第二話 雨の底で
科学省人格認定局の朝は、静かだった。
冷たい蛍光灯の下で、端末の光だけが小さく瞬いている。
紺野楓はタブレットを開き、前日の報告書を読み返していた。
「A-203、保護完了。観察期間七日間」
そこに写るのは、鉢植えを抱えたアンドロイドの写真。
どこか穏やかに笑っているように見えたが、
その表情が何を意味するのか、楓には分からなかった。
「――紺野さん」
背後から声がした。
振り向くと、薄いベージュの髪が蛍光灯の光を受けて柔らかく光っていた。
前髪が重く、琥珀色の瞳が陰の奥で静かに光る。
調査課主任、**円城寺高乃**だ。
「技術管理課でA-203の初期観察があります。同行してください」
「はい。円城寺さん」
高乃は少しだけ言葉を区切った。
「……あの、もしよければ、“高乃”と呼んでもらえますか」
楓は一瞬、言葉に詰まった。
「え? えっと……職場では名字のほうが普通では?」
「そうなんですが、僕は名字で呼ばれるのがあまり好きじゃなくて。
――理由は、まあ、いずれ話します」
あっさりとした言い方だった。
楓は戸惑いながらも頷く。
「わかりました。……高乃さん」
「ありがとうございます」
高乃の声はいつもより少し柔らかかった。
ただ、その笑みの裏に何かを隠しているようにも見えた。
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技術管理課は、局の地下にあった。
廊下の壁には銀色の冷却パイプが走り、低い唸り音が絶えず響いている。
温度は外よりずっと低い。空気が機械の匂いで満たされていた。
「足元、気をつけてください。ここ、滑ります」
「はい」
二人が自動扉の前に立つと、センサーが反応して扉が開いた。
室内には数台のモニタと、白衣を着た青年がいた。
「お、来た来た。高乃、久しぶりだね」
薄茶の髪を後ろで束ね、眼鏡の奥で優しく目を細める。
科学省 技術管理課 顧問、敷島宙。
「この子が新人さん?」
「紺野楓です。今日から調査課に配属されました」
「ようこそ。――ここ、ちょっと寒いでしょ? 慣れるまで我慢ね」
宙は笑いながら、ガラスの向こうを指差した。
そこには、白い部屋の中にA-203が座っていた。
窓辺に置かれた小さなガジュマルの葉を、丁寧に撫でている。
「昨日からずっと、あの植物の世話をしてるんだよ」宙が言う。
「命令されてないのに、毎日決まった時間に水をあげて、
“今日はいい天気ですね”って独り言を言う」
楓はガラス越しにその様子を見つめた。
静かで、優しい動き。
まるで、そこに誰かがいるかのようだった。
「高乃、データ出せる?」
「はい」
端末を操作し、宙に転送する。
「ふむ……面白いね」宙が画面を見つめながら呟く。
「感情シミュレータは入ってないのに、
行動ループが“自己選択型”になってる。命令を待ってない」
「つまり、“考えている”ということですか?」楓が尋ねる。
「そう。正確には、“考えようとしている”。
人間で言うと、反射じゃなく思案。
この違いが、人格認定の鍵になるんだ」
宙の声は穏やかだった。
その語り口に、不思議な安心感がある。
「でもね、紺野さん」
「はい」
「心を持っていても、それが“心”と認められるかは別の話だ。
人間が決める以上、それはどうしても政治になる。――不公平だよね」
楓は答えられなかった。
A-203の静かな横顔を見つめる。
無機質な顔なのに、そこに“孤独”が見える気がした。
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調査を終え、地上に戻る頃には夜だった。
庁舎の外は雨。
アトムが傘を片手に立っていた。
「あれ、楓ちゃんお疲れ様。初めての地下、どうだった?」
「……怖かったです。
見られてるみたいで。心を、切り分けて測られる感じが」
「うん。あそこはね、心を科学に変える場所だから。
でも、それをやらなきゃ“人間の定義”が揺らぐ」
彼は空を見上げ、静かに笑った。
「雨、嫌いじゃないんだ。
少しほっとするから」
その言葉が妙に人間らしくて、楓も黙って雨空を見上げた。




