして走り続ける。

 倒壊の速度が増す中、トバリはひたすらに疾走。風をも追い越す勢いでまっしぐらという勢いでビルの外へ飛び出し、振り返ることすらせずにビルから一目散に逃走する。

 背中に聞こえるいっそ清々しいとすら思える見事な倒壊の音を聞きながら、その崩れ落ちることで生じる衝撃と粉塵に追いつかれまいと飛ぶように走り――

「……ぜぇ……はぁ……ぜぇ……」

 全力疾走することものの数分。肩を上下させて深呼吸し、トバリは流れる汗を手で拭いとりながら完全に瓦礫と化した件のビルを一瞥した。

 見事なまでの完全倒壊を果たしたビルは見るも無残に、その内部で大量に存在した財宝とも言える機械類の数々も藻屑へと変えて鎮座している。

 その有様を見て、トバリはしばし呆然としたのち――がっくりと肩を落とした。

「あーくそ……結局赤字じゃねーか。やってらんねーよ」

 チッ、と舌打ち一つ。仕方なく、今日は切り上げて帰るべきかと考えてる。

 しかし、悪いことは一度起きれば連続して起きるというのはよくあることで。おそらくその事態はトバリにとって――いや、この《崩壊都市》で日銭を稼ぐ【発掘屋】にとって等しい厄介事だろう。


「――――――チェェェェェェェェェェェェェストオオオオオオオオオオオオオ!」


 大音声と共に頭上から降り注ぐ圧倒的な殺気に、トバリは躊躇なく瓦礫の地面を蹴って転がるように前へ飛び出した。

 次の瞬間、背後が爆撃を受けたかのように瓦礫が吹き飛ばされる。数度地面を転がってから地面を叩いて身体を跳ね上げるようにして起こし、トバリは瞬時にナイフを抜き、襲撃者を一瞥し、フードの奥でその渋面を忌々しげに歪めた。

「くそっ。今日は絶対厄日だ」

「私としては、今日を貴様の年貢の納め時としたい限りだぞ。小僧!」

 襲撃者は快活と叫ぶ。無駄に声が大きく、その一言一言に気概を込め、空気を震わせている。トバリの視界の隅にある瓦礫がビリビリと震えているのは、きっと錯覚ではない。

「テメェ如きにしょっ引かれてやる義理も理由もねーんだよ、ヤマト・ヒノハラ!」

 軍服に身を包んだ男――ヤマトは酷く顔馴染みだった。出来れば顔馴染みなどにはなりたくなかったが、何の因果かこの男とは――この男が率いる一団とは縁が深くて困るというのがトバリの感想だ。

「がはははは! 良い啖呵だ小僧! ならば受けてみよ! 我が必殺の超博打撃ちギャラクティカを!」

 そんなトバリの心情など露とも知らぬ――というか知っててもスルーするであろう男は豪快に笑って何処からともなく取り出した大型の機関銃砲を頭上に翳す。

「今博打とか言わなかったか!? というか何で銃口が空を向いてんだよ!?」

 いろいろな意味で驚愕しながら、トバリは素で突っ込みを入れてしまう。

「我が運を持ってすれば、何処に撃とうと標的に当てられるというものよ!」

「あるわけないでしょう、この馬鹿団長!」

 トバリが突っ込むよりも早く、別の方向から突っ込みが飛び、同時にコンクリートの欠片がヤマトの頭に命中した。思わぬ方向からの攻撃に、ヤマトは思わず手に掲げた巨大な銃器を取り落とす。同瞬、地面に落ちたそれを勢いよく蹴り飛ばしたのは、ヤマトと同じ軍服に身を包んだ青年だった。

彼は

「ぐおっ!? いきなり何をするのだ、オミナエシ君」

「それはこっちの台詞です! なにいきなりその自作兵器を空に向かってぶっ放そうとしているんですか!?」

「これはそういう使い方をするための武器なのだよ」

 まくしたてるように声を荒げる青年は何か叫ぼうと重いって口を開いたのだろうが、結局そのまま言葉を呑み込むように口を閉ざした。経験上何を言っても無駄だと悟っているのだろう

と、正直トバリはあの青年にだけは同情を禁じ得なかった。

 しかし、それはそれ。これはこれ。

 彼――カズト・オミナエシには同情するが、彼ら探査師団クサナギに関わると碌なことがないのはいつものことだった。特にこのクサナギの長――ヤマトとは正直数えるのも面倒くさいほど相見えている。

 ちなみに、ヤマトがトバリを執拗に追いかけまわしているのは、おそらく最初の邂逅の際に彼率いるクサナギの全員を懇切丁寧に虚仮にしたのが原因――つまりは完全なまでにトバリに比があるのだが、そんなものを彼が気に留める訳もなく、

「ったく、テメーらが鈍亀並みに鈍いのが悪いのに、それを俺のせいにしてるんじゃねーよ」

 嘲りの言葉を投げながら、トバリはヤマトに突撃し、左手のナイフを無造作に振り抜く。

「小癪な!」

 トバリの強襲にヤマトはしかと反応し、手にしていた巨大機関砲で刃の一撃を受け止める。しかし、

「アホか」

 トバリの呆れ交じりの言葉と共に、彼は無拍子に右腕を振り抜いた。


 ――同瞬、酷く鈍重な音が周囲に響いた。


「ぬおっ!?」

「嘘……だろ!?」

 ヤマトとカズトが、それぞれ驚愕の声を漏らし、

「ざまあみやがれ」

 トバリが不敵な笑みを浮かべる。

 トバリの放った、無造作な力まかせの拳打の先――それはトバリのナイフの一撃を受け止めた機関砲だ。それがトバリの右の一撃を受け、見事なまで砲身は陥没し真ん中からくの字に変形していた。

 その情景に意図まず絶句していたカズトだったが、我に帰るや否や不遜な笑みを浮かべるトバリ目掛けて吐き捨てる。

「くそっ……相変わらず規格外な腕しやがって!」

「テメー見てなもやしと俺じゃあ、元々の鍛え方が違うんだよ」

 トバリの暴言をものともせず、トバリは嘲りの言葉で応酬する。

「ぬぐぐぐぐ……我が新兵器を容易く破壊してくれるとは――もう容赦するまい! 格なる上は我々クサナギ全員が――」

「誰が相手にするかこの脳筋野郎!」

 悔しそうに叫ぶヤマトの言葉が終るよりも早く、トバリはそう叫びながら前飛び出しながら跳躍――ヤマトの顔面を足場にし、そこで再度跳躍し宙高く舞いあがる。

「あばよ、能無し連中!」

 瓦礫の丘の後ろで待機していたのであろう、ヤマトの部下であるクサナギの屈強な男たち約百名の上を飛び越え、トバリはそう捨て台詞を残して脱兎の勢いでその場から逃げだした。

 背後から聞こえる、ヤマトの無駄によく響く野太い声は、当然の如く無視した。


   ◆   ◆   ◆



 都市内にある第十一区画の大通りに位置するこじんまりとした飲食店で、トバリは炭酸飲料のボトルを手にし、不機嫌を隠す様子もなく店主と顔を合わせていた。

 時間にすれば僅かに数時間しかたっていない。あの後〈崩壊都市〉から逃げ帰るように都市に帰還したトバリは、ためらうことなくこの店に訪れたのだが、早くもそのことを後悔し始めていた。

「で、結果何も手に入れられず、骨折り損のくたびれ儲けしたわけかい?」

「うるせーよ」

 ボトルに入った炭酸飲料を煽りながら、不貞腐れた様子でトバリはカウンターテーブルに突っ伏した。

 ちなみに、店の中にはトバリ以外の客は皆無だ。

店の立地の割にはあまり人気がなく、訪れる客が大体固定客であり、そのほとんどが夕刻から夜に訪れることが多いため、昼に訪れる客はほとんどいない。

そのため、トバリは他の客の目を気にすることもなく、カウンターのテーブルで店主に八つ当たり気味に言葉を投げているのである。

 そんなトバリの様子を、長い赤毛が目立つ長身の店主は肩を竦め苦笑する。

 腰まで届く赤毛と、眼鏡をかけた糸目が特徴的な店主の名は、アカツキ=ヒワタリという。本名かどうかは、正直何とも言えないというのが、トバリの正直な感想である。

 見た目だけならまだ二十代後半といったところなのだが、この店主の実年齢を知る人間はだれ一人として存在しない。

 謎は多いが人柄の良い飲食店の主――というのが、常連客の共通した認識だった。

「腕はいいのに時折雑になる辺り、まだまだ君が若いという証拠だよ」

「黙れ、アカツキ」

「ははっ、怖い怖い」

「これっぽちもそんなこと思ってねーだろ、お前」

「そんなことはないよ。君のように目つきの悪い若者に睨みつけられたら、僕は怖くて竦み上がってしまうよ」

「……笑えねーよ、その冗談」

「あはは」

 トバリが今にも食ってかかりそうな眼光と共に黙らせようと睨みつけるが、アカツキはわざとらしい笑い声を漏らすだけだった。

 暖簾に腕押しとはこのことか――と、トバリはバツが悪そうに舌打ちを一つ。もう一度炭酸飲料自棄気味に飲んで、そんなトバリの姿を見て、アカツキは笑みを隠そうともせずに声を漏らした。

 その表情は、親が子の成長を温かく見守るような雰囲気があるため、それがトバリの苛立ちを煽っているのだが、突っ込んでもどうせ流されると踏んだトバリは視線を逸らした。

 そしてトバリがボトルをテーブルに置くと同時に、店のドアに備え付けられているベルが鳴る。

「いらっしゃいま……せ?」

 アカツキが即座に入口に視線を向け、訪れた客に対応するが、その挨拶のニュアンスが疑問形になったのに気づき、トバリはその不自然さを疑問に思いドアの方へと視線を向けて――何となくだが、その理由を理解した。

 店に入ってきたのは、若い女だった。それもかなり身なりのいい、値段もかなりするであろうスーツに身を包んだ黒髪の女性だ。

 はっきり言って、この店を訪れるにはあまりにも不釣り合いな身なりをしているのだ。そんな客が訪れたら、それは誰だって驚くだろう。アカツキの反応は、ある種当然と言えた。

 が、トバリとしては、そんな女性の登場など限りなくどうでも良かった。問題なのは、この女性の隙のなさだ。

おそらくアカツキも気づいているだろう。表情に変わらぬ微笑なのだが、わずかながら相手を威嚇するかのような殺気を纏っているように、トバリには見える。

トバリ自身も、女の動きに細心の注意を払いつつポケットに手を入れ、忍ばせてあるナイフの柄に手を掛ける。

 静まり変えた店内で最初に口を開いたのは、来訪書であるスーツ姿の女だった。

「そう身構えられても、私は貴方がたに危害を加えるつもりはありません」

「そう言われて、はいそうですかと警戒解くとでも思うのか?」

「思いませんね。私なら」

 トバリの露骨な挑発を受け流して、女はそうのたまう。肩すかしをくらったような気分になり、トバリはむっと表情を不愉快そうにゆがめるが、女はそれすら気にも留めずに二人を見据え、

「此処に……トバリ=ツカガミという名の男が出入りしていますね。というか、貴方がそうですね?」

「ご指名ですよ、トバリ」

「……うるせぇよ」

 女の言葉に、アカツキはにこやかにトバリを見て名を呼んだ。素性も知れぬ相手を前にして、簡単に個人の情報を教えるなどという軽率な行動を非難するように、トバリはアカツキを睨み上げるが、彼のにこやかな笑みから、それがワザとだというのがバレバレだ。

 もっとも、トバリ自身逃げも隠れもする気がないので、アカツキの言動を非難する気もないし、しても意味ないだろうということは重々承知しているから、最早何も言うまいという溜息一つ零して、視線を女に向ける。

「俺がトバリだ。が、人に尋ねる時はまず自分から……ってのが礼儀だと思うぜ。もう答えちまったけど」

 トバリの言葉に、女は頤に手をあてて考えるポーズをとり、ほんのわずか逡巡し、

「一理ありますね」

 そう答えた。

「だろ? だからアンタも――」

 女が首肯したのを見て、トバリはそうだろうと言うようにうんうんと首を上下させながら名を問うよりも早く、彼女は――

「――それに応えてやる義理もございませんが」

「なっ!?」

「ぶはっ」

 ――ばっさりと拒否の言葉を唱えた。

 トバリの表情が凍り付き、アカツキが失笑する。そして――

「アカツキ。こいつ殺すぞ」

「ククッ……駄目ですよトバリ……お店の中では――クハハ……」

「お前も笑ってんじゃねーよ!」

 引きつった表情でナイフを抜くトバリを抑えるアカツキだが、笑いを堪えられず、何度も笑い声を漏らす。

 ぎゃーぎゃーと騒ぐ二人をしり目に、女は呆れたようにため息一つ漏らし、

「冗句……だったんですがね」

 そう小さく呟いた。



「名乗り遅れました。シノブ=リョウドウと申します。以後、お見知り置きを」

「ご丁寧にどうも。僕はアカツキ=ヒワタリといいます。今後とも御贔屓を。そして、この出会いを祝って一杯奢ります。何がよろしいですか?」

「ではカルピスの水割りを」

 それはただのカルピスだ。

「承知しました」

 だが、その事実に突っ込みを入れる者は誰もいなかった。

 名乗り合う二人を見て、トバリは何とも言い難い感覚に陥り表情を顰める。お互い無表情と微笑を変えぬまま頭を下げ合う姿は、見ていてこの上なく奇妙な光景だった。

 その横で、トバリはやはりというか、またかというか、相変わらず不貞腐れた表情で、不機嫌そうに口を下に曲げていた。

 イライラとしたように歯ぎしりしている姿は、そこら辺にいるチンピラも同然だ。いや、なまじ腕が立つ分、チンピラよりも性質が悪い気もするが、そのことに突っ込みを入れる者はいない。

 のだが――

「こちらで名前は把握していますが、此処は名乗るのが礼儀ではないですか?」

「ほらトバリ、君も挨拶しないと」

 ――苛立ちに拍車をかける者はいるようだ。

「そういえば、何故彼はいつもフードを被っているのでしょうか? 資料の写真でも、全部フードを被っていましたが……」

「ああ、これですか。昔白髪っていうのと、目つきが悪いって理由で危ない人たちに喧嘩を売られて以来、そういうのが煩わしくて隠すようになっただけですよ」

「……何とも下らないですね」

「中身がまだ子供なんですよ」

「なるほど。納得しました」

 どうでもいいが聞き捨てならない会話をする二人に、トバリはそれだけで人を殺せそうな視線で睨み据える。だが不幸なことに、いつも微笑をたたえるアカツキと、先ほどから全く動じた様子を見せないシノブは、トバリの眼光などあってないのと変わらないという様子でトバリを見ていた。

 意味がないことを早々に悟ったトバリは、わざと聞こえるように大きく舌打ちをして、

「……トバリ。トバリ=ツカガミ」

 そう、渋々といった様子で名を告げた。

「ええ、承知しています」

「うんうん、よくできました」

 やはりしれっと答えるシノブと、幼子を褒めるような態度を取るアカツキの言葉に、殴ってやろうかとトバリは一瞬本気で考えた。

 が、それは胸の内に秘めておくことにして、トバリはシノブに横目にガンをくれる。

「で、なんで俺を探していたんだ?」

 元々シノブが此処に現れたのは、自分に用件があったからのはずだ。なら早々に話を聞いて御退場願おうと思い話を切り出したのだが、当の本人話というと、

「何のことですか?」

「おいっ!」

 無表情に首を傾げるシノブに、声を荒げて突っ込まざるを得なかった。

「冗談ですよ」

「……笑えねえよ。ったく」

 またもしれっと答えるシノブに、トバリは疲れた様子で溜息一つ。

「用がなければ、誰が貴方のような野良犬などに話しかけるものでしょうか」

「って、聞き捨てならねえぞコラ!」

 間髪入れず突っ込みを入れるトバリ。

「冗談です」

「冗談っていえば何でも許されるとでも思ってんのか!」

「はい」

 刹那、トバリがナイフを抜――こうとして、その手をアカツキに摑まれ阻まれる。

「アカツキィィィィィィイ!」

「お店の中で刃傷沙汰は勘弁してよ」

 怒りに大音声を上げるトバリを、アカツキはまあまあと微笑のまま宥める。

「シノブさんも、その辺にして上げて下さい。この子はこう見えて沸点が低いんです」

「つまりは……見た目通りと言うことですね。承知しました」

 アカツキの言葉に対して、シノブは了解の意を示すと、手にしていた鞄から茶封筒を取り出して、それをテーブルの上――トバリの席の前に置いて、

「貴方にご依頼したい仕事があります。内容はその中に入っている資料に」

 その紙袋を置くや否や、シノブは立ち上がって一礼すると「また後ほど」と一言残して店から颯爽と出て行った。

 いっそ清々しいと感じるくらい彼女は店を後にし、その去っていく様を男二人は茫然としたまま見送ることしかできなかった。

「……嵐が去ったな」

「僕個人としては、春風が来た気分だった」

 両者はそれぞれの感想を口にした。そして、

「彼女――忍ですよ」

「忍って……あの忍か?」

「はい。希薄な気配。無駄を徹底的に排除した身のこなし。消されている足音。懐に隠されていた短刀にあちこちに隠された暗器……まず間違いないと思いますよ」

 アカツキの言葉に、トバリはいぶかしむように彼を見る。が、普段微笑しか浮かべない口元はまっすぐに結ばれ、その言葉に冗談がないことを如実に語っているのを見て、トバリは小さく吐息を洩らす。

 忍びとは、俗にいう忍者のことだ。古来からこの日本に存在する影の存在。元々は諜報などを主だった任務とするが、時には破壊工作から暗殺まで広い分野で当代の大名などから重宝されていた。

 忍びはその忍者の流れを組む戦闘訓練を施された人間の総称だ。存在自体が不明瞭で、噂ばかりが飛び交い、実しやか程度にしか思っていなかったが、アカツキがそう言うならば、おそらくそうなのだろうとトバリは一人納得した。

「忍か……だとすると、政府の人間じゃないな」

「だね。彼らは政府を忌み嫌う傾向が強いらしいですから」

 政府と忍びは折り合いが悪いという噂は幾度も耳にしている。それは今に始まったことではなく、《七夜の災禍》以前の時代かららしい。おそらく、歴史でいうところの明治時代に排他された遺恨が今もあるのだろうが、その辺は自分たちのあずかり知るべきことではない。

「まあ、そんなことはどうでもいいさ。今はこれだ」

 トバリは置き土産よろしくとテーブルの上に置かれた茶封筒を手に取った。受けるにしろ、断るにしろ、まずは中身を見ろということなのだろうと解釈し、

「中、見るの?」

「……どんな仕事内容なのかも分からずに断るのも……あれだしな」

「ホント、顔に似合わずお人よしですね」

「黙れ」

 ちょっかいを出してくるアカツキを黙らせながら、トバリは封筒を開けて中を取り出す。中から出てきたのは数枚の文章がびっしりと書き込まれた資料と、一枚の写真が添えられていた。

 そしてその写真を見た瞬間、トバリの表情が強張る。

 思考がその瞬間、確かに静止したのをトバリは実感した。ごくり……と、昼間〈崩壊都市〉にいた時とは全く別の意味で、唾を嚥下する。

「どうかしたのかい?」

 動きを止めたトバリの様子を不審に思ったのか、アカツキが心配した様子で声をかける。

「いや……なんでもない」

 トバリはなんとか頭を振るが、アカツキの言葉など、半分も理解できていなかった。 

 脳がただひたすらに、写真に移るその人物のことのみを考えてした。

 これは誰かが仕組んだことなのか。それとも本当に偶然なのか。それを知るすべなど存在しないし、正直知りたくもない。

 まさか、こんな形で姿を見ることになるとは思わなかった。

 両サイドで括った、地面にまで届くほど長い金髪。

 宝石を思わせる翡翠色の瞳。

 一見しただけでは職人が作り上げた精巧な磁器人形と見間違える、その少女。

 見間違うことなどない。

 記憶の中にある姿とはだいぶ異なるが、成長したとしても、その顔を、姿を、忘れることなどなかった。


 ナツメ=クシナダ。


 写真に映る少女は、叶うのならば二度と出会うことがないことを祈っていた人物だった。












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