第三章 婚約は突然に①
「……びっくりした……何かおかしな白昼夢を見ているのかと思った」
ヒカリがそう言って強ばった笑みを浮かべた。
ペオーニア大公家の別邸に着いて、夕食まで応接室で待機することになった。
彼にとっては初めての貴族邸訪問だったらしい。使用人たちが出迎えているところへ馬車を下りたあたりからガチガチなのが見て取れた。
……でもまあ、一番驚いたのはさっきのアレよね。きっと。
屋敷に入った途端、職場では氷のように冷淡な上司が長身の息子に駆け寄って熱烈に抱きしめているのを見てしまったのだから。
光は、それまでの緊張が吹っ飛んだようにぽかんとしていた。
「わたしも初めて見た時はびっくりしたわ。ヒカリは仕事場の長官しか見てないんだもの、驚くのは当然よ」
デルフィーナにとってもシルヴィオは親戚筋にはなるけれど、彼のことはずっと厳格で気難しいおじさまだと思っていた。屋敷に出入りするようになってあの姿を見たときは唖然とした。
「父上はね、家にいるときはだいたいあんな感じ。甘やかされてダメになりそうってダヴィデ兄上が騎士団の寮に逃げ込んじゃったんだよね」
ヒカリの正面に座っていたステファノがそう言って苦笑いを浮かべた。もちろん彼も父親からの容赦ない抱擁を受けた後だったりする。
ペオーニア大公家の当主、そして魔法庁長官でもあるシルヴィオには二人の息子がいる。今年十八歳になるダヴィデと十五歳のステファノ。
ダヴィデは王宮騎士団所属で第一騎士団長。剣術の腕はこの国一番ではないかと言われている。一方ステファノは魔法の天才と言われるほど多彩な魔法を使いこなす有望株だ。
シルヴィオは普段厳しい態度で接しているせいか部下からは「氷の長官」と恐れられている。
けれど、家に帰ると人が変わる。氷が溶けてただの水になってしまったかのように。
シルヴィオが帰宅してきた息子たちに駆け寄ってうざがられるほど延々と抱擁しているなんて話したところで大概の人が信じないだろう。
すでに見慣れているデルフィーナでも時々あれはヤバいなーと思うほどだから、ヒカリの動揺は大きかっただろう。
シルヴィオは早くに妻を亡くしたせいか、二人の息子をとにかく溺愛している。人前では厳しい長官を装って我慢している反動が家では出てしまうらしい。とにかく構いたがる。
使用人たちも生暖かく見守っている。
デルフィーナのことも以前から色々気にかけてくれるけれど、一応他家の娘だからと遠慮はしているのかさすがにあんなことはない。
あの方は色々と極端すぎるのよね……。どうしてその真ん中あたりでとどまれないのかは謎だけど。
そのへんをヒカリに説明しておくのを忘れていたのは悪かったかも、でも緊張が解れてきたみたいだから結果としては大丈夫よね、とデルフィーナは結論づけた。
「うるさいな。逃げてなどいない」
ダヴィデはステファノの隣でふてくされたような顔で頬杖をついている。史上最年少の騎士団長もこれでは形無しだ。思春期あたりから父親の溺愛が気恥ずかしくなったダヴィデは、それを話題にされるのを嫌がるようになっている。
彼は父親譲りの鋭い目をヒカリに向ける。
「で? こいつが異界から来た聖女じゃない奴か?」
「ダヴィデ。言い方」
デルフィーナが窘めると、ダヴィデは露骨に眉を寄せる。
「初対面の相手に失礼でしょ。それに年上の人に『こいつ』とか……」
「……わかってるよ。けど、なんでここにいるんだ?」
「今日はわたしのお祝いなんだから、誰を招いてもいいでしょ? それよりちゃんとヒカリに謝って」
ダヴィデはまだ不満げだったけれど背筋を伸ばすとヒカリに向き直った。
「無礼を許していただきたい。異界からのお客人。僕はダヴィデ。ペオーニア大公の長男で王宮騎士団に所属している」
「こちらこそ。身内のお祝いごとにお誘いいただいて光栄です。僕のことはヒカリと呼んでください」
ヒカリはそう言って、デルフィーナに助けを求めるような目線を送ってきた。
作法的にこれでいいのか迷っているのかもしれない。
彼は自分の立ち位置がわかっていないから、どう振る舞えばいいのかわからないんだわ。
そもそも彼からしたらこちらの世界の人間は強引にこっちに呼びつけた人攫いみたいなものだから、へりくだる必要なんてないのに。
だけど、高圧的に出ないのはきっと彼の気質だろう。
そもそも今までの「異界からのお客人」は聖女だけだから無条件で高位貴族扱いになっていたけれど、彼は聖女扱いになっていない。神殿がそれを拒んだからだ。
だから今日の昼間国王陛下に決裁いただいた書類に、彼を一代限りの貴族扱いにすることを要求した。このままでは彼は平民扱いで放り出される可能性があったから。
長官が後ろ盾になってくれるから、神殿も国王陛下も慰謝料を払わないとか言わないわよね。ヒカリが大人しいからって逃げようとか許せないし。
彼はまだ自分がどう振る舞うのが正しいのか戸惑って、模索している。わたしみたいな小娘にいちいち確認しようとするほど。きっと真面目だから失礼がないようにとか考えてるんだわ。
デルフィーナはそっと言葉を付け加える。
「ヒカリ。良かったらダヴィデとも仲良くしてくれると嬉しいわ」
「もちろん、僕でよければ」
ヒカリは穏やかにそう答えた。ダヴィデはそれ以上は言いつのることもなく、黙り込んでしまった。きっと自分が悪かったとわかっているのだろう。
デルフィーナは気にしなくていい、とヒカリに微笑みかけた。
ダヴィデの態度は父親に抱擁されている姿を見られてしまった照れ隠しもあるし……多分ヒカリがデルフィーナの親しくしている人だからだろう。
元々彼はデルフィーナの周囲にいる人間、特に男に対して見る目が厳しいのだ。
その原因は元婚約者コジモ王子だ。
彼が王宮騎士団に入った理由もコジモ王子からデルフィーナを守るためだと公言していた。王子を守るとは決して言わないあたり、すがすがしいくらい正直だ。
彼はコジモ王子が問題を起こすたびに剣を抜きそうになっては、冷静になるために「事故に見せかけて王子を葬る作戦」を頭の中で考えているのだという。
その作戦の数が先日めでたく百五十を超えたと言っていた。頭の中のこととはいえコジモ王子は百五十回も抹殺されたということだ。
ダヴィデがキレてその作戦を実行に移す前に婚約解消できてよかったわ。
本心からそう思ったデルフィーナだった。
それがあるのでダヴィデはこれ以上変な人間がデルフィーナに近づいてこないように警戒しているのだろう。実の妹のように気にかけてくれるのはありがたいけれど……。
だからって今度はヒカリを標的にされても困る。できれば彼の人柄を知って仲良くなってもらいたいわ。




