第一話 心を量る場所
朝の霞ヶ関は、ガラスと風の匂いがした。
スーツの袖を直しながら、紺野楓は地図アプリを見つめる。
「科学省第七棟」――その名前はどこにもない。
似た建物ばかりが並び、入口の標識は古びて霞んでいる。
「……迷った。」
息を吐いた瞬間、背後から明るい声が響いた。
「もしかして、人格認定局?」
振り向くと、金髪を緩くまとめた女性が笑っていた。
白いジャケットにピンクのネイル。場違いなほど華やかだが、
彼女の存在だけで空気が軽くなる。
「はい。今日から配属で……」
「やっぱり! この時間に迷ってる人、全員そうだもん」
彼女は胸元の名札を軽く叩いた。
ウラン――と書かれている。
「私はウラン。科学省の受付やってる。新人さんはここで全員迷うの。人格認定局って地味だからね」
「ありがとうございます。助かります」
「いいのいいの。――あ、ちなみにアトム局長は今日も遅刻ギリギリ。おにいちゃん、朝弱いんだよね〜」
「……おにいちゃん?」
「うん、私の。設計系統的に、って意味だけどね」
ウランは片目をつむって笑う。「血はつながってないけど、家族みたいなもん」
楓は返す言葉を見つけられないまま、ウランのあとをついていった。
最後の扉の前で、ウランが振り返る。
「――ここが人格認定局。ようこそ、“心を量る場所”へ」
扉が開くと、冷たい空調の風が頬を撫でた。
白い床、ガラスの仕切り、最低限の明かり。
空間は静かすぎて、機械の駆動音が鼓動のように響いている。
「紺野楓さんですね。」
声に振り向くと、黒に近い薄茶の髪を持つ男性が立っていた。
重めの前髪が眉を隠し、色素の薄い瞳が淡く光を反射している。
スーツは整っているが、ネクタイは結ばれていない。
「科学省人格認定局・調査課 主任審査官の 円城寺高乃 です。
本日からよろしくお願いいたします」
「紺野楓です。今日からお世話になります」
「どうぞ、こちらへ。庁内をご案内します」
静かで、丁寧な声。どこか距離を置きながらも、やわらかさを含んでいた。
そのとき、背後の自動扉が勢いよく開いた。
「――おはよう。セーフ、かな?」
慌てて髪を整えながら入ってきた青年が、笑顔を浮かべて立っていた。
灰がかった銀の瞳が、室内の光を受けて柔らかく光る。
「局長、またギリギリです」
ウランが苦笑しながら腕を組む。
「ニュース見てたら時間忘れちゃって。ねえ、君が楓ちゃんだね」
「はい。紺野楓です。本日から配属されました」
「僕は 敷島アトム(しきしま・アトム)。人格認定局の局長だよ。
遅刻はするけど、ちゃんと働く人だから安心してね」
冗談めかした声に、楓の緊張が少し解けた。
差し出された手を取る。手のひらは人肌の温かさ。
金属の冷たさはどこにもなかった。
「ようこそ。――ここは、心の在りかを探す場所だ」
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調査課の部屋は、灰と白で統一された静謐な空間だった。
壁一面のモニタ、光を反射しない床。
高乃が机の上から黒いファイルを取り出す。
「初回は同行で現場を見ていただきます。案件番号2431。
対象は旧型介護支援アンドロイド “A‐203”。所有者死亡後も生活行動を継続中。
自治会経由で通報。推薦書提出済みです」
「推薦書、ですか?」
「人格認定審査は、人間の推薦人による推薦書がなければ開始できません。
アンドロイド本人の申請は受理されません」
アトムが頷く。「ねえ、それが今のルール。僕らは“信じられた存在”だけを測る」
高乃が書類を開く。そこには手書きの文字が並んでいた。
> わたしは隣に住んでおります。
あの子はおじいさんが亡くなってからも、毎朝カーテンを開けて
「おはようございます」と言います。
命令ではないと思います。どうか捨てないでください。
わたしは、あの子に“心”があると思います。
紙の端は少し焦げて、折り目がいくつも刻まれていた。
楓は無意識に、指先でその跡をなぞっていた。
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団地は古く、錆びたエレベータがゆっくりと上がる。
扉の先の部屋は静かだった。
玄関の靴は整然と並び、空気はほこりと洗剤の匂いが混ざっている。
「失礼します。科学省人格認定局です」
アトムの声に、奥から返事がした。
「はい」
そこにいたのは、中性的な姿のアンドロイドだった。
首を少しかしげ、柔らかく微笑んでいる。
「おはようございます。お客様、いらっしゃいましたか?」
「A‐203」高乃が静かに端末を開く。「質問をしても構いませんか」
「はい」
「あなたは、なぜ掃除を続けているのですか」
「部屋が汚れるからです」
「誰のために?」
短い沈黙。
A‐203の目が微かに揺れ、視線がテーブルの上の写真に向かう。
笑う老人と、その肩に腕をまわす若い男。
「……“おかえりなさい”を、もう一度言いたいです」
その声を聞いた瞬間、楓の胸が締めつけられた。
理由はわからない。ただ、涙が出そうになる。
アトムが静かに微笑む。
「いいね。とても、大事な言葉だ」
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夕方、庁舎の会議室。
窓の外では白い雲が薄く流れている。
高乃が報告書を開き、淡々と結論を告げた。
「人格認定は見送り。観察対象として保護します」
「異論はないよ」アトムが頷く。「ねえ楓ちゃん、どう思う?」
「……あの子の言葉は命令じゃないと思いました」
「理由は?」
「誰かのためじゃなく、自分のために“待ちたい”と言っていました。
それが……心なのかもしれないと」
アトムは笑った。
「いい答えだね。心は定義できない。でも、感じられる」
高乃が静かに頷いた。「感情は推定ではなく観察です。――今日の観察、良かったですよ」
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夜のロビー。
ウランがカウンターに頬杖をついていた。
「おつかれ、楓ちゃん。初日どうだった?」
「難しかったです。でも……この仕事の意味が少しわかりました」
「ふふ。そう言える人、めったにいないよ」
ウランは笑いながら、ガラスの向こうを指差した。
アトムが一人、書類を片づけている。
「おにいちゃん、どうだった? 優しかったでしょ?」
「はい。少し変わってますけど」
「うん、変わってる。でも、嘘つかない。それがあの人のいちばんいいとこ」
アトムがこちらに気づき、軽く手を振った。
「ねえ、楓ちゃん。――今日のこと、覚えててね」
「……はい」
「痛みは、心がそこにいた証拠だから」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
楓は玄関を出る前に、銘板を見上げる。
科学省人格認定局
――心を量る場所。
夜風が頬を撫でる。
胸の奥に、名もない痛みが残っていた。
それが何かはまだわからない。
けれど、不思議と温かかった。




