第1話 幸せだった頃
鼻腔をくすぐる、仄かな甘い香り。
小麦と、花蜜と、牛酪が奏でる、幸せの香りだ。
目の前に出された手作りの焼き菓子に、フィーナは口元を緩ませた。
「美味しそう……!」
思わず歓声を上げれば、「ありがとう」と、焼き菓子を作った人物から、笑いを含んだ返事が戻って来た。
「いっぱい食べてね、フィーナちゃん。アリト、フィーナちゃんの分まで食べないでよ」
「食べないよ」
幼馴染のアリトが、母親であるメリサからの忠告に、拗ねたように口を尖らせた。
メリサの作る焼き菓子は、とても美味しい。ただでさえ、花蜜も牛酪も高価なものだというのに、その上、森で摘んできた、甘味の強い木苺を乾燥させたものまで入っているのだ。美味しくないわけがない。
「俺、木の実が入っている方が好きだし」
「ふふ。じゃあ、それは今度作ってあげる」
仲良くね、と言って、メリサは部屋を出て行った。
フィーナはさっそく、木苺の焼き菓子に手を伸ばした。焼き菓子は、まだ暖かい。作り立てなのだろう。一口齧れば、仄かな甘みと酸味、そして香ばしさが口内に広がった。
「……美味しい」
うっとりと焼き菓子を味わうフィーナに続き、アリトも一つ焼き菓子を手に取った。しかしアリトはその焼き菓子を、たった一口で食べきってしまった。
「もっと、味わって食べれば良いのに」
「だって、いつも食べてるし」
そう言いながら、アリトは二枚目の焼き菓子に手を伸ばした。その姿をぼんやりと見つめながら、フィーナは口を開いた。
「……アリトはいいわよね。もう将来が決まっていて」
まるで嫉んでいるかのような発言だったが、その実、置いて行かれたようで寂しいという想いの方が勝っている。
だが、それを素直に口にするのは、何だか気恥ずかしい。そのため、先ほどのような言葉になってしまったのだ。
「何だよ、急に」
「だって……」
アリトは八歳、フィーナは七歳。二人ともに、普通なら、まだ将来のことなど決まっていない年齢だ。だが、アリトはそうではない。しかも、アリトには二つの道がある。
そして、そのどちらを選んだとしても、きっとアリトの将来は明るいのだろう。そう。少なくとも、フィーナよりは。
けれど、そんなフィーナの想いを知ってか知らずか、アリトは、フィーナに向けて意味ありげに微笑んだ。
「フィーナの将来だって、決まってるだろ?」
整った、けれど男らしい太い眉の下にある大きな金色の瞳が、夕日を受けた川面のように輝いていた。
「決まってるって? どういうこと?」
首を傾げるフィーナに対し、アリトは一瞬だけ、不貞腐れたような表情を見せた。
「フィーナは大きくなったら、俺のお嫁さんになるって約束したじゃないか」
確かに、今よりもさらに幼い頃、そのような口約束を交わした覚えはある。けれど、子どもたちのそのような無責任な約束を、今のフィーナは信じてはいなかった。
「でも……私とアリトじゃ、身分が違うわ」
「馬鹿だな、フィーナ。同じ平民で、身分も何もないだろ?」
アリトはそう言うが、それは真実ではない。
少なくとも、フィーナはそう思っている。
「あるわ。アリトは村長の息子だもの」
牛酪と花蜜をふんだんに使う焼き菓子は、フィーナの家にとっては、かなりの贅沢品だ。けれどアリトの家では、こういった焼き菓子を頻繁に作っているらしい。
週に一度だよと、アリトは以前言っていたが、フィーナの家では、こんな焼き菓子は、これまで一度も作ってもらった覚えはない。
フィーナの両親は、フィーナの友人たちの両親と比べ、随分と年老いている。お互いが再婚同士で、お互いに、以前の伴侶と子どもたちを亡くしているのだ。そんな二人が家族となり、やがてフィーナが生まれた。
両親の年齢は、すでに四十に近い。村での仕事のほとんどは、体力を使う仕事だ。年老いた両親はその分仕事を減らすことになるため、フィーナの家は、裕福とは無縁の家庭だった。
父親が村の長で、母親が町の裕福な商人の娘であるアリトの家とは、大違いなのだ。
「それに……アリトは一月後には王都に行って、魔術師様になるのよ?」
村の男の子たち憧れの職業である騎士よりも、さらに選ばれた者がなる職業。それが魔術師だ。
アリトには魔力がある。
それが発覚したのは、アリトが六歳の時だった。
転んで膝を擦りむき、泣きじゃくっていたフィーナに、アリトが子ども騙しのお呪いをかけたのだ。
本来ならば、それはただのお呪いで終わるはずだった。けれど、フィーナの怪我は、本当に治ってしまったのだ。
家へ帰ったアリトがそのことを両親に説明し、驚いた両親が村で唯一の教会へと出向き、そこでアリトには魔力があると発覚したのだ。
「すぐに魔術師になれるわけじゃないよ。まずは見習いから」
「同じよ。将来魔術師になるのは確実じゃない」
「そんなことはわからないよ。俺よりも才能ある奴なんて、きっと王都には大勢いる」
自分の才能を低く見積もっているかのようなアリトの発言に、フィーナは頬を膨らませた。
自分でも何がそんなに面白くないのかはわからなかったが、とにかく、アリトの言動の何もかもが、面白くなかったのだ。
やけに大人びたアリトの口調も、フィーナを置いて、王都に行ってしまうことも、何もかも。
だが、アリトはそんなフィーナに怒るでもなく、むしろ嬉しそうに口角を上げた。
「むくれるなよ。大丈夫。絶対、フィーナのこと迎えにくるから。フィーナの将来は、俺のお嫁さんだ」
――勝手に決めないでよ。
そう言おうとしたフィーナだったが、その言葉が実際に口から放たれることはなかった。
当然のように口にされた言葉が、恥ずかしい。
フィーナの将来を勝手に決めている、アリトが憎らしい。
心の中は、そんな感情で溢れていたというのに――。
この時のフィーナは、アリトに対して何を言うこともできず、ただ顔を真っ赤にしながらむくれるので精一杯だった。




