第11話 物語の終り
「……血の跡だな」
地面にできた血だまりを見て、検分のために村へやって来た騎士は、思わず顔をしかめた。
生臭さの中に感じられる、鉄の匂い。その匂いは、あまりにも大量に血が流れたため、すでに数日は経っているにも関わらず、地面に染み込むことなく残っていた血だまりから漂ってきたものだ。
その血だまりの一つに、鈍い光を放つ何かを見つけた騎士は、その場へしゃがみ込んだ。
騎士が血だまりから引き揚げた赤黒いそれは、ところどころが銀に光っていた。
形状から見て、腕輪のようだった。しかも、すぐ傍にはもう一つ、同じ形状の、しかし大きさの異なる腕輪がある。騎士は、その腕輪も一緒に拾い上げた。
「何ですか?」
「銀細工の腕輪のようだ」
仲間の騎士からの問いかけに、騎士はそう答えた。
魔物たちの大行軍は、今はピタリと止まっている。
大行軍の発生源となった森の近くの村はほぼ壊滅状態だったが、村人たちの半数以上は助かっている。その先にある町にも、大きな被害はでなかった。
最初に魔物たちに遭遇した騎士達にもかなりの被害が出ていたが、それでもあの規模の大行軍にしては、僅かとも言える被害だった。
その被害の少なさも不思議だったが、それよりも不思議なのは、ある時を境に、魔物たちの行軍がピタリと止んでしまったことだ。まるで目的は達したとでも言わんばかりに、皆凶暴性を失い、森の奥へと帰って行った。
その目的というのは、何なのか。検分に来た騎士には、一つ、心当たりがあった。
「その腕輪……捜索依頼の出ていた、カロル・トロスの妻のものでしょうか?」
仲間の騎士の言葉を受け、騎士は「おそらく」と頷いた。
フィーナ・トロスの捜索依頼を出したのは、フィーナ・トロスと最後に会ったと思われる、騎士だった。その騎士は、遅れて魔物との戦いに赴く前、町で途方に暮れたように立ち尽くす、フィーナ・トロスに出会ったそうだ。
その時の彼女の表情がやけに気になった騎士は、町へと戻り次第、彼女の行方を捜した。その時には死亡が確定されていた、カロル・トロスの殉職を知らせるためもあった。けれどやはり、彼女の身を案ずる気持ちの方が、勝っていたという。
そして騎士の心配通り、町のどこにも、フィーナ・トロスの姿は見られず、誰に聞いても、大行軍が治まったあとに、彼女の姿を見たという者は現れなかったのだ。
騎士はこの村へ来る途中、樹の枝に巻かれた、色褪せたスカーフを見つけている。そのスカーフの特徴は、捜索依頼を出した騎士が証言していた、フィーナ・トロスが首に巻いていたというスカーフの特徴と一致していた。
「血だけでは、判別できないが……まあ多分、そうなのだろう」
腕輪の内側に目を留めた騎士は、そう断定した。
内側にはつたない技術ではあったが、カロルからフィーナへと、文字が彫ってあった。となれば、もう一つの腕輪は、おそらくはカロル・トロスのものだ。
この二つの腕輪が一緒にあることについては、今となっては想像するしかない。だがおそらくは、夫の腕輪を見つけたフィーナ・トロスが、形見の腕輪を持ち帰る前に、不運にも魔物に遭遇してしまった。そんなところだろう。そう、騎士は考えていた。
他の者たちは身体の一部どころか、身に着けていた衣服や装飾品すら残さない中、何故この腕輪だけが、この場に無傷で残っていたかの疑問は残る。
だが、もしかしたらフィーナ・トロス自身が、喰われる直前に腕から外し、夫の腕輪と共にこの場へ残したという可能性もある。
死体の一部さえ残らないのならば、否、一部が残っていたとしても、それが誰のものであるのか、判別するのは難しい。ならばフィーナ・トロスは残された者に、腕輪を残すことで自分の最後を知らせようとしたのかもしれないと。
他の者ならば、そこまで機転が利いたかはわからない。だが、フィーナ・トロスならば、それを考えついてもおかしくはない。なにしろ彼女は一度、血だまりしか残さず、人が消滅する様を目撃しているからだ。
ここへ検分に来る前、騎士は仲間の一人から、とある話を聞かされていた。
カロル・トロスの妻、フィーナ・トロスは、幼い頃魔物に襲われたことがあったという。仲間の騎士は、その話を生前のカロルから、直接聞いたらしい。
その時は、一緒にいた彼女の幼馴染が命を賭して彼女を守ったため、本人は軽い怪我だけで済んだのだが、しかし、その時彼女を護った幼馴染は、血だまりだけを残し、身体のすべてを魔物に喰われてしまったという。
「また一人、死亡が確定……ですか。これで、死亡者は七十人以上になりますね。……まあ、これでも少ないほうですが」
「その中には確か、メリサ・ランペルツも入っていたな」
メリサ・ランペルツは、かつてフィーナ・トロスを護って死んだ、アリト・ランペルツの母親だ。
「ええ。夫と五歳の息子は助かったようです……」
「なぜ、夫人だけ?」
「さあ。途中ではぐれてしまったと、夫であるバート・ランペルツは言っているそうです」
「途中ではぐれたのに、妻が死んだことは疑わないのか」
もし本当にはぐれただけであるならば、死体も残していない妻の死を受け入れるよりも、探してくれと、必死で訴える筈だ。少なくとも、これまでに騎士が遭遇した、魔物の被害から生き残った者たちはそうだった。
「……そうですねえ」
あるいは、息子のことがあったからこその、あっけない程の諦めだったのかもしれない。
彼女を守って死んだ幼馴染が村長の息子だったことから、フィーナ・トロス――当時はフィーナ・バスタとその家族は、カロルがフィーナとその家族を村から連れ出すまで、村全体から腫れ物のような扱いを受けていたのだという。
特にフィーナに辛く当たっていたのが、メリサ・ランペルツだったそうだ。
とはいえ、フィーナとその家族を迫害した村人たち。彼等にだって、そうせざるを得ない想いがあったはずだ。
息子を魔物に殺された両親。
それが誰かを護るためとはわかっていても、きっと割り切れるものではなかっただろう。
そして、そんな両親の気持ちに寄り添った村人たち。
その者たちが権力者だというのなら、フィーナたち家族を哀れと思いつつも、自らの家族と生活を守るために、迎合せざるを得なかったのだろう。
「……死亡したと思われる、村の者たち全員。フィーナ・トロスとその家族に、特に辛く当たっていた者たちだとか」
「滅多なことを言うな。今度は呪いだの何だのと、フィーナ・トロスは死してなお、誹りを受けることになる」
「俺が言ったんじゃありませんよ。助かった村人たちの証言です」
たとえ村人たちの言う通り、魔物に喰われて死んだ者たちすべてが、フィーナ・トロスとその家族に辛く当たっていたとしても。
しかしそれだって、生きながら魔物に喰われる程の罪ではないはずだ。少なくとも、騎士はそう考えていた。
もし彼らに起こった悲劇が、彼等の犯した罪故のことだと言うのなら――。この世界には、一体どれ程の罪人が溢れてしまうことか。
「……一度は魔物から逃れたというのに、結局は捕まってしまったのだな」
魔物は、狙った獲物を決して逃さない。何年経とうとも、驚くほどの執着で、思いもかけない手を使い、これと定めた獲物を捕まえるのだ。
魔物たちが動きを止めたのは、きっとフィーナ・トロスを手に入れた時だろうと、騎士は確信していた。
おそらくは――。
――おそらくは、彼女を見初めていたのは、魔物を率いるような強い存在だった。そしてその魔物は、たった一人の相手を手に入れるため、魔物の大行軍を起すほどに、彼女に魅入られていたのだ。
その魔物が、本当に幼いフィーナ・トロスとその幼馴染を襲った魔物なのかということに関しては、単なる騎士の想像に過ぎない。そして何故、再び行動を起こすまでに、ここまで時間がかかったのかもわからない。
わかっているのは、フィーナ・トロスという人物は、よほどその魔物、あるいは魔物たちにとって、魅力的な獲物だったのだろうということだけだ。
何年経とうとも薄れぬ、強い執着は、まるで――。
「……まるで恋のようだな」
顔を俯けていた騎士の呟きは、血だまりに吸い込まれるように消えていった。
「捜索依頼の出されていた者の中に、生存者はいない。そう、上に報告だ」
騎士の言葉に、仲間の騎士が短い返事で答えた。
馬へと跨り、町へと向かい駆けだす直前、振り返り様に騎士は呟く。
「どうか安らかに……」
魔物に喰われた者の魂は、この世を彷徨い続けると言われている。そのことを知っていてもなお、騎士は、祈らずにはいられなかったのだ。
フィーナ・トロスの苦難に満ちた人生と、その壮絶なる最期を知る者として。




