第5話 もう別れましょう
カロルと結婚してから、あっという間に十年が経った。
この十年、カロルとフィーナの間には、子どもはできていない。
それでも、カロルとの仲は良好だった。二人が結婚してから、五年の間くらいは。
結婚して五年が経った頃、いつの頃からか、カロルが家に帰ってくるのが遅くなった。しかも帰ってくる時には必ず、正体を失くすほどに、酒を飲んでいるのだ。
身体を心配したフィーナが、もう少し酒を控えるように諭すと、カロルは必ず嫌そうな顔をして、フィーナの視線から逃れるように、寝室へと逃げてしまう。
この五年は、ずっとそんな状態だった。
フィーナは小さく溜息を吐き、腕に輝く銀色の腕輪を撫でた。
この腕輪は、結婚した時にカロルから贈られたものだ。カロルも同じものを腕に嵌めていて、この腕輪をフィーナに渡した時のカロルは、夫婦の証と言って笑っていた。
とても、嬉しかったことを今でも覚えている。カロルの気持ちが、嬉しかったのだ。
けれどもうそろそろ、二人の関係を終わりにするべき時がきたのかもしれない。
この十年の間に、フィーナの両親は相次いで亡くなっていた。もう、誰に遠慮をすることはない。フィーナ一人なら、カロルと別れても、どうとでも生きていける。
もうそれほど若くもないが、フィーナは実際の年齢よりも若く見えるし、最近はまったくそういうことはなくなっていたが、以前のカロルはいつも、フィーナの身体を褒めてくれていた。きっとまだ、この身体を必要としてくれる場所はあるはずだろうと。
久しぶりに帰ってきたカロルは、やはり酔っていた。
あの村から連れだしてくれたという恩は忘れていないし、顔を真っ赤にしたよろよろとした足取りのカロルを見てしまえば、思わず心配してしまう程度には、まだ情も残っていた。
「カロル……飲みすぎよ。身体に悪いわ」
「……放っといてくれ」
「でも、カロル……っきゃ!」
ふらつく身体を支えようと手を伸ばしたフィーナは、カロルにその手を振り払われ、小さな悲鳴をあげた。
カロルは別段、力を入れたわけではないだろう。だが彼は騎士だ。カロルが軽く腕を振ったその拍子に、フィーナの細い身体がテーブルの縁にぶつかり、そのまま床に倒れ込む事態となってしまったのだ。
その光景を見たカロルが酔いから醒めたように目を見開き、申し訳なさそうな表情をフィーナに向けてきた。だが、フィーナを助けることはしない。ただ、小さな声で「……悪かった」と呟いただけだ。
そんなカロルの態度を悲しく思いつつ、フィーナは自らの力で床から立ち上がった。
カロルはフィーナが立ちあがったことを確認すると、両手で顔を覆い、大きく息を吐いた。
「……君が毎晩、寝言で誰の名を呼んでいるか、知っているか?」
カロルの言葉に、フィーナの心臓が大きく反応した。
あまりにも唐突な言葉であったはずなのに、フィーナはすぐに、カロルが何を言っているかを理解できた。
まるで、秘めていた罪を咎められたように、心臓がバクバクと音を立て始めた。
「毎晩毎晩うなされながら、アリト、アリト、と他の男の名を呼ぶ君を、俺はずっと隣で見てきた。この十年、ずっとだ」
――十年。
十年ずっと、自分は毎晩アリトの名を呼んでいたのだろうか。もしそれが本当だとしたら、カロルが滅多に家に帰ってこなくなったことも、当然のことに思えた。
きっと、フィーナと顔を合わせるのが辛かったのだろう。
帰ってくる時に必ず酒に酔っていたのは、素面でフィーナに対峙することが、できなかったからだろう。
カロルは結婚前、アリトのことを、忘れられなくて当たり前だと言ってくれた。だがそれは、ずっと忘れなくて良いと、そういう意味で言った言葉ではなかったはずだ。
「愛し合ったあとでさえ、君が名を呼ぶのは、俺じゃない。君を守って死んだ、幼馴染だ。何年経っても、俺は彼には勝てなかった。もう、疲れたんだよ……」
「カロル……」
フィーナは夫の名を呼んだ切り、何も言えなくなってしまった。
フィーナに、アリトの名を呼んでいる自覚はない。けれど、きっとカロルの言う通りだ。
毎晩、アリトの夢を見るのだ。
まだアリトが生きていた頃、野山で一緒に駆け回った夢。
アリトとメリサと一緒に、野イチゴを摘みに行った夢。
二人で額を寄せ、微笑み合っている夢。
アリトが魔物に喰われている夢。
助けを求めて、フィーナに向かって、手を伸ばしている夢。
毎晩毎晩、フィーナはアリトの夢を見ている。
けれど、フィーナの見る夢の中に、カロルが出てきたことは、一度もない。
「もう……別れよう。フィーナ」
ようやく絞り出したかのような力ない声で、カロルが呟いた。
カロルから別れようと言われたあと、二人は久しぶりに、一つのベッドで共に眠った。互いに背を向け合ってはいたものの、久しぶりに感じた他人の気配は、フィーナに一時の安らぎをくれた。
フィーナの寝入りばな、小さく落とされたカロルの声が耳に届いた。
――幸せにできなくてごめん。
その言葉を聞いた瞬間、フィーナは夫のすべてを許そうと思えた。同時に、カロルに対し、申し訳ないと感じた。
きっとフィーナは心の奥深いところで、カロルのことを受け入れられていなかったのだ。それを感じ取っていたからこそ、カロルもフィーナから離れていったのだろう。
離れるしか、なかったのだ。
アリトのことを持ち出せば、フィーナを追い詰めることになると、カロルには分かっていたから。
カロルの寝息を聞きながら、フィーナは涙を零した。
二人の関係が、傷つけ合うだけのものだと言うのなら。
フィーナと別れることで、カロルを解放できると言うのなら。
――そうね、カロル。もう別れましょう。あなたには、幸せになって欲しいから。




