異変
体が地面に叩きつけられるのではないかと思い、奥歯を噛みしめる。
「――――ッ!!」
衝撃は、なかった。
マリエッタは再び、二本の足で立つ。
体のどこにも痛みはない。
落ちたというよりは、どこかへ移動させられたと表現したほうがいいのか。
「な、なんなの?」
疑問を口にしてから、そっと瞼を開いた。
「え?」
周囲の景色が、がらっと変わっている。
そこは光を通さない、地下部屋のようだった。
石の床の上に直接点された蝋燭が転々と置かれている。
マリエッタの足下には、魔法陣が展開されていた。
しゃがみ込んで、呪文を読んでみる。
指先でなぞった文字は、驚くべきものだった。
「――入れ替わりの、魔法?」
人の肉体は器である。
魂が込められて、初めて生きるのだ。
その魂を、魔法の力で入れ替える。
道は一方通行。二度と、戻れない。
そんな術式が、魔法陣に描かれていた。
今、マリエッタは大聖堂でない場所に立っている。
そして、ある違和感を覚えた。
手のひらを見てみると、それは侍女が毎日手入れしてくれたなめらかな手ではない。
肉刺や皹、切り傷で荒れた手である。
身じろぐと、被っていた頭巾が外れて一房の髪が胸の前に流れてきた。
手に取ると、手入れのなされていない、パサパサな髪の毛だった。
色合いはミルクティーだが、部屋を掃く箒のような荒れた手触りである。
まとう服も、肌触りがよい絹製のドレスではない。ごわごわとした素材の、肌が傷つきそうな硬い布である。
手足を動かすと、妙にぎこちない。
まるで、自分の体でないようだった。
ここで、マリエッタは気づく。
「わたくし、別人になっている!?」
召喚の儀式のあと、目の前が真っ暗になった。
突然目の前に頭巾を被った女が現れて言ったのだ。
――この、恵まれた王女の体は貰った!! と。
「もしかして、もしかして、わたくし、あの御方と魂が、入れ替わってしまったの!?」
マリエッタは手だけでなく、心も震わせる。
ついには、悲鳴をあげた。
「きゃあ!!」
それは、突然の入れ替わりを嘆くものではない。
喜びの叫びだった。
「わたくし、もう王妃様にならなくてもいいの? この体をいただいて、自由に生きてもいい?」
だって、入れ替わりは相手が望んだものである。
そういうことなのだろう。
竜を召喚したのは、おそらくマリエッタではない。マリエッタ自身の呼びかけに応じて現れたという手応えが、まったくないから。
聖獣を召喚した瞬間に、契約の印がでてくるという。魂に刻み込まれ、目を閉じて意識したら繋がりを感じるという。
今のマリエッタには、それがまったくない。
竜は暗闇の中に現れた女性が、喚んだ存在なのだろう。
「でも、いいのかしら?」
別人の体に入ってからというもの、マリエッタは変化に驚く。
まず、体中を巡る魔力を、これでもかと感じていた。
魔法は魔力に呪文を馴染ませ、展開させる。
仕組みはわかっていたものの、これまでどうやって魔力を操るのかわからなかった。
けれども、今はわかる。
試しに、マリエッタは魔法を使ってみた。
魔女術のひとつである、点火魔法である。
灯っていない蝋燭を指差し、呪文を紡いだ。
「――巻き上がれ、火よ!」
すると、蝋燭にポッと小さな火が灯った。
「魔法……使えたわ!」
初めての魔法である。マリエッタは嬉しくなって、その場でくるくると踊った。
この入れ替わった女性がどこの誰かは知らない。
けれども、マリエッタは心から感謝する。
もう二度と、ユウェル殿下の冷たい視線に晒されることはなく、王妃としての重圧に苦しむこともない。
故郷の国民の心配も、しなくていいのだ。
これからは、自由に生きられる。
この体は何よりも大事にしなければ。
「どこの誰かは存じませんが、心から感謝するわ!」
新しい肉体。新しい環境。
そんな中に置かれたマリエッタだったが、心配は欠片もない。
八年間学んだ魔法の知識と、魔法を発動させる魔力があるから。
どこまでも前向きなマリエッタの、第二の人生が今、始まろうとしていた。
◇◇◇
マリエッタが下り立ったのは、地下にある部屋だった。
ここま体の持ち主の家で間違いないのだろう。部屋の隅々から、体内に巡る魔力と同じものを感じる。
魔法使いにとって、家は本拠地。敵が侵入してきたら、一瞬で倒せるほどの魔法が仕掛けられている。
壁や床には、敵を排除する魔法がいくつも刻まれていた。
「えっと、上に、部屋があるのよね?」
壁にはしごがあり、上っていくと窓も何もない、真っ暗な空間にたどり着く。
魔法で灯りを点すと、レンガ造りの部屋であることがわかった。
一面だけ、木の壁である。そこには、魔法陣が描かれていた。
魔法陣に描かれた呪文を、マリエッタは読み上げる。
「開け」
すると、ゴゴゴと音を鳴らし、木の壁が横にずれていく。
目の前に、いきなり書斎が出てきた。
「なっ、これは……!」
すぐに、閉まっていくので、慌てて書斎側へ飛び出した。
振り返った先にあったのは、なんの変哲もない本棚。
出てきた入り口は、なくなっていた。
「もしかして、隠し部屋だったの!?」
マリエッタの心が躍る。
魔法仕掛けの隠し部屋があるなんて、まるで物語の世界のようである。
再び呪文を唱えると、隠し扉が現れる。
「なんてすてきなの!」
まるで、物語に登場する魔法のようだった。わくわくと、心を躍らせる。
マリエッタの興味は、この場だけに留まらない。
書斎から出ると、廊下を挟んだ向こう側にも部屋があった。
「どうも、こんにちは。どなたか、いらっしゃる?」
声をかけるも、返事もなければ人の気配はない。
こういう探し方をせずとも、魔力を使えばいいのだと気づく。
目を閉じ、集中した。
植物が土に根を下ろすように、魔力を家の中へと張り巡らせていく。
すると、マリエッタの中に知りたい情報が流れ込んでくるのだ。
家の中に、人はいない。いたという痕跡も、なかった。
どうやら、ひとりで暮らしていたようだ。
少しだけ安堵する。
住人がいれば、打ち解ける必要があるからだ。
マリエッタは自分が、好かれる性格の持ち主だと思っていない。
老婆とも、最後まで仲良くなれなかったから。
こればかりはどうしようもないだろう。人間、思うように変われはしないのだから。
ほうと息をはき、探索を再開させる。
扉を開いてみると、寝台と丸い円卓があるだけのシンプルな寝室であった。
他にも、いくつか部屋がある。
猫脚のバスダブがある浴室に、鏡に布が当てられた洗面所、大量の保存食が並ぶ棚のある台所に、申し訳程度に用意された客間などなど。
階段を上がっていくと、魔法に使う瓶入りの素材がずらりと置かれた部屋に出てきた。天井には、乾燥させているであろう薬草がぶら下がっている。窓から差し込む太陽の光に当てているのだろう。
屋根裏に続く階段もあり、上っていくと大量の巻物が収納されていた。
巻物――それは、魔法が封じられた紙切れである。
魔法陣と呪文が描かれ、破ることによって魔法が発動されるのだ。
「猫に変身する魔法、花を咲かせる魔法、妖精を召喚する魔法。こちらの巻物は、炎を竜にする魔法ですって!? どれも、素敵だわ!」
開いた巻物は、丁寧に巻き直す。
ふと、端のほうに布がかかった姿見を発見する。
埃を被っていて、長い間触れていないようだった。
そういえば、洗面所の鏡も見えないようにしていた。
不思議に思って、マリエッタは布を取る。
姿見に映るのは、全身を覆う黒い外套をまとう女の姿。それは、予想通りだった。
ただ鏡に映し出された顔を見て、マリエッタは驚く。
「これは――!?」
鏡に映る女性は、マリエッタにそっくりだったのである。
いったいどういうことなのか。
いくら似ていても、これが自分の体ではないことは確かだ。
なぜならば、鏡に映る女性の額には、火傷のような痕があるから。
そっと触れてみる。
火傷を負ってから、長い時を経ているのだろう。
瘡蓋のように、固い触り心地ではない。
火傷の痕はシミやそばかすのように、肌にしっかりと馴染んでいた。おそらく一生、消えることはないのだろう。
それにしても、どうしてこんなにもそっくりなのか。
世界に、似ている人は三人はいるという話を本で読んだことはあったものの、実際に目の前に現れると信じがたい気持ちになる。
同じ性質を持つ存在は、引かれ合うという。
その原理が、働いたのだろうか。
「う~~~~ん」
ひとりで暮らす、額に火傷のある女性はいったいどんな人生を歩んできたのか。
どうして、マリエッタの体と入れ替わりたいと望んだのか。
わからないことばかりである。
考えても仕方がない。そう思って、脳裏を過った疑問は頭の隅に追いやった。
もう一度、鏡を覗き込む。
どうしても、顔より顔の火傷の痕に目がいってしまう。
おそらく、ここで暮らしていた女性も傷跡を気にして、鏡を見ないようにしていたのかもしれない。
「これくらいだったら、お化粧で隠せるわ! 大丈夫!」
魔女術の中に、化粧を施す魔法があった。今度、試してみよう。
火傷の痕なんて、取るに足らない。
そう思ったものの、他人の体を乗っ取っているのではと不安になる。
相手も同じように、マリエッタの体を乗っ取っているのだ。
だから、問題はない。
けれども、心のどこかで引っかかりを覚えてしまう。
マリエッタは外套の頭巾を被り、複雑な気持ちを心の隅へと押しやった。
時間があったら、可愛い外套でも作ろうか。
そんな計画を立てつつ、姿見に布をかけようとしたが――ふと、思いとどまる。
布は埃だらけだったので、干したほうがいいだろう。
少しの間、窓枠にかけておこうか。
マリエッタは屋根裏部屋の窓を開いた。
「――あ!」
霧のような雨がしとしと降っている。
外は明るいと思っていたが、太陽の光は差し込んでいなかった。
不思議な森である。
雨が降っているのに、家がある周囲だけぽっかりと淡い光が差し込んでいるようだった。
庭には、苔や色鮮やかなキノコがぽこぽこと生えている。森のほうは霧がかかっていて恐ろしい雰囲気なのに、この辺りだけはのどかで落ち着いた雰囲気だ。
まるで、物語に登場するような、魔女の家である。
というか、黒い外套をまとう姿や、家にある品々から推測するに、元の体の持ち主は魔女だったのだろう。
「どうしましょう! わたくし、魔女と体が入れ替わったの!?」
『さっきから、ゴチャゴチャとうるさいですわっ!!』




