突破
ほんの数メートル先で、猫に似た異様な顔の女達が、死肉に集る蛆虫のようにわらわらと蠢いている。皆月鎌を手に握り、首を狩る獲物が現れるのを今か今かと待ち構えていた。間に障壁が無ければ、きっとすぐにでも襲ってきたはずだ。ここに電磁シールドがあることを、コータはコクーンに来て初めて感謝した。ただあの、この世のものとも思えない恐ろしげな姿も隠してくれていれば、もっとありがたかったのだが。
「そういえば切子、あんたどうやってこの中に入ったんだ? シールドは有効のようなのに」
リュウが聞いてきた。
「ああ。別にシールドを破壊したりはしてないよ。後で面倒なことになるかもしれないからね。これで無効にしただけ」
切子は腰に巻いているベルトにぶら下がっているヒップバックから、銀色の小型銃を取り出した。
「これは反電磁銃。侵入する時の必需品。撃つと電磁シールドの力場を乱して、しばらく無効にすることができる。何十秒かだけだけど」
「そんなものがあるのか」
リュウが驚き顔でそれに注目した。
「これはそう特殊なものではないわよ。ちょっとした武器屋ならどこでも扱っているし。私も持っているわ」背後のナツが口を挟む。
「このシールドは、そんな簡単に無効にできるものなのか」
顔をナツに向け、愕然とした様子でリュウは質問した。
「別にここは、最高の防壁が張られているようなところじゃないから。大切に守るようなものがあるわけじゃないし。だから、侵入しようと思えばそう難しいことじゃないわ。ただ今まで、そんなことをする奴がいなかっただけ。そこのお馬鹿が現れるまで」
ナツは肩を竦め、苦笑いを浮かべて切子を指差した。
切子は当て擦りを無視し、つかつかと靴音高く進み出て、シールドの前で立ち止まった。化け猫達の列は、目と鼻の先だ。
「こいつらを突破しなきゃ、外には出られないわけだ」
「そうね。あなたがあの子達に八つ裂きにされるところが見たいんでしょ、パパは」
振り返った切子の問いに、ナツが答える。
「ふん、気持ち悪い奴。できればああいう輩には関わりたくないんだけど。でも、足を突っ込んだ以上、前進するしかないし」
切子は強かな笑みを浮かべた。
「じゃ私は、ここで高みの見物をさせてもらうわ。ああ、あの子達の元になっているのは私だから、動きのパターンは似てると思うわよ」
「そんなこと教えたら、あいつ怒るんじゃないの?」
切子が驚き顔で聞いた。
「かもね」
ナツのきれいな紡錘型の目が、憂いを含んで伏せられた。切子の眉が顰められ、何か言おうとしたのか、唇が動く。だが結局、言葉が発されることはなかった。立ち尽くしている背後の二人に、切子の視線が移る。
「これからここを突破する」
平坦な声で切子が宣言する。恐ろしい光景を目の当たりにして凍り付いていたコータは、この信じ難い台詞のせいで現実に引き戻された。
「何だって!?」思わず声が出た。
「逃げ道はここしかないし、いろいろ考えても時間の無駄だから」
切子はまるで容易いことのように言う。
「あんな化け物が群れ成して作っている壁を、どうやって越えるって言うんだ……」
コータの心は完全にくじけていた。助かりたいのは山々だが、あれほどの数の敵を倒して逃げることができるとは、到底思えなかった。
「あんたにはこれ貸してあげる」
切子は腰に巻いたガンベルトのホルスターを開け、銃を引き抜いて放り投げた。きれいな曲線を描いて手元にまで届いたそれを、思わず前に出てしまった両手で、コータは受け止めた。
「それ、小型だけど散弾銃だし、実弾が出るクラシックなタイプだから、殺傷能力は高いよ」
恐ろしいことを話されて総毛立ったコータは、手にした黒い塊を取り落としそうになった。
「俺にこれを撃てって言うのか」声が震える。
「大体私がやるつもりだけど、あいつら数が多いんで、そっちに手が回らないことがあるかもしれないから。さっき、基本的に自分の身は自分で守れって言ったよね」
「俺こんなもの、使ったことない……」
「助かりたいんでしょ? 引き金を引けば弾は出るよ。撃つ時は両足を踏ん張って反動に気をつけて。別に難しいことじゃないでしょ? それ、安全装置自動になってるから」
コータは怯えながらも、両手で銃のグリップを握り締めた。助かるためには、切子の言うことを受け入れるしかないのだ。
「そっちは?」
切子はリュウに視線を移した。
「ソルジャー型だってことだけど、あんたにも飛び道具渡そうか?」
「いらない」
リュウは即座に答えた。
「久々だが、多分それなりにやれる」
リュウは泰然としていた。まるでこれから、日課の散歩に行こうとでもしているかのように。それは、この状況に慄いているコータには癪に障る態度だった。リュウと比べて臆病者に見られたくなく、同じような平然とした表情を作ろうと、今にも叫び出してしまいそうな恐怖を押さえ付け、コータは唇の両端を持ち上げた。無理矢理作った笑顔は引きつり、頬がぴくぴくと震えてしまう。
「じゃ、後は進むだけだ」
笑いを含んだ切子の声。コータが強ばった首を縦に振ると、勢いよく近付いてきて、指示を始める。
「シールドを無効にしたと同時に、私が化け猫達に斬りかかり、突破口を作る。あんたらはすぐ後ろから付いて来て。できるだけ多く倒すようにするけど、何しろあいつら数が多くて横に広がっているから、取りこぼしはかなりあると思う。そういうのをなんとかするのがあんた達の役目だから。よろしく」
コータはごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃ行くよ。こんなの、時間が経てば経つほど向こうに有利になるだけだから」
そう言ってくるりと踵を返し、切子は再び鋭い靴音を響かせてシールドの前に進み出る。コータとリュウは、急いでその後に続いた。彼女の今の言述が、自分にとって死刑宣告になったりしませんようにと、コータは心の中で祈った。
「がんばって!」
背後から、ナツの無責任な声援。
切子が反電磁銃を取り出し、前に向ける。
「俺の側から離れるな」
コータは、耳元で低く囁くリュウの声を聞いた。
シュウッと、小さな摩擦音のような音が鳴った。それが、戦闘の合図だった――。
「行くよっ」
鋭い声と共に、切子が刀を抜いて飛び出した。一斉に獣面の女達が、彼女を葬り去ろうと前に出る。
シールドは取り払われてしまった。もう後は、なるようになるしかない。コータは恐怖に強ばりながらも、遅れを取らないよう、必死で切子の背中を追った。
刀が閃く。前方から襲いかかろうとしていた女が三人、血を吹き出しながらどっと崩れた。切子がたった一薙ぎで、一気に倒したのだ。女達は、きっと自分の身に何が起こったかわからなかっただろう。それほどのスピードだった。
その一刀を挨拶代わりに、切子は電光石火のごとく次々と攻撃を繰り出した。ハチドリを思わせる、あまりに素早い動きから残像が生じ、右手に持つ小型の刀が腕と一体化しているように見えた。くるくると独楽のように回り、敵をたちまちその渦の中に巻き込み倒しながら、前進していく。切り込まれた女達は恐れをなして浮き足立ち、半月形の陣を成して、じりじりと後退していく。
切子は強い! その確信に、コータの中に希望が蘇った。彼女に比べると、化け猫達の動きは亀のように鈍かった。敵の思わぬ強さに明らかに戸惑っている烏合の群の中に、切子は容赦なく斬り込んでいく。
生温い春の雨のごとき血飛沫が、辺りを朱に染めていく。コータの顔にも服にも、それは振りかかってくる。しかし、不思議と嫌悪感は涌いてこなかった。目の前で行われている惨劇は、とても魅惑的だったのだ。
切子の刀捌きは華麗だった。滑らかでしなやか、そして羽を思わせるほどに軽い。まるで神に捧げる舞踏を見ているかのようだ。切子は体を回転させながら、同時に刀を振り回す。剣術と拳法を合体させたような動作に、彼女の持つ人並み外れた運動能力を感じさせられた。
右前から鎌を振り下ろしてくる相手をひらりと避け、同時に横にいた敵の喉を突いた。左前の女の腕を払い落とし、逆側の女の腹を割く。赤子の手を捻るように容易く、化け物達を葬っていく。
女達の血に塗れながら回る切子の姿は、鬼神を思い起こさせた。その動きには人を惑わす美しさがあり、コータは目を奪われ、いつの間にか恐怖心さえ消え失せていた。彼は、自分が彼女の舞踏を見ている、観客の一人であるような気になっていた。
だが――
「ぼけっとするなっ」
鋭い声が飛び、コータは背後から服を引っ張られ、よろめいた。
はっと我に返ると、リュウがコータの前に立ち塞がっていた。知らぬ間に、切子の刀を免れた女達が両脇から迫ってきていたのだ。
リュウは左から最初に襲いかかってきていた化け猫女の腕を掴むと、軽々と背負い、右側から飛びかかろうとした女達に投げつけた。そして、次々と振り下ろされる月鎌を俊敏に避け、近付いて来る女達の腹に正拳を突き入れる。リュウが敵を難なく排除してくれるので、コータは手にした銃を構える必要もなかった。
その一目で並じゃないことがわかる訓練された動きに驚愕しつつも、コータは何だか面白くなかった。それに、合点がいかなかった。最初に女達が襲ってきた時、リュウは仲間を助けようともせず、コータと共に逃げたのだ。こんなに強いのなら、少しは抵抗すればよかったのではないか……?
「お前何者だ!?」
「戦士型」
コータの問いに、リュウは敵の腕を捻り上げながら答えた。
「だから何なんだよ、それは!?」
「そんなことは後だ。お前はこんなところで死にたいのか」
冷静な声調で言われ、コータは言葉に詰まる。確かに今は、切子の獅子奮迅の活躍の前に化け物どもの攻撃は鈍い。見回すとほとんどの者が、月鎌を構えたまま恐れをなし、身動きできずにいる。切子の桁外れの強さのお陰で、女達の壁はかなり後退していた。だが、この優位がいつまで続くのか。先制攻撃に成功しているとはいえ、敵は百人以上、対してこちらは三人だけだ。どう見積もっても勝ち目の無さそうなその人数の前で、切子がほとんど一人で奮闘しているのだ。いくら強靱な者でも、この圧倒的な戦力の差の前では、いつかは消耗してしまう。案外化け者達は、それを狙って性急に攻撃を仕掛けてこないのかもしれない。真っ向勝負で敵わない相手なら、弱ったところを一気に叩くのが上策だろう。
今のところ、切子に疲れの兆しはない。右に左に軽やかに動き、攻めようとする女達を次々と屠っていた。だが、彼女の体力がどこまで持つのか。いずれ必ず、疲労という最大の敵に襲われる時がやってくる。そうなれば、切子の刃を逃れてコータ達を強襲する敵の数は、今よりもっと膨れ上がるだろう。差し当たりリュウ一人で化け猫達を打ち止めているが、いずれ必ず、自分も戦わなくてはならなくなる。それはわかっているのだが、コータは強張る手に握られている銃を見るだけで大きな不安と恐怖に飲み込まれ、気絶しそうだった。
その時――
「遊びは終わり!」
突然切子が声を上げる。そしてくるりと踵を返し、「ブースに戻れ!」と叫び、刀を鞘に収めながら走ってきた。
コータは慌てた。切子は彼のすぐ横を駆け抜けながら、ヒップバックから反電磁銃を取り出し、シールドに向かって撃った。
その唐突な後退が、一瞬、化け猫達の足をその場に引き留める。
「早く!」
どうやら、切子はブースの中に入れと言っているらしい。戸惑っているコータの腕をリュウが掴み、二人は切子が無効にしたシールドを越える。すぐに切子も続いた。
「伏せろっ」
切子が叫ぶ。
コータはリュウに飛びかかられ、床に倒れ込んだ。体の上に覆い被さられて、息ができずにもがいた時、
耳が潰れそうな爆発音が轟いた――。