序章
棺桶に似た横長のビルから脱すると、夜のとばりがおりていた。陸風に遊ばれ、切子の散切りの髪がぱさぱさと揺れる。仰ぎ見ると、まばらな星が、ぼんやりとした夜空に張り付いていた。初夏の潮の匂いに鼻先をくすぐられ、一つ小さなくしゃみをする。遠い昔はお台場と呼ばれた埋立地《境界》で、彼女は生きていた。
ここでは日が暮れると、ほとんどの灯りが消えてしまう。だが、海峡を隔てた《東京》の街は煌々と輝き、夜空に篝火を焚き上げている。そのせいでこの街では、ろくに星を見ることができないのだろう。
二年ほど前まで、向こう岸の二級市民でテロリストだった切子は、双子の片割れが死んだことで、一級市民としての権利を得た。それがため、捕らわれた仲間の中でただ一人死刑を免れ、この《境界》に永久追放となった。
ここは、日本と世界の境界で、無法地帯だ。今彼女は、東京が臨める岸辺に沿って延びる道を歩いている。立ち止まり、振り返ると、さっきまでその中にいた廃墟に近い建造物が、闇よりもなお黒く、巨大な影を落としていた。
不気味な景色だが、この街は真夜中が一番いいと切子は思っている。夜が明けて、太陽の光で照らされると、いかにここが荒んだ状態にあるか、一目でわかってしまう。過去は商業地だったこともあるというこの場所には、その頃に建てられたビルが、風雨にさらされるがまま、無残に放置されていた。
切子は海岸に出ることにする。この街と東京との間に横たわる海が見たくなった。
その時背後から、早足に近付いて来る何者かの気配を感じた。切子は全身に殺気を漲らせ、臨戦態勢をとって振り返る。この街では、いつ命を落としても不思議はない。
「待って」
攻撃を留めようとするその声で、自分を追って来たのが誰か悟った。腰にぶら下げた刀の鞘に手を置いたまま応える。
「何?」
「一緒に行く」
小走りで、薄闇でも顔がわかるほどの距離に近付いてきたのは、ナツだった。露出度の高い、鋲や鎖で装飾された赤いキャットスーツを着ている。その曲線は同性である切子が見ても、なかなか悩ましいものがあった。
「何で?」
訝しげな視線を向けてやる。だが怯む様子も無く、ナツは鮮やかな微笑みを浮かべた。自分が十分美しいということを知っている者にしかできない、自信に溢れた表情だ。
「だって、私は今まで、一人で生きたことが無いから。この状況に慣れるまでは、よく知っている人間の側にいた方が身のためでしょ? 私みたいなのが一人でいると、色々と面倒なことに巻き込まれると思うのよ。できれば煩わしいことは避けたいの。それに、私の世話を焼く義務が、あなたにはあると思うし」
「何でよ!?」
「だって、あなたのせいで、パパを裏切るようなことになっちゃったじゃない」
「あんた結局、犬丸を逃がしたでしょうが」
「だけど、あなたの肩を持った私は、コミュニティに戻っても裏切り者の烙印を押されてしまう。私はあなたのせいで居場所を失ったのよ」
ぬけぬけとしたその言い分が心底腹立たしい。それと同時に、切子は深く後悔した。こうしてナツに付き纏われる羽目になったのは、結局全部自分の行動のせいなのだ。
そう、事の始まりは、数時間前に遡る――。
初投稿です。
これからコツコツ投稿していきます。