挿話 二
【二日目】
ぽつりぽつりと蛍火のように、小さな誘導灯だけが点っていた薄闇から、少しずつゆっくりと照明が明るくなっていく。それがこの世界では、朝が来たということだった。
彼がぱちりと目を開けた。昨晩とは違う、すっきりした顔をしていた。硬い床から身を起こし、立ち上がる。そして、自分が横たわっていた通路の両脇に、様々な大きさ、形、彩色の機械が、みっしりと並べられている風景を、物珍しそうに見た。
彼が入れられたブースは、施設の居住スペースの中で一番広い。年代もののアーケードゲーム機が、過去を模した博物館さながら、おびただしい数据え付けられ、今なら使われそうもない派手な色や不揃いな形が、アンティークな雰囲気を醸し出しながら、ごちゃごちゃとひしめき合っていた。数人同時に遊べる巨大なゲーム機もあれば、一人用の小さな筐体もある。それらの機械類が、平坦なフロアに楽しい表情を与えていた。
彼は視線を下方に移す。数メートル先の床に、数人の青年達が動かない人形のように寝入る姿があった。昨晩、彼の前で名乗った男達だった。どう見ても寝衣ではない普通の服を着たまま、ゲーム機に寄り掛かったり、床に転がったりしている。ここには、ベッドや寝具などは無い。空調を備え、食事を与えて、生活リズムを整えてやれば、それ以上快適な環境は必要無いと考えられているのだ。
次に彼は、きょろきょろと周囲を見回した。顔を上向けた時、何か不審なものを見つけたのか、眉間に皺を寄せた。
視線の方向から、自分を映しているカメラレンズの存在に気付いたのだと推測する。ブースの天井には、黒いドーム型のカメラが、規則正しい水玉模様状にびっしり並んでいるのだ。三百六十度全方向に回転するレンズが、彼の姿を捉えていた。
天井だけでなく、ブース内には、床にもゲーム機にも、至る所に数え切れないほどのカメラが取り付けられている。青年達の姿を、漏らすことなく撮影するために。だが、そのほとんどは、どこに設置されているのかわからないようになっている。せっかく整えられた舞台装置内にそんなものが見えては、演出が台無しになってしまうからだ。
彼はしばらくの間、じっとカメラを見上げていた。何かが思い出せそうで思い出せない、そんなもどかしげな表情で。
立ち尽くす彼の前に、眠りから目覚めた男が一人、近付いて来ていた。
「随分すっきりした顔をしているじゃないか」
不意を打たれ、彼はびくりとする。声を掛けてきたのはファーストだった。
驚かされた彼は、腹立たしげに目の前の男を睨む。だが、向こうは気にかける風もなく、頬に皮肉な笑みを乗せて、近くの筐体に寄りかかっている。
「代わり映えのしない一日の始まりだ。俺は一応グループリーダーだから、お前にここの流儀を教えてやる」
その口調は高圧的だった。彼は不快に感じたらしく、きつく眉を寄せた。だが、ファーストは態度を改めるつもりなど毛頭ないようで、同じ調子で喋り続ける。
「もう大丈夫だな? さっさと行くぞ」
「行く?」
怪訝そうに彼が聞く。
「こんな場所にだって、メシとフロくらいはあるさ。急げ。他の奴らは、お前が馬鹿みたいに天井を見上げている間に、もう行った」
「行った?」
彼は、男達が眠っていた辺りに視線をやる。さっきまで、確かにそこに何人か眠っていたはずなのに、いつの間にかみんな消えていた。
「ここでは、目が覚めたら行く場所があるんだ。各々、起きたらすぐに向かうことになっている。今日は、初日だから俺が付き添うが、明日からは一人で行けるようにしろよ」
ファーストはそう言うと、付いて来いと命じるように顎をしゃくり、通路を早足で進んで行ってしまう。彼は慌てて後を追った。居丈高な男に従わなければならないのは不本意だろうが、何も知らない新参者の立場では、さすがの彼もそうするしかないようだ。
彼は必死の形相で、前を行く男を追いかける。ファーストは歩幅が広かった。それなのに、後ろを気にする素振りも無い。彼は時折小走りになったが、速度を落とすよう懇願したりはしなかった。
彼らは最初、ブースの一番奥のコーナーにいた。巨大体感ゲーム機が設置されている、メタリックな色調の区画だ。そこから、フロアの中央を貫く太い通路を進み、一つしかない出口を目指している。ゲーム機は次第に小型化していき、極彩色が眩しい一人用筐体の波を抜けると、臙脂の床材の色だけが目立つ、何も置かれていないスペースに到達する。そこを七、八メートルほど歩いたところで、唐突にファーストが立ち止まった。衝突しそうになり、彼は慌てて空足を踏む。
「ここが出口兼入り口だ」
振り向きざま、ファーストが言った。苛立たしげな彼の尖った視線を真正面で受けても、まったく悪びれる様子がない。
「どこがだ」
小馬鹿にするように鼻を鳴らす彼。
揶揄する気持ちはよくわかる。確かに、ファーストが示した場所には、出入り口と思われるような扉も、向こうとこっちを遮る壁も、何も見当たらないからだ。そこは、フラットなフロアが、十五メートルほどもありそうな幅広の通路に合流する、見通しのいい場所だった。少し先には、三分の一ほどの幅の通路が左右に交差しているのも見えるし、真っ直ぐ延びる中央通路の両脇に、お洒落なカフェを思わせる配置で、テーブルや椅子が並べられているのも見える。
「今通って来たブースが、これからお前のねぐらになる。見てきた通り元ゲームセンターで、クラシックな機械ばかりだが、結構遊べる」
彼の機嫌に頓着する気はないらしく、ファーストはすました顔で説明を始める。
「これからお前を、メシとフロのある場所に連れて行く。風呂は……まあ、シャワーしか使えないが、一日一回。飯は三回。俺達は指定された時間しかここから出られない。娯楽室と呼ばれる本や雑誌が置かれているブースもあるが、飯の後、余った時間しか入れないから、行く時は時計を確認しろ。トイレはブース内にあるから、それほど困ることはないだろう。で、ここから出る時は――」
急に浴びせかけられた情報の洪水に目を白黒させる彼を見て、ファーストは愛嬌を感じさせる笑顔になる。そして、すっと右手を上げ、大きく左右に振った。
「これでよし」
「何が?」
腑に落ちない顔で彼が聞く。
「これで解除完了だ」
「だから何が?」
「閉じられた世界を、開けた世界に変えた」
「何を言っている? 別に閉じてなんかないじゃないか、ここは。ずっと先の方まで見えているんだから」
「ここのブースは、一つ一つ密室になっている。俺達はその中の一つに、いつも閉じ籠もっていなければならない」
「だからどこが」
要領を得ない説明に苛立ったのか、彼は口調を強める。ファーストが唇の片端を上げた。
「じゃあお前、俺の先を歩いてみろ」
「お前、新入りだと思って、絶対俺をからかっているだろっ」
彼は腹立たしげに、突っ立ったままでいるファーストの横を、大股で通り過ぎる。
「うわっ!」
すぐに彼は叫び声を上げ、何かに弾かれたように後ろに飛び退った。右手をさすり、驚愕した顔で、今通ろうとした、ただの何もない空間にしか見えないところを凝視する。
その様子を面白そうにファーストが眺めていた。
「何だよ、今の……」
動揺した様子で呟く。おそらく彼は、相当強い電気ショックを感じたはずだ。
「だから言っただろ、俺達は閉じ込められているんだって。ここは、其処ら中に電磁シールドが張り巡らされている。目に見えない電気柵さ。これは、決まった時間に、決まった場所でしか解除されない」
ファーストは立っていた場所から少しずれ、足元を指差した。そこには、直径十センチほどの濃い臙脂の丸が染色されていた。床材より数段濃いくらいの色なので、よく目を凝らさないと見落としてしまいそうだ。
「この丸印があるところが、シールドの解除が可能な場所だ。ここで手を振って合図を送れ。そうすれば外に出られる。もちろん、指定時間内しか出してくれないがな」
「やっぱり誰かが俺達を見張っているんだな! あのカメラでっ」
彼は怒りで顔を赤くして、天井を指差した。数多のレンズが彼らを見下ろしている。
「そうだよ。俺達がここで、物質的に不足無く暮らしていけるのは、あそこで俺達を監視している奴らのお陰だろ」
ファーストは淡々と言ってのける。
「なんであんなものに見張られてないとならないんだ!?」
「さあね。そんなこと、考えたこともないな。その内お前も慣れる」
それだけ言って、ファーストは踵を返し、シールドを通り抜けてしまう。早足で数歩進んだ後、彼が付いて来ていないことに気付いたらしく、立ち止まり、振り返る。
「さっさと出て来い。お前はまだ、ここのことを何も知らないだろう? まだ話さなければならないことがあるんだぞ」
せっつかれて、しばらく逡巡した後、彼は意を決してシールドを潜る。どうやら、怒りよりも好奇心が勝ったらしい。足取りは、さっきの電気ショックがよっぽど堪えたのか、薄氷の湖でも渡っているかのような爪先歩きだが。
怖々としたその動作を見て、ファーストが鼻先で笑った。馬鹿にされることに敏感な彼が、眉を吊り上げる。だが、すぐに回れ右をして歩き出してしまったファーストに、怒りをぶつけるタイミングを失くし、むくれた顔でその背中を追いかけていく。
二人は、真っ直ぐ延びる幅広の通路を進む。初めは遅れないよう、懸命にファーストを追行していた彼だったが、次第に馬鹿らしくなってきたようで、段々歩速を緩めてしまう。すると今度は、両脇の壁に沿って並んでいる、家具やインテリアの類に興味を引かれ出したようで、首を忙しなく左右に振り、きょろきょろと辺りを見回す。アンティーク調のテーブルや椅子が並んでいたり、カントリー調のチェストやソファがあったり、モダンでクールな家具が揃っていたり。イメージを同じくするものは大体近辺にまとめられ、各々僅かな間隔を置き、コーナーを形成している。洒落た家具類がずらりと陳列されているその様は、まるでインテリアショップの展示会場のようだった。
「なんでこんなに、いろんな家具が並んでいるんだ?」
失礼な態度への苛立ちより、好奇心の方が勝ったらしく、彼はファーストに駆け寄り、声を張り上げた。
「ここは、イメージごとに別々のブースになっている。電磁シールドで区切られていて、それぞれに俺達みたいなのが入っている」
ファーストは振り返りもせずに答えた。
「ここにいるのは、おまえ達だけじゃないのか?」
「当たり前だ。ここは、百人くらいは軽く収容できる施設だからな」
「この建物は何だ? 随分広いな」
「さあね。噂によると、昔はショッピングモールだったらしいが。俺は、この階と、もう一階下のことしかわからない。それだけでも結構な広さだが……」
話の途中で、突然ファーストが立ち止まった。慌てて急停止した彼は、バランスを崩して躓きそうになる。
「これは重要なことだからはっきり言っておく。俺達は、この階とこの下、その二階しか、行き来が許されてない。その先に繋がる階段はあるが、絶対に行ってはならない。お前もここの一員になったわけだから、ここのルールは絶対に守れ」
振り返り、強い調子で言うだけ言うと、ファーストはまた元の方向に歩き出す。
彼は、一瞬呆気に取られた顔をした。それから、すぐに不快そうに顔を顰め、口の中で何か小さく呟いた後、再び歩き出した。多分、ファーストへの呪詛の言葉でも唱えていたのだろう。
前方正面に、びっしりと本が詰まった仰ぐほどの棚の列が見えてくると、ようやく長かった通路が終わりに近付いていることがわかる。
「ここが娯楽室だ」
ファーストは、本棚が並ぶ突き当りの区画を顎で示すと、右に曲がった。直角に交差している細い通路に入る。少しすると、すぐに階段が見えた。本当は、彼の居住ブースの前にも階段に繋がる通路はあるが、ファーストはその経路を選ばなかった。娯楽室を見せるつもりだったのだろう。
古びたコンクリートの折り返し階段は、上にも下にも続いていた。だがファーストは上には目もくれず、それが当たり前といった態度で下りていってしまう。気になるのか、彼はちらりと上りに視線を走らせたが、すぐに前の男の後を追った。
踊り場で一度反転し、もう一度同じ数の段を下りる。下階に辿り着いた彼の前に、だだっ広いフロアが現れた。向かい側の壁にまで届きそうな、極めて長い木製の机と備え付けのベンチが、ずらりと平行に並んでいる。その連なりは壮観なほどで、彼は右側面の壁まで数メートルの位置に立っているが、左側は突き当たりが見えず、細波のように延々と長机が連続していた。ただ、規模の大きはあっても、シンプルな長方形の机が並んでいるだけの設備は、上階の凝り様に比べると驚くほど簡素で、身窄らしい印象さえあった。
その、灰色の床に茶色の机が続く殺風景な眺めの中で、彩りと言えるのは、食事をしている青年達の姿だった。一人でいる者や、数人で固まっている者達が、ベンチのところどころに腰をかけている。結構な人数が座っているはずだが混雑して見えないのは、ここが広過ぎるからだろう。今日のこの時間、この場所に来たのは、彼らが最後だった。他の住人達は、すでに全員この階に集まっているはずだ。
その光景に目を見張る彼に、ファーストが教える。
「この階には、食堂と風呂場がある。ここは言わば楽屋だ。使える時間は決まっていて、起床したら、とにかくすぐにここに向かうこと。食事と風呂は、どっちが先でも構わない、時間内に済ませればな。とりあえず今日は、先にこっちだ」
二、三歩進み、足元を指差す。
「印がある。ここには、数メートル置きに入り口がある」
丸印の上に立ち、手を振って合図を送る。シールドを越えるファーストの後を、すぐに彼も追う。
食堂に足を踏み入れた彼の耳に、皿にフォークが当たる音や青年達のさざめきが聞こえるようになったはずだ。空気のようなシールドだが、音をシャットアウトする機能も持っているのだ。
ファーストは机と机の間を通り、奥の壁際まで進んだ。壁に沿ってクリーム色のテーブルが直列に並び、その上にところどころ、食事の乗ったトレーが置いてある。今度は左に折れ、テーブルに対して直角状に連なる長机との間にできている通路を真っ直ぐ進む。彼はというと、ひたすらその後を追っていた。
十メートルほど歩いて、ようやくファーストは立ち止まった。くるりと振り向き、棒立ちになっている彼に向け、ぞんざいに言った。
「これお前の」
テーブルの上の、白いトレーを指差している。彼は視線をそこに注いだ。
「お前の名前が付いている」
ファーストの言う通り、パンと玉子、スープなどが乗ったトレーの上に、彼の名前が書かれた紙が置いてあった。
「食事は必ず、自分の名前の入ったものを取れ。薬剤が配布されるが、一人一人の体質に配慮しているらしいから」
「薬!?」
彼が目を剥いた。
「何だ? 薬を服用することなんて、珍しいことじゃないだろう?」
ファーストが鼻先で笑う。
「そりゃそうだけど。でも、どんな薬を飲まされるかわからないと、不安だ」
「こんな狭い場所に、若い男が何人も押し込められているんだ。そりゃ、鎮静剤かなんかだろ」
ファーストは事も無げに言う。
「出されるものは残さず口にしておけ。ここで平和に暮らしていくためにはな」
そして、彼のトレーの側に置かれていた、別のトレーを持ち上げた。
「俺達のグループのトレーは、大体この辺りに置かれているから、覚えておけよ。それ持て」
促されて、彼も自分のトレーを両手で持つ。
近くに、コーヒーメーカー、ポット、水など、飲み物がまとめて置かれているコーナーがあり、ファーストはコーヒー、彼は水とオレンジジュースを取る。
周囲を見回していたファーストが、「行くぞ」と言って、長机の方へ歩き出した。彼はコップの中味を跳ねさせながら、慌てて後を追っていく。
長机と長机の間の、細い通りに入ったファーストは、フロアの中ほどで立ち止まった。四人のグループが食事をしている。同室の者達だった。
彼らに「よぉっ」と気安く声を掛け、トレーを机の上に置き、ファーストはベンチを跨ぐ。一人分の空きを置いて、集団の隣に腰を下ろした。先に食事を始めていた男達が、口々に気軽な挨拶を返す。セカンドにフォース、それからセブンスとエイツが、それぞれ向かい合わせになって座っていた。
彼は少し離れたところで、その様子を戸惑い顔で見つめていた。昨晩、全員と顔を合わせているのだが、記憶がはっきりしていないのだろう。
「ここに座れ」
ぼんやりと突っ立っている彼に、ファーストが指示を出した。自分と四人との間に作った席に、座れと言うのだ。
いささか躊躇した後で、彼は言われた通りの場所に腰を落ち着けた。
「おはよう」
彼の斜め前に座っているセブンスが、人懐っこい笑顔で挨拶した。丸い瞳が小鹿のように愛らしい。まだ少年と呼ぶ方が相応しい年頃だ。
彼ははにかんだ様子で、小声で挨拶を返す。セブンスの隣のエイツと、エイツの前に座っているフォースも、それに応じて挨拶した。彼の隣に座るセカンドだけは、無関心な態度で、前を向いたままコーヒーを啜っている。
「こいつらは、ねぐらが一緒の仲間だ。名前は覚えているか? 昨晩名乗ったが」
ファーストが聞く。
「あ、うーん……何となく……」
彼は困り顔で言葉を濁す。
「昨日は、まだよく目が覚めていない状態だったから。もう一度名前言おうか?」
助け舟を出したのは、がっしりとした体型に似合わない、人の良い笑顔を浮かべるフォースだ。
「悪いが、そうしてやってくれ」
彼ではなくファーストが答え、四人は順に二度目の自己紹介をした。
セブンスと同じ年頃で、凛々しい顔立ちの少年がエイツだ。並外れて端正な顔立ちをしているが、神経質な印象を残すのがセカンド。この男は、さっきから一度も彼を見ようとしなかった。
「俺、もう食い終わった。風呂行っていい?」
エイツが暢気な口調で言った。
「ああいいぞ。どうせこいつとは、これからうんざりするほど顔を合わさなきゃならないんだ」
彼を指差しながらファーストが答える。
「うんざりなんて言い方は……」
セブンスが困り顔でたしなめた。この少年は若いのに、気を回すタイプのようだ。
「いいんだよ。新入りに気を遣ったってしょうがない」
ファーストはぞんざいに言い、パンに齧りついていた彼の頭を、横から軽く小突く。驚いた彼は目を怒らせ、自分を叩いた相手を睨み付けた。慌ててセブンスが取り成す。
「ごめんね、怒らないで。遠慮がないから焦る時もあるけど、頼りになるいい人なんだよ、その人」
「ああ、それは本当だ」
端からフォースも同意する。
「よせ。お前らに褒められると、何か面倒な事でも仕出かしたのかと思う」
顔を顰めるファースト。
「だって本当だから」
「うん、本当だからな」
セブンスとフォースは顔を見合わせて強調する。どうやらわざと大袈裟に褒めて、照れる相手を冷やかしているようだ。
「じゃ、俺行く」
マイペースな性格らしく、エイツが唐突に立ち上がった。
「ちょっと待って、僕も行く」
それを聞いて、ファーストをからかっていたセブンスが、慌てて食べ物を口に詰め込んだ。エイツは慣れっこといった態で、その場に突っ立ったまま待っている。
「じゃ、僕ももう行く」
セカンドが静やかな物腰で立ち上がる。
「飯、あんまり残すな」
セカンドのトレーの上には、まだかなり食べ物が残っていた。それを目敏く見咎めて、ファーストが釘を刺す。名画の中の美青年にも劣らない完璧な笑顔を浮かべ、答えるセカンド。
「腹減ってないんだ。でも、薬はちゃんと飲んだよ」
「しょうがない奴だ」
ファーストが諦め顔で引き下がった。会話する二人の間に挟まっている彼は、居心地悪そうな顔をしている。
「ありがとう」
美しいが、堅い印象だったセカンドの笑顔が、花のように綻ぶ。
「それじゃ俺も」
フォースも腰を上げる。ベンチを跨ぎ、セカンドと肩を並べ、どこかへ歩き去って行く。
必死にパンの残りを口に押し込んでいたセブンスも、ようやく食べ終わったらしい。ファースト達に一言声をかけ、待っていたエイツと一緒に、先に行った二人を追って行った。
ファーストと二人きりでその場に残されてしまった彼は、気詰まりな様子で、ひたすら無言で食べ続けている。
「今の奴らの他に、あと四人同室の仲間がいる。そいつらは閉じてるんで、基本的に一人で行動している。そいつらとも、どうせこれから散々顔を合わすことになるから、わざわざ紹介したりはしないが、この辺で一人で食っているのがそうだ」
そう教えられ、彼は顔を上げて周囲を見回す。確かに近くに何人か、一人で食事をしている者達がいた。
彼はすぐに視線を皿の上に戻し、また食べることに集中する。ところがしばらくして、ふと思い付いたようにぽつりと一言洩らした。
「俺の隣にいた奴、一度も俺の方を見なかった……」
「あいつは人見知りするから。だが、慣れてくれば大丈夫だ。優しい奴だし」
「本当に優しい性格なら、新入りに何か一言声をかけたっていいだろう? 俺の斜め前にいた奴みたいに。あいつは、俺がここに存在していないと思っているような、完全に無視した態度だったぞ」
「仲間の名前くらい、早く覚えろよ」
呆れ顔で咎めたファーストは、すぐに薄笑いを浮かべ、彼を揶揄する。
「お前、案外気の小さい奴だな。自分に注目してくれないと嫌われているような気がして、不安なわけだ」
「何だと!?」
彼は隣の男を睨む。
「そう簡単に怒るなよ」
ファーストはにやにやしている。どうやら彼は気位が高い分、からかうには絶好の相手のようだ。
面白がられていることに気付いたのか、彼は悔しそうに唇を強く引き結び、顔を背けた。少しの間顰め面で虚空を睨んでいたが、心細くなったらしく、かすれた声で問う。
「ここは、一体何だ……?」
「何って?」
「何で、若い奴らがここに集められているんだ? どうやら、誰かに監視されているみたいだし……。何だって俺は、こんなところにいるんだ……?」
「さあね。何でだと思う?」
ファーストが横から彼の顔を覗き込む。不愉快そうに彼が顔を逸らすと、ファーストは真顔になり、忠告した。
「その答えは誰にもわからない。だから考えるな。そんな、腹の足しにならないことより、生きていくために、ここの暮らしに慣れることを考えろ」
パンの残りを口に放り込み、ファーストはくぐもった声で続ける。
「お前は、ここ以外のどこかに行けるわけじゃない。そんな希望は無いんだ。だから今は、ここで上手くやっていくことだけに集中しろ。変に考えるとおかしくなってくるぞ。お前がそうなってしまっても、誰もお前を救い出してはくれないからな」
「ずっとここにいる……」
彼の眉間に深い苦悶の皺が生じる。
「慣れれば、ここだってそう悪い場所じゃない。まず、ここでは飯に苦労しなくていい。それが生きていく上で、一番重要なことだろう? それに、本も読めるし、ゲームで遊ぶこともできる。それから……」
ファーストの顔に、言い知れぬ陰が浮かぶ。
「時々、イベントもある」
「え?」
意味を解せなかったのだろう、彼は詳しい説明を期待し、ファーストに顔を向ける。だが、ファーストは話を切り上げ、彼をせっついた。
「ほら、いい加減早く食え。朝の自由時間は二時間しか無いんだ。風呂の後で、さっき通ってきた娯楽室の中も案内しなきゃならないんだからな」
「もういい……」
急かされることに慣れていない彼は、食欲を無くしてしまったのか、手に持っていたパンを皿に戻した。
「まだ残っているようだが」
「そんなに腹は減ってない。それに、全部食べなくたっていいんだろ? 残してた奴、他にもいただろ」
「食べ切るのが望ましいがな」
ファーストは目を細め、考えあぐねている様子だ。セカンドに許した分、強く言い切れないのだろう。
「わかった。初日ということで大目に見てやる。だが、次からは全部残さず食べろ。それが結局、お前のためだからな。ここの食事は、各人の健康状態を配慮して用意しているらしいから。それから、薬は残していいわけじゃないからな。腹が膨れていても、錠剤くらい流し込めるだろ」
小皿に乗っている錠剤を指差され、強硬な語気に押されたのか、彼は素直に薬を指先で摘み上げ、水で流し込んだ。
それを見届けてから、ファーストは自分の食事を再開した。二、三分で残りをすべて食べ終えてしまう。立ち上がりながら、待っている彼に告げた。
「じゃ、次」
長机の上にトレーを置いたまま、さっさと歩き出したファーストに習い、彼も腰を上げる。
机の間を抜け、左に折れて、朝食が置かれていたテーブルに沿って進む。食堂は、延々と先まで続いているように見えている。彼らの数メートル前にも、同じ方向へ進んでいる数人の青年達がいた。
狐につままれたような顔をして、彼が前方を凝視する。先を歩いていた青年達の姿が、急に跡形も無く消えてしまうことに気付いたのだろう。
「おい、前の奴ら……!」
彼は怯えた様子で右手を伸ばし、前を行くファーストの腕を掴んだ。
「別に消えているわけじゃない。お前もすぐわかる」
ファーストは歩調を緩めず、ちらっと振り向いて言った。素っ気ない声音に怯んだのか、彼は掴んだ手を離す。
ファーストが言ったことは本当だった。無言で歩き続けていた彼が、突然大声を上げた。立ち止まり、驚愕した顔で目を見張り、きょろきょろと辺りを見回している。
「ここが風呂だ。ここと食堂の間には、鏡と同じ作用をするシールドが張ってある。やたら食堂が広く見えただろうが、むしろこっちの方がフロア面積は広い」
ファーストが説明した。終わりが見えなかった長机の波が消え、唐突に違う光景が現れたのだ。
そこは、巨大な虫の巣の中に迷い込んでしまったのかと、慄いてしまいそうな光景だった。人が両手を広げたほどの幅の、長方形の箱のような白い小部屋が、ぎっしりと埋め尽くすようにフロアを占領していた。それは、シャワー設備とトイレ、そして脱衣場がセットになった、コンパクトなユニットルームの連なりだった。
彼は今、ファーストが風呂と呼んでいた場所の一角に立っていた。壁沿いに通路が延び、それに対して並列状に、一群ごとに人が移動できるほどの間隔を空け、横に二室、縦に十室ずつ小部屋が並んでいる。
「こっちだ」
ファーストは彼に声を掛け、通路を先に進んで行く。三番目の角を曲がり、端から五つ目、右側の部屋の前で止まった。
「わかりやすいだろ。五十五番目のブースだ」
振り返り、後を追っていた彼に告げる。ファーストが指差した小部屋の前の扉には、《55》と番号が書かれた札が張ってあった。
「これがお前のシャワールームだ。お前がここにいる間、変更はまず無いから、忘れるな。中に入ると、手前の脱衣場のところに、今日の着替えがハンガーに掛かっているから、シャワーを浴びたらそれに着替えろ。今着ている服は、中に置いたままでいい。着方の指示なんかが書かれたメモがある場合もあるから、棚の上も見ておけよ」
彼は素早く首を縦に振った。どうやら早く中に入りたい様子だ。
「何か聞きたいことはあるか?」
今度は首を横に振る。
「じゃ、終わって、まだ俺がここに来ていなかったら、この辺りに立って待っていろ。この後は娯楽室に行く。あまり長時間入っているなよ」
ファーストはそう言うと踵を返し、来た通路を戻って行く。
彼はほっとしたような顔をして扉を開ける。狭い部屋だが、手前には板張りの脱衣場があり、言われた通り、右壁際のハンガーラックに服が掛かっていた。左側には全身が映る鏡と、タオルや小物が置かれた作り付けの棚もある。奥は、ガラス張りのシャワーブースになっていた。小さなバスタブと便器が見える。
彼は焦った様子でシャワーブースの扉を開け、白い便器に向かった。ズボンのファスナーを下ろし、用を足す。
どうやら、さっきから尿意を我慢していたようだ。就寝中は目覚めないよう、薬で水分調節されているはずだが、まだ上手く作用しなかったのだろう。
それから彼はその場で一気に服を脱ぎ、全裸になった。脱衣所の床の上にそれを放り投げ、白いバスタブの中に立つ。
壁に取り付けられたコックを捻ると、その上の蓮の実のようなシャワーヘッドから、勢いよく湯が流れ出た。白く肌理細かい肌の上を、水滴が滑っていく。
惜しみなく注がれる水流を頭から浴び、彼は大きな溜息を吐いた。肩を落とすその姿から、今の状況への戸惑いと不安が感じ取れる。
彼は上を向き、顔を洗う。ところが、何か気になるものに気付いたらしく、慌てた様子でシャワーを止めてしまう。
もう一度、彼は天井を見上げた。次第にその顔が怒りに染まり、険しくなっていく。
いきなりバスタブから出て、びしょ濡れのまま脱衣室に戻る。盛大に床を濡らしながら、乱暴に棚からバスタオルを引っ手繰り、腰に巻いた。そして、荒々しい動作でユニットルームを飛び出していった。
通路に立った彼は、信じられないものに遭遇した顔で、しばらく呆然としていた。しかし、すぐに癇癪が湧き起こったらしく、罵りの言葉と共にファーストの名を大声で喚き出した。
シャワールームの中にいた者達が、何事が起こったのかと、それぞれのブースから出て、半裸で怒鳴る彼の姿を遠巻きにした。それでも我を忘れている彼は、ひたすら叫び続けている。
ようやく人垣を掻き分け、彼が待ち望んだ男が現れた。相当急いで駆け付けた態で、前髪が濡れたまま額に張り付き、辛うじて下は穿いていたが、上半身は裸だった。
「何をしている?」
怒号を撒き散らすクラッカーボールのような彼に冷笑を向け、ファーストが聞いた。待望の男が現れたことで、彼はやっと喚くのを止める。そして、炯々と燃える目で相手を見据え、怒りに震える声で注進した。
「シャワーブースにカメラがあった」
「あ、そう」
ファーストの答えはあっさりしたものだった。どうやら深刻な事態ではないと判断したらしく、周囲を見渡して声を張り上げる。
「新人が騒いでいるだけだ、大したことじゃない。皆、支度の続きをしてくれ、自由時間が無くなるぞ」
取り囲んでいた野次馬達はそれを聞き、素直に各々のシャワールームへ戻って行く。
「お前、知っていたのか!?」
そんな風に簡単に受け流されるとは思っていなかったのだろう、彼は取り乱す。
「そりゃ知ってたさ。ここじゃ、それが当たり前だから」
「当たり前だって!?」
彼は、眼球が零れ落ちてしまいそうなほどに目を剥いた。ファーストが皮肉めかす。
「いいか。ここで暮らす奴らには、プライベートなんて上等なものは欠片も無いんだ。カメラはどこにでもあるし、風呂だろうがトイレだろうが、俺達は一日中見張られている。だが、そんなこと気にする必要はない。カメラの向こう側の奴らのことを、俺達は一生知ることはできないんだから」
「何で!? 何で知ることができないんだ!?」
「さあね」
ファーストは肩を竦める。
「逆に聞くが、何で知る必要があるんだ? 俺達は、この繭のような世界で、虫のように生きている。俺達を飼っている奴らが誰で、何のためにこんなことをしているのかなんて、飼われる虫けらには意味のないことだろう? 必要な時は、あいつらからこっちに接触してくるさ、シャワールームにメモを置いてな」
「信じられない!! お前ら、何とも思わないのか!? こんな状態でよく無神経に暮らせるな!? こんなのは人間の暮らしじゃない! 家畜か何かじゃないか!!」
これ以上ないほどの激しい憤りで興奮し、彼の顔は真っ赤に染まっている。ファーストが冷酷な眼差しを向けた。
「俺達より家畜の方が、プライベートは保障されているかもな。だが、ここにはここのメリットがあるんだ。だから、右も左もわからない新入りの分際で、あんまり不平を撒き散らすな。お前だって、ここで楽しくやっていきたいだろう? 俺には何を言ってもいいが、ここの流儀がわかるまでは大人しくしておけ。ここには、お前に好意的な奴らばかりがいるわけじゃないからな」
「いいから俺をここから出せよ! こんなところじゃ暮らせない! 出せ!! 出せよ!!」
嘲笑を口元に浮かべ、ファーストが宣告する。
「無理だ。お前はここから出ることはできない。今この場所にいるってことは、そういうことだ」
僅かな慰めもない冷厳な事実に射抜かれ、彼の瞳は絶望に塗り潰されて、光を失う。そして、雷に引き裂かれた樹木のように崩れ落ちていった。
「おい!?」
ファーストが彼を抱き止める。その胸に顔を埋めたまま、彼は動かなかった。