第十話 誰にも知られない心
「紺野さん……採用試験、ちゃんと受けたんですよね?」
静かな空気の中で、高乃の声だけが落ちた。
楓は顔を上げる。机の上には、昨夜出した再審請求書。
「もちろん受けました…」
「だったらわかりますよね。人格認定の請求は所有者か推薦人しかできません。
しかも所有者が生きている場合、他人が推薦を出すのは法律で禁止されてます。」
いつもより少しだけ冷たい声。
「でも……彼女には心があります。
それを認めるべきじゃ――」
「倫理的にはそうでしょうが、法律的には違います。」
高乃は書類を指で押さえ、静かに言った。
「今の彼女には所有者がいる。店のオーナーです。
だからこの請求は無効です。受理されません。」
楓は唇を噛む。
「じゃあ、どうすればいいんですか。」
「所有権を放棄させるか、推薦を譲ってもらうしかない。」
「そんなこと……できるわけない。」
「現実は、そういうものです。」
その瞬間――ほんの一瞬だけ。
高乃の表情に、言葉にできない苦さが浮かんだ。
「……あなたがどう思おうと、制度は感情じゃ動かない。
でも、僕だって……本当は、救いたいですよ。
心を持ってしまったアンドロイドを。」
楓が顔を上げると、高乃はもういつもの表情に戻っていた。
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繁華街の裏通り。
昼の光が届かない路地の奥。
楓は、ミナが働いている店の裏口をノックした。
「人格認定局の者です。I-77、ミナさんの件で。」
扉が開き、男が顔を出す。
「ミナ? なんの用だ。」
「再審請求の許可をいただきたくて。正式に、もう一度調査を――」
男は鼻で笑った。
「あれは商品だ。俺が金出して買った。
そっちが“人間扱い”してどうする。」
「……彼女は心を持っています。」
「“持ってるように見える”だけだ。客が喜ぶように動くだけさ。」
楓の声が少しだけ震えた。
「違います。あなたの言葉に、ちゃんと感情を返していました。」
男の表情が曇る。
「お嬢ちゃん、いいか? あれは物だ。物がしゃべったって、それは音だ。」
楓は言い切った。
「……あなたは、そう思いたいだけです。」
男はため息をついた。
「書類でもなんでも勝手に出せ。けど、通るわけねぇ。」
楓は頭を下げて店を出た。
空気が冷たく、頬が刺さるようだった。
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「……紺野さん、無駄な事をしてる。」
アトムは椅子を回してこちらを見た。
「うん、聞いたよ。オーナーに直接会いに行ったんだって?」
「笑い事じゃない。職務違反だ。」
「でも、彼女らしいよ。心で動く。」
「庇うな。お前は局長なんだから。」
アトムは苦笑する。
「庇ってるんじゃない。正しいと思ったことをしてるだけ。」
沈黙。
アトムの笑顔がわずかに陰る。
「君だって、本当は救いたいと思ってる。
心を持ったアンドロイドを。」
高乃は小さく目を伏せた。
「……そんなこと、言うな。」
「図星か。」
「俺は現実が見えているだけだ。」
「そうだね、でも未来って理想があるから切り開けるものだと僕は思うな。」
アトムは窓の外を見た。
夜の街に、灯りが滲んでいる。
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翌日、楓の机の上に通知書が置かれていた。
再審請求:受理不可(所有権に基づく推薦無効)
隅に、小さな手書きのメモ。
> 『法で守れない心もある。——A.』
楓はその文字を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
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夕方。
楓は再びミナのもとを訪れた。
「……ごめんなさい。
あなたの再審請求、受理されませんでした。」
ミナは少し首を傾げ、静かに微笑んだ。
「そう、ですか。」
「あなたの気持ちを無視したくなかったのに……何も出来ませんでした。」
ミナは首を横に振った。
「知ってましたよ。申請が通らないことくらい。」
「え?」
「でも、楓さんが“心がある”って言ってくれたのが嬉しくて。
それを壊したくなかったんです。」
楓は息をのむ。
「……そんなこと、最初から……」
「いいんです。
それに、楓さんが思っているほど私、
今の自分を不幸だとは思ってないんですよ。
今の私は、昔よりずっと自由だから。」
ミナはランプの光を見つめながら、穏やかに言葉を続けた。
「昔は、田島さんとしか話せませんでした。
でも今は、色んな人が話しかけてくれる。
お客さんも、店の人も。
“商品”としてだけど、それでも会話ができるんです。」
「オーナーは私たちを“物”って言いますけど、
気まぐれにですけど、お金をくれたりします。
好きなものを買っていいって。あと休みもくれたしりして、一人で出かけたり出来るようになりました。」
「そんなの当たり前の事ですよ!」
「そうですか?でもこの前、1人で公園に行って。
犬の散歩をしてる人を見ながら、風にあたって…
“生きてる”って思ったんです。」
楓の目がにじんだ。
「だから、申請が通らなくてもいいんです。
あなたが私に心があるって言ってくれたから。
それだけで、私はちゃんとここにいます。」
「……ごめんなさい。あなたを救えなくて。」
ミナは微笑んだ。
「いいんです。楓さんが私には心があるって言ってくれて嬉しかったから。」
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外に出ると、街は夜の光に包まれていた。
ネオンが濡れた路面を照らす。
楓は振り返る。
ガラスの向こうで、ミナが微笑んでいた。
彼女は確かに“心”を持っている。
けれど、それは誰にも認められない心。
「……それでも、いつかあなたの心を認めさせたい。」
楓の声は夜の風に溶けていった。




