第8話 囮
「とう……さん」
その声には、聞き覚えがあった。忘れる筈もない、
「……アリト?」
そう魔物に問いかけてから、バートは己の間抜けさ加減に、思わず笑いを零した。目の前の魔物が、アリトであるはずがない。村人達を殺し、騎士達を殺した魔物の仲間だ。己は一体、何を言っているのだと。
きっとこの魔物は、バートたちに何かの術をしかけているのだ。そうでなければ、魔物がアリトの声で、二人を呼ぶはずがない。
だが、バートは一瞬で我に返ったが、メリサはそうではなかった。メリサはどこか高揚したような表情で、魔物を見つめている。
「そうよ……。アリトだわ。どこかで聞いた声だと思ったの。アリトの声だったのよ……!」
「馬鹿を言うな、あれは魔物だ! よく見ろ!」
一度は逃げることを諦めたバートだったが、目の前の魔物にされた仕打ちに、生きる気力が湧いてきた。
逃げてやる。逃げ切ってやる。自分は、ここで命を落としても構わない。だが、二度も息子を、魔物に喰われてなるものかと。
「何をしている、メリサ! 早く逃げるんだ!」
ここにこの魔物がいるからか、周囲からはすでに魔物の姿は無くなっている。これならば、目の前の魔物さえ出し抜けば、生きてこの場から逃げ切れるかもしれないと算段を付けたのだ。
「待ってあなた! だって、アリトが……!」
「あれはアリトじゃない! 魔物だ!」
バートは舌打ちしたい気持ちを押さえ、逃げるようにメリサを促した。
「いい加減にしろ! アリトはもういないんだ!」
「いるわ! いるわよ! だって、今確かに、アリトの声が……」
かつては、バートが神秘的で美しいと思っていた金色の目をぎらつかせ、メリサが魔物を見つめている。引き寄せたメリサの頬を、バートは力の加減をしながら、それでも弱くはない力で叩いた。
「メリサ! 私たちは親として、早くシリルを安全な場所に連れて行かなければならないんだ! シリルまで失うつもりか⁉」
メリサの視線が、バートの腕の中で泣くシリルへと移った。
シリルはまだ五歳だ。
それでもこの大混乱の中、必死に耐えて、ここまで頑張って来た。途中で転び、脚を怪我するまでは、自分の足で走っていたのだ。シリルの足の怪我に手を寄せ、メリサが「ごめんなさい」と呟いた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、シリル」
正気に戻ったメリサを見て、バートは安堵した。
問題は、目の前の魔物からどう逃げるかだ。こうなったら、シリルをメリサに託し、バートが囮になるしかない。
「メリサ、シリルを頼――」
しかし、バートがそう言いかけたところで、
「かあ、さん」
また魔物が、アリトの声で、メリサを呼んだのだ。
魔物のその一声は、正気に戻りかけていたメリサの心を、過去へと引き戻してしまった。メリサはバートとシリルから離れ、魔物へ向かって走り出した。
「アリト! アリト!! ごめんなさい、アリト……!」
メリサが駆けた先には、漆黒の被毛に大きな翼、紅い目をした魔物がいる。締まりのない口元からはだらだらと涎を零し、まるで餌が自ら飛び込んでくることを喜んでいるかのようだ。
あれがアリトに見えるとは、メリサの心には、もうアリトのことしかないのだろう。シリルとバートの入る隙はない。
いや、そうではなかったと、バートは自嘲した。もうとっくに、メリサの心は壊れてしまっていたのだ。
アリトを喪った時から。あれほど可愛がっていたフィーナに、憎しみを向けた時から。メリサの心は徐々に、徐々に壊れていった。
アリトはバートとメリサにとって、はじめての子だった。優しく聡い子で、末はバートのあとを継ぎ、村長としてこの村を護り、より発展させていくのだろうと思っていた。
アリトに魔力があると判明した時、メリサはそれは喜んでいた。メリサの祖父が、アリトと同じ様に、平民にしては強い魔力を持つ人物だったらしい。
メリサはその祖父を、ずっと一族の誇りとしてきた。
そしてメリサのその誇りは、アリトが魔術師としての才を見出された瞬間、アリトへと移ったのだ。
そのアリトを喪ったメリサの心は、自分の誇りや支えまで失ってしまったようなものだったのだろう。
アリトを喪ってから十年以上経ち、ようやく次子であるシリルを授かった時、バートはメリサの心も同時に戻ってきたと思っていたのだ。だが、それは間違っていた。
メリサの時はずっと、アリトを喪った時から、止まったままだったのだ。
バートはもう、メリサを止めようとはしなかった。
この場から逃げるには、囮が必要だ。
父親が囮になろうが、母親が囮になろうが、息子をこの場から逃がせるならば、どちらでも良いのだ。
「……シリル。母さんは来ない。二人で逃げよう」
バートは腕の中で泣くシリルを強く抱きしめ、駆けていくメリサに背を向け、走り出した。
「アリトッ――……」
まるで悲鳴のような、メリサの叫び声。
その声が、途中で途切れたことに気を取られたバートは、一瞬だけ、後ろを振り返ってしまった。
振り返った先、そこにバートが見たものは――。地面に押し倒されたメリサの細い首に、魔物が食らいついている光景だった。




