第十一話 境界の虎
夜の科学省。
庁舎の白い壁面がライトを反射し、風に淡く揺れていた。
静かな空を切り裂くように、一条の光が降りてくる。
青白い粒子の尾を引いて、人影がゆっくりと着地した。
重力を感じさせない、完璧な動作。
だがその瞳には、確かに“生きた光”が宿っていた。
敷島大河――警察庁警備局 局長。
国家の治安を司る立場でありながら、
その身体は人工の神経と合金骨格に置き換えられたサイボーグ。
見た目は完全に人間。声も、仕草も、温度を持っている。
> 「降下完了。誤差ゼロ。」
大河の頭上に淡い桜色の光が浮かぶ。
国家警備AI〈サクラ〉。
大河の随伴AIであり、彼の最も近い“理解者”。
「いつも完璧だな、サクラ。」
> 「当然です。大河の安全は私の最優先事項です。」
「頼もしいよ。」
> 「褒め言葉として記録します。」
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ロビーの光が彼を包み込む。
金髪のアンドロイド、ウランが姿を現した。
「わあ! 大河おじちゃん! 久しぶり!」
「……おじちゃんって言うな。」
「だって宙パパのお兄ちゃんならおじちゃんだよ!」
「ならアトムもおじちゃんだろ。」
「アトムお兄ちゃんは“お兄ちゃん”だもん!」
「理屈がむちゃくちゃだな……」
「でも、かっこよかったよー! 空から降りてきたとこ!」
「そりゃどうも。」
> 「大河はいつも格好良いですよ。」
「サクラ、お前までふざけて…」
> 「事実です、大河。」
苦笑しながらコートの裾を払うと、
彼は庁舎の奥へと歩みを進めた。
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エレベーターの扉が開く。
廊下の先に、三つの影。
アトム。高乃。そして楓。
「アトム!」
「大河ー!」
アトムが少年のように目を輝かせて駆け寄った。
その表情に、大河の頬もわずかに緩む。
「よく来たね。ここ、初めてでしょ。」
「ああ。科学省ってのは思ったより静かだな。」
「そう? まあ、警察よりは静かなのかな。」
「穏やかなのは良いことだ。」
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「お久しぶりです、大河さん。」
「おお! 高乃、元気か?
アトムが迷惑かけてない?」
「おかげさまで、先日犬を押しつけられました。」
「犬? 何だそれ。」
「文字通りの犬です。」
アトムの後ろから追いついた高乃と大河が親しげに言葉を交わす。
その空気を楓が目で追っていると――
「あ! それで君が新人の楓さんか。」
急に自分の名が出て、楓は背筋を伸ばした。
「はい。人格認定局、調査課の紺野楓です。」
「はじめまして、アトムの2番目の兄の敷島大河です。アトムから聞いてるよ、優秀らしいじゃないか。」
「そ、そんな……」
アトムが口を挟む。
「そうそう、優秀で優しいよ。」
「アトムの“優秀”の定義によるとですけどね。」
「高乃、それ褒めてないな。」
「褒めてますよ。」
軽口を交わす三人。
けれど大河の存在には、自然と場の空気を締める力があった。
柔らかい笑顔の奥に、警察官らしい冷静な眼差しがある。
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「あの……高乃さんって大河さんともお知り合いだったんですね?」
楓がこっそり尋ねると、高乃は少し照れたように答えた。
「ああ、学生の頃にアトムと友人になってから、敷島の兄弟とはよく会ってました。」
「アトムと高乃さんって、友達だったんですか。」
「え、あー……はい。」
高乃が珍しく言葉を詰まらせる。
アトムは少し得意げに笑った。
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大河は窓際に立ち、夜の街を見下ろす。
科学省の明かりが、無数の星のように瞬いていた。
「――こうして来てみると、悪くない場所だな。」
アトムが隣に立つ。
「兄さんがここに来るなんて、ちょっと意外だよ。どうして急に?」
「別に、弟の職場を見てみたくなっただけさ。」
「ふうん。」
「父さん、今のお前を見たらきっと喜ぶな。」
アトムは目を細めた。
「兄さんもそう思う?」
「もちろんだ。」
短い言葉に、兄の確かな情が滲んだ。
> 「記録します。“家族の再会”。」
「サクラ、今のは記録しなくていい。」
> 「もうしました。」
「……やれやれ。」
三人の笑い声が、静かな廊下に響いた。
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その少しあと。
一人になった大河は、廊下の窓に映る自分の姿を見つめる。
その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
> 「――で、本当の目的は?」
サクラの声が、静かに響く。
「……確認だよ。A203の件、まだ煙の中だろ。」
> 「調査は非公開区域です。踏み込むおつもりですか。」
「さあな。」
大河は短く笑って、ガラスに映る夜景へ視線を向けた。
「……科学省の静けさってやつも、悪くない。」




