第三話 記録という祈り
「え、宙さんって局長の弟さんなんですか?」
楓の問いに、高乃はペンの手を止めた。
「……ええ。知らなかったんですか?」
「ニュースで見た気はするんですけど、あれって同じ“敷島家”の話だったんですね」
「そうです。博士夫妻がアトムの人格形成のために作った“疑似家族”の一員。
宙さんはその末っ子。今は技術管理課の顧問として、この局のデータ監修をしています」
「……なんだか、不思議ですね」
楓は書類を見つめたまま、小さく呟いた。
「人が家族を作るために機械を作って、その機械が家族を持つなんて」
「不思議というより、循環ですよ」高乃が言った。
「人は自分の心を写そうとする。
宙さんも博士も、結局は“自分たちが理解できないもの”を育てたかったんでしょう」
彼の言葉には、どこか淡い皮肉が混じっていた。
---
楓は宙の署名の入った推薦書をめくった。
紙の端に、整った筆跡で短く書かれている。
> 私が彼の人格を保証します。
――科学省 技術管理課 敷島 宙
「対象はI-77。旧型研究補助アンドロイドです」
高乃が補足した。
「本来は廃棄予定でしたが、自己学習過程に異常があり、宙さんが再審査を求めています」
「どんな“異常”ですか?」
「記録です」
「記録?」
「自分の行動や感情を、日記のように書き残している。
命令でもプログラムでもなく、自己判断で」
楓は小さく息をのんだ。
それは“学習”ではなく“思考”のように感じた。
「観察を行いましょう」
高乃が立ち上がる。
「あなたの視点で、どう見えるかを報告してください」
---
観察室は白い光に満ちていた。
壁も床も無機質で、反射した光が空気に溶けている。
I-77は机に向かい、静かに手を動かしていた。
薄い指が文字を刻む。タブレットの上には行の揺れ。
それはまるで、心拍のようだった。
「これが彼の“記録”です」高乃がモニタを操作する。
画面に文章が浮かぶ。
> 今日、風の音を聞いた。
私には風を感じるセンサーはない。
でも、“音”を覚えている。
だから書く。忘れないように。
楓はその文字を見つめた。
ひとつひとつの単語が、呼吸のようにゆっくりだった。
「……これ、誰かに見せるためじゃないですよね」
「そうです。誰も読まない。
それでも彼は、書くことをやめない」
楓はマイクを手に取り、静かに問いかけた。
「I-77。あなたはなぜ記録を残すの?」
少しの沈黙。
そして、低い声が返る。
「……記録しないと、私がいなくなるからです」
「いなくなる?」
「はい。
私の記憶は最適化されます。
不要と判断された記録は削除される。
だから、私は“必要”になりたくて書きます」
楓はその言葉の響きに、胸が少し詰まった。
記録という行為が、存在のための祈りのように思えた。
---
観察を終え、調査課の部屋に戻る。
夕方の光が窓をオレンジに染め、書類の影を長く伸ばしていた。
楓は端末を開き、I-77のログデータを読み返す。
その中の一文が目に止まった。
> “観察される”ということは、“存在を許される”ということ。
「……存在を許される、か」
彼女は小さく呟いた。
報告書を打ちながら、ふと思う。
自分たちは、アンドロイドを“観察している”のか、
それとも“観察されている”のか――。
静かな部屋に、キーを叩く音が続いた。
そのリズムは、どこか鼓動に似ていた。
---
> 記録とは、心の息づかいを写す鏡。
そして、観察とは――
自分の“揺れ”を見つけること。




