第三章 婚約は突然に⑤
官舎に戻って、そこでデルフィーナは気づいた。ステファノがいないということは、今夜はヒカリと二人きりだと。
あんまり意識し過ぎないほうがいいわよね。婚約者だからって急に何か態度を変えるって……ないわよね?
デルフィーナがそんなことを考えながら灯りを点けて回っていると、ヒカリが声をかけてきた。
「……あの、ちょっと教えてほしいんだけど。この町に絵の道具を売っているお店あるかな?」
「絵の道具? 簡単なものなら文具を扱っている雑貨屋さんがあるけど、本格的な絵の具とかは王都に行かないとないかもしれないわ」
この町は魔法庁と魔法学院が中心にできた。だから魔法関係の店や設備は充実していても、それ以外は乏しい。王都が近いのもあるかもしれない。
ヒカリは少しがっかりしたように頷いた。
「そうなんだね……」
「ヒカリは絵を描くの?」
「昔はね。忙しくてしばらく描いてなかったんだ。久しぶりに描きたいと思ったんだけど道具がないから……」
「そうなの……。だったら王都に買いにいきましょ?」
「王都に?」
「明日長官が王都に婚約の手続きに行くはずだから、同行できないか聞いておくわ。それに別件だけどいずれヒカリを王都の神殿に連れて行こうと思ってたの」
午後、王宮から戻ってきたらシルヴィオに神殿からの書状が届いていた。
「神殿がヒカリに正式な謝罪をしたいって。まだ日程は決まってないけど、謝罪なのに人を呼びつけるところが反省が見えないわ」
姑息なことに神殿側からはあの聖女召喚は一部の神官たちの暴走だったと公表されている。
さらに、「失敗して聖女を呼べませんでした」とは言っていても、間違って他の男を巻き添えにしたことは隠している。
つまり、ヒカリの存在は消されてしまっている。神殿側はヒカリを召喚には関係なくこの世界に迷い込んできた異界人ということにしたいらしい。
けれど、シルヴィオが強硬に抗議したので謝罪の席を設ける……と言ってきたわけだ。もちろん謝罪だけで済ませるつもりはないので、口止め料と慰謝料もしっかり請求するつもりだ。
「別に謝ってもらわなくてもいいけど。今さらだし」
「ただの形式よ。それに貴族でもめったにお目にかかれない神殿のお偉い人たちが謝罪してくれるんだから、珍しい体験ができると思うわ」
神殿側の黒幕はおそらく司祭長だろう。聖女大好きコジモ王子の我が儘を王妃が実の兄である司祭長に訴え、司祭長も聖女が見つからない焦りもあって王家からの要請という大義名分で引き受けた。
成功して聖女さえ呼べればどうとでもなると思っていたんじゃないかしら。
けれど、今回の暴走は司祭長が寝込んでいるときに勝手にあの祭場のある部屋の鍵を持ち出した者の仕業、と主張している。
何人かの高位神官は更迭されたとは聞いているけれど、それもただの形式だ。
こちらが捕縛した神官たちは王宮で裁判にかけられるけれど、おそらく神殿側の意向で大した罪には問えない。納得がいかないが、この国では神殿の権力がまだ強い。
ヒカリが怒らないのを良いことに、責任の所在がうやむやにされそうでデルフィーナは納得がいかない。
「王都観光のついでだと思えばいいのよ。神殿はとても立派な建物よ。無駄にキラキラしてて一見の価値はあるから」
「観光……」
ヒカリは納得していいものか迷っているようだった。彼の世界の宗教について聞いたことはないけれど、もし清貧を尊ぶような教えだったらきっとびっくりするだろう。
翌日、シルヴィオが王宮に書類を提出するのに同行してヒカリとデルフィーナも王都に行くことになった。二人は休暇扱いだ。
王都の大公邸までは移動魔法で行けるので時間も短縮できる。
「王宮で陛下のサインをいただいてから婚約の書類を神殿に提出するから、そちらで合流しよう。ゆっくり親交を深めてくるといい」
シルヴィオがそう言ってくれたので、二人は待ち合わせ時間まで王都で買い物をすることにした。
「ええと……それじゃ、行こうか?」
ヒカリが緊張気味に手を差し伸べてきた。デルフィーナもそっと手を載せる。
「大丈夫よ。道はわたしが覚えてるから迷子にはならないわ」
デルフィーナはヒカリが初めての王都観光だから緊張しているのだろうと思った。すると彼は少し恥ずかしそうに呟いた。
「ごめん。そうじゃなくて、デルフィーナがそういう格好していると、本当に可愛らしくてすごく似合ってて……どう言っていいのかわからない。語彙が足りなくて……」
一応婚約決定後の二人きりで初めてのお出かけだからと今日のデルフィーナはシンプルなドレス姿だった。髪は結い上げて纏めている。
……言葉に詰まるほど意識してくれてるってこと? 貴族の社交にありがちなつらつらと心にもないお世辞に慣れてると、なんだか胸がドキドキしてしまうわ。
「まあ、ありがとう。ヒカリも素敵よ?」
ヒカリも抑えめではあるけれど良家の子息という出で立ちだ。
……こうして見るとヒカリは均整の取れた体格をしているし、背筋も真っ直ぐだから堂々としていれば貴族の子弟で通りそう。
「いやいや。僕のはダヴィデの借り物だし」
「あら。わたしは服を褒めてるんじゃないわ」
そう言って笑いかけると、やっとヒカリもいつものようにふわりと微笑んでくれた。
もしかしたらダヴィデかステファノから、こういうときは女性を必ず褒めなきゃいけないとか言い含められていたのかもしれない。それで緊張していたんだろうか。
「大公家の使用人から画材を扱っているお店をいくつか教わってきたの。まずはそこに行きましょう」
今日の用件はヒカリが絵の道具を買うことだ。
ヒカリはどんな絵を描くのかしら。描いたら見せてくれる?
そう期待しながらデルフィーナは歩き出した。
「それじゃ、貴族の人って商人を呼びつけて買い物するのが普通なの?」
「そうね。でも、お店に出向くこともあるわよ」
そんな貴族や富裕層が出入りするような店は大通りに店舗を構えている。貴族屋敷から離れるにつれて路地は狭く庶民の店が中心になる。そちらは治安も良くないので、デルフィーナもあまり立ち入ることはない。
お目当ての店に着くと、ヒカリは店員の説明を聞きながら一つ一つ道具を丁寧に見ていた。趣味で絵を描く富裕層向けのお店らしく、デルフィーナが見る限り品揃えは良いけれど価格帯も高めらしい。
デルフィーナはヒカリの横顔を見ながら、初めて彼の素の表情を見たような気がした。
いつも穏やかで控えめで遠慮がちな彼が、しっかりと自分の必要なものを見極めようとしている姿は真剣で話しかけるのも躊躇われるほどだった。
彼は本当に絵を描くのが好きなんだわ。しばらく描いていないと言っていたけれど、こちらに来て少しでも気持ちの変化があったということかしら。それなら良かった。
ヒカリは絵筆や絵の具などを数点選んだ。購入したものは大公邸に届けてもらう手配をして、二人は店を出た。
「納得したものは買えた?」
ヒカリは申し訳なさそうに答えた。
「向こうと同じものはないけど、使い方をちゃんと教わったから何とかなると思う。ごめんね。何か僕ばかり楽しんでしまって」
「最初からヒカリの買い物に来たんでしょ。気にしないで」
そのまま二人は中央神殿の方向に歩き出した。シルヴィオと合流するためだった。けれどまだ時間が早すぎたせいか、大公家の馬車もシルヴィオの姿も見当たらない。
「そうだわ。もし、ヒカリが絵に興味あるのなら神殿の中を観に行かない? 絵画を飾っている廊下があって、歴代聖女の彫像とかもあるらしいわ」
デルフィーナは見たことがないが、中央神殿の一般礼拝者が通る廊下は天井や壁に神話を題材にした絵画が飾られているらしい。そして、歴代聖女を題材にした彫像も。
そうした美術品をただ鑑賞するために神殿を訪れる人も多い。
コジモ王子が聖女の彫像を見るために神殿に通い詰めていたのよね。まあ、さすがに今は謹慎中だからいないだろうけれど。
「面白そうだね。行ってみたい」
ヒカリも興味を示したので、とりあえずシルヴィオを待つ間、一般礼拝に混ざって神殿観光をしようということになった。




