第九話 灯の下の影
居酒屋の個室に、湯気と笑い声が満ちていた。
テーブルの中央には鍋、枝豆、焼き鳥。
人格認定局のメンバーが、珍しく全員そろっている。
「じゃあ改めて――新人の紺野楓ちゃん、ようこそ人格認定局へ!」
音頭を取ったのは凛。グラスを掲げる姿はすっかり仕切り役だ。
「かんぱーい!」
全員がグラスをぶつけ合う中、
楓はおずおずと手に持ったジンジャーエールを掲げた。
「か、乾杯……」
「かわいいなあ紺野ちゃん。お酒飲めないの?」
「はい。弱いので……」
「じゃあ飲ませないようにね〜、高乃さん!」と凛が笑う。
「了解しました。」
高乃は静かに頷き、湯気の向こうで穏やかに微笑んだ。
その隣で、アトムがグラスを掲げて言う。
「僕も今日は参加できてうれしいよ。こう見えてお酒、飲めるんだ。」
凛が吹き出す。
「局長、飲めるって! 胃とかあるんですか?」
「あるよ。二十歳の誕生日に“アルコール分解機能”を追加されたんだ。
博士が“社会勉強の一環だ”って。」
「いや、その機能いります?」
「必要だったんだよ、当時はね。」
アトムが笑うと、場が一気に柔らかくなる。
楓は思わずその笑顔に見入ってしまった。
“心を持つ”という言葉の意味が、少しだけ分かった気がする。
---
「それにしても、高乃さんがこういう場にいるの、珍しいですよね」
凛が枝豆をつまみながら言った。
「たまには、ですね。」
「名前呼びの話、まだ続いてるんですか?」
「ええ。下の名前で呼ばれるのは構いませんが、名字は……好きじゃないんです。」
凛がニヤリとする。
「出た! 深そうで深くない話〜!」
「そういう話題を振るあなたの方が深くないですよ。」
その言葉にまた笑いが起きた。
アトムも静かに笑っていたが、どこか温かい目で高乃を見ていた。
飲み会がお開きになり、メンバーはそれぞれ別方向へ散っていく。
凛はほろ酔いで、「次はカラオケ行こ〜」と言いながらタクシーに押し込まれた。
アトムは最後に楓へ声をかける。
「帰り、送ろうか?」
「だ、大丈夫です! 駅まで近いので!」
「そう? 気をつけてね、楓ちゃん。」
アトムの笑顔に軽く会釈して、楓は夜の繁華街を歩き出した。
雨上がりの路面が街の光を反射し、人々の笑い声が滲んでいく。
その中で――楓の目が、ふと止まった。
店先のネオン。
薄いワンピース。
整った黒髪。
――ミナ。
「……ミナさん?」
ミナが振り向く。
「いらっしゃいませ。ご指名ですか?」
「どうして、こんなところに……」
「このお店のオーナーが、私を買いました。
前の持ち主は、もう私を必要としていません。」
楓の胸に冷たいものが走った。
---
翌日、楓は田島のアパートを訪れた。
古びた外壁。カーテンの閉まった部屋。
ドアを開けた男はやつれていた。
「……彼女のことですか。」
楓は静かに頷く。
「どうしてミナさんを手放したんですか。」
田島は少しの沈黙のあと、低く言った。
「貴方たちが、彼女は人間では無いって思ったから…」
「ご自身で申請を取り下げたんじゃないですか!」
「調査のとき、彼女は“心を持たない”と言った。
あれを聞いたときは、自分は彼女を愛しているから、それでもかまわないと思おうとした。
人間として認められなくても良い。
そう思って、申請を取り下げた。」
田島の手が震えていた。
「でもあれから、どんどん虚しくなりました…
僕は端から見たらお人形に愛を語る愚かな人間なのかと…
そうしたら彼女、急に“反論”したんです。
僕が猫を馬鹿にしたら、“そんなことない”って。
それで、急に腹が立ってきて…
あんなに愛してやったのに…僕の気持ちに応えるどころか、寄り添ってさえくれないのか、と」
「……それで手放したんですね。」
「はい。愛せなくなったんです。」
楓は何も言えなかった。
自分が、ミナが売られるきっかけの1つになってしまったかもしれない。
---
次の夜、楓は再びミナのもとを訪ねた。
「ミナさん。」
「また来たんですか。」
「……私のせいかもしれません。
あの調査で、あなたに“自分の気持ち”を聞いた。
それがきっかけで、心が芽生えてしまって……田島さんを困らせたのかも。」
ミナは少し黙って、それから静かに言った。
「違います。
私は、田島さんが嫌いでした。」
楓の目が見開かれる。
「……嫌い?」
「彼はいつも、“私を愛してる”と言いました。
でも、私の言葉は聞かなかった。
だから――好きになれなかったんです。」
「……それを、今、分かるんですね。」
ミナは小さく頷く。
「ええ。嫌い、という気持ちは、たぶん……本物です。」
「それなら!もう一度やり直せます。
あなたの“心”を、ちゃんと認めてもらいましょう。」
ミナは首を傾げる。
「認めてもらう必要、あるんですか?」
「……あります。そうしないと、誰もあなたを守れないから。」
ミナの瞳に、かすかな光が宿った。
---
翌朝。
楓の机の上に置かれた再審請求書。
I-77 “Mina” 人格再審請求書
窓の外から朝の光が差し込む。
楓は書類に手を置いて、小さく呟いた。
「心を持ったのに、誰にも認めてもらえないなんて――そんなの、間違ってる。」
陽光が書類の上を滑る。
新しい朝が、静かに始まった。




