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短編読み切り

「海辺の小さな灯り」

作者: 空野 翔
掲載日:2026/02/28

都市部から車で1時間程度進んだ場所にある、海沿いのとある小さな町。

さほど観光地化していない、ただ静かに波の音が響く場所に、白い壁と木の扉だけの小さなカフェがある。

『灯り』

看板はそれだけ。営業時間も「気が向いたら開ける」くらいの適当さだ。

店主の私は、元・都会の広告代理店勤務だった、田中遥、35歳。3年前にすべてを投げ出して、この町に引っ越してきた。


理由?

……特にない。


ただ、ある朝目が覚めたら「もういいかな」と思っただけ。

店はもともと古い民家の1階を改装したもの。カウンターは自分で塗った白ペンキが少し剥げかけていて、窓からはすぐそこに海が見える。波の音がBGM代わり。

今日も朝9時過ぎ、のんびりシャッターを上げた。海辺のカフェのテラス、穏やかな波と柔らかな光。

カウンターに立つと、まずコーヒーを一杯淹れるのが日課。

豆は近所の焙煎所から買った浅煎り。苦味より香りを楽しむタイプだ。

開店して最初に来たのは、近所のおばあちゃんの澄子さん。

毎朝のように「今日も開いてたのねぇ」と言いながら入ってくる。

「遥ちゃん、いつものアメリカンでいいわよ。砂糖なしで」

「はい、了解です」

澄子さんは窓際の席に座って、海をぼんやり眺めながらコーヒーを飲む。

時々「昔はここでよく泳いだもんよ」と昔話をぽつぽつ。

私は相槌を打ちながら、カウンターでグラスを拭く。


午後になると、観光客というより、地元の人や通りすがりのライダーがちらほら見える程度。

今日のもう一人の常連さんは、カメラを首にかけた若い女性、名前は知らない。毎週土曜だけ来る人だ。

彼女はいつも同じ席、窓から一番海がよく見えるところに座る。

ブラックコーヒーと、チーズケーキの小さいカットを彼女のもとに。

「今日の海、きれいですね」

「そうですね。風が穏やかだから」

それ以上の会話はない。ただ、同じ空気を共有している感じ。


夕方近くになると、お客さんはぱったり途絶える。

私はカウンターの明かりを少し落として、自分の分もコーヒーを淹れる。

外はだんだん茜色に染まり始める。静かな海に沈む夕陽、穏やかなオレンジの空。

テラスに出て、椅子に腰掛ける。波の音と、遠くの漁船のエンジン音が混ざって、妙に心地いい。

ふと、誰かがテラスにやってきた。先ほどのカメラの女性だ。

「……あの、閉店前でしたか?」

「いや、まだ。コーヒー、もう一杯いかがですか?」

彼女は少し迷ってから頷いた。

二人でテラスに座って、沈む夕陽を眺める。

「ここに来ると、時間がゆっくり流れる気がするんです」

彼女がぽつりと言った。

「私も、そう思います」

特別な言葉はない。ただ海と夕陽と、コーヒーの香りと、波の音。

それだけで、世界は十分に優しかった。

日が完全に沈むと、彼女は「ありがとうございました」と小さく頭を下げて帰っていった。

僕は店の中に戻り、最後の片付けをしながら今日一日を振り返る。

何も起こらなかった。誰かが人生を変えるような出来事もなかった。

ただ静かに、穏やかに、一日が過ぎていった。

それが、私の選んだ幸せの形だった。

明日の朝も、きっとまたシャッターをゆっくり上げて、コーヒーの香りを漂わせよう。

海は今日も明日も、変わらずそこにいるから。


―終わり―


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