「海辺の小さな灯り」
都市部から車で1時間程度進んだ場所にある、海沿いのとある小さな町。
さほど観光地化していない、ただ静かに波の音が響く場所に、白い壁と木の扉だけの小さなカフェがある。
『灯り』
看板はそれだけ。営業時間も「気が向いたら開ける」くらいの適当さだ。
店主の私は、元・都会の広告代理店勤務だった、田中遥、35歳。3年前にすべてを投げ出して、この町に引っ越してきた。
理由?
……特にない。
ただ、ある朝目が覚めたら「もういいかな」と思っただけ。
店はもともと古い民家の1階を改装したもの。カウンターは自分で塗った白ペンキが少し剥げかけていて、窓からはすぐそこに海が見える。波の音がBGM代わり。
今日も朝9時過ぎ、のんびりシャッターを上げた。海辺のカフェのテラス、穏やかな波と柔らかな光。
カウンターに立つと、まずコーヒーを一杯淹れるのが日課。
豆は近所の焙煎所から買った浅煎り。苦味より香りを楽しむタイプだ。
開店して最初に来たのは、近所のおばあちゃんの澄子さん。
毎朝のように「今日も開いてたのねぇ」と言いながら入ってくる。
「遥ちゃん、いつものアメリカンでいいわよ。砂糖なしで」
「はい、了解です」
澄子さんは窓際の席に座って、海をぼんやり眺めながらコーヒーを飲む。
時々「昔はここでよく泳いだもんよ」と昔話をぽつぽつ。
私は相槌を打ちながら、カウンターでグラスを拭く。
午後になると、観光客というより、地元の人や通りすがりのライダーがちらほら見える程度。
今日のもう一人の常連さんは、カメラを首にかけた若い女性、名前は知らない。毎週土曜だけ来る人だ。
彼女はいつも同じ席、窓から一番海がよく見えるところに座る。
ブラックコーヒーと、チーズケーキの小さいカットを彼女のもとに。
「今日の海、きれいですね」
「そうですね。風が穏やかだから」
それ以上の会話はない。ただ、同じ空気を共有している感じ。
夕方近くになると、お客さんはぱったり途絶える。
私はカウンターの明かりを少し落として、自分の分もコーヒーを淹れる。
外はだんだん茜色に染まり始める。静かな海に沈む夕陽、穏やかなオレンジの空。
テラスに出て、椅子に腰掛ける。波の音と、遠くの漁船のエンジン音が混ざって、妙に心地いい。
ふと、誰かがテラスにやってきた。先ほどのカメラの女性だ。
「……あの、閉店前でしたか?」
「いや、まだ。コーヒー、もう一杯いかがですか?」
彼女は少し迷ってから頷いた。
二人でテラスに座って、沈む夕陽を眺める。
「ここに来ると、時間がゆっくり流れる気がするんです」
彼女がぽつりと言った。
「私も、そう思います」
特別な言葉はない。ただ海と夕陽と、コーヒーの香りと、波の音。
それだけで、世界は十分に優しかった。
日が完全に沈むと、彼女は「ありがとうございました」と小さく頭を下げて帰っていった。
僕は店の中に戻り、最後の片付けをしながら今日一日を振り返る。
何も起こらなかった。誰かが人生を変えるような出来事もなかった。
ただ静かに、穏やかに、一日が過ぎていった。
それが、私の選んだ幸せの形だった。
明日の朝も、きっとまたシャッターをゆっくり上げて、コーヒーの香りを漂わせよう。
海は今日も明日も、変わらずそこにいるから。
―終わり―




