八章:憑者 第四夜
狐憑きがずっとついて来る。
ぼくは、ただ行き先も決めず、ぶらぶら懐手をして歩いていただけなのに、とんだ災難だ。
一度は暗い街角で、ゴミ箱の影に隠れてやり過ごしたが、ひゅおうおうと言いながら、憑りつかれた者特有の奇妙な歩き方で通り過ぎた後、すぐに戻って来て、ぼくの顔をキツネそっくりの顔でツンと見ると、お前のせいだと言ってゲタゲタ笑い、またついて来る。
ごみごみした繁華街を甘さ控えめ膨らみ激しめのチューイングガムをくちゃくちゃ噛みながら歩いていると、狐憑きだけしかいなかったのが、いつの間にか、狸憑きに兎憑きまでついて来ている。
「ねえ、最近どうです?あちらの方は。」
「あちらですか?嫌ですわ、兎さん。あちらだなんて。」
「まぁー頑張っていきましょう言うてやってますけどね、あちらと言えば、皆さん何を連想されます?
そう。信号機ですよね。
最近信号機が変わりまして、以前は青信号なら、背景青に黒い人影だったのが、今は、背景黒に青い人影なんですよ。怪しいですよね。
これ多分、電力節約のためなんですがね、一度、わい、あの中の人をやりたい思てまして、今からやらしていただきます。」
「まあ、それじゃ、あちらというより、こちらじゃないですか。」
「いややわぁ、いやらしい。それじゃ、剥き出しのそちらですわよ。」
ぼくが気になって後ろを向くと、全員が、それぞれの憑かれた対象を誇張した表現でツンと見せて来るので、ぼくは呆れてチューイングガムを思い切り膨らまして目の前をぷうと消す。
足に任せて歩いている内に、通りは変化し、いつの間にか商店街に変わっている。
賑やかな売り子の声がそこかしこかで響く通りは、人通りが減ってはいるが、縦横無尽に走り回るスケート少年達が入り乱れているせいで、真っ直ぐに歩く事が困難だ。
ひゅうっと前を通り過ぎた少年の背をよく見ると、〔今日だけ全品50%オフby豆腐屋〕と書かれた広告が貼ってある。
ぼくは、なるほどと関心する。
彼らはきっとバイトで販売促進しており、人通りが少なくなったら、俯いて襟を立て、ただ道の真ん中を速足で通り過ぎるだけの人々を店側に寄せるために、わざと滑っているのだ。
しかし、そんな戦略に乗るものかと思っていると、次にすいーっと通り過ぎたスケート少年の背に、〔何という事でしょう。やっぱりここは古本屋〕と書いてあるのを見て、思わず書店に立ち寄りたくなる。
ぼくは、何と言っても、古本のあの甘い独特の匂いが大好きなのだ。
「ちょっと、聞いて。
この間私、雨がしとしと降ってたんだけど、傘がなくて、濡れながら病院へ行って、包帯巻き巻きの人や、体中黄色や青い黴に覆われてる人や、両手両足がなくてずっと微笑んでる人と一緒に、泣きそうになりながら待ってたの。
だってね、もうおしっこが漏れそうで漏れそうで、それなのに、検尿以外での使用をお断りしますと張り紙が貼ってある、薄暗い廊下にあるトイレのドアの横に、看護師が目をぎらつかせて、立ってるものだから、もう、しんどくて。
でもね、そのうち、気付いたのね。
もう全身ずぶ濡れなんだから、漏らしてしまっても分からないんじゃないかって。
そう思ってた時、丁度番号が呼ばれて、立ったまま漏らしたら床に流れてすぐにばれるじゃない。
だから、我慢して診察室へ入ったら、医者が、私の顔を見た瞬間、重病だ、入院だって言ったの。
その瞬間、驚きから漏らしそうになったんだけど、その時は、尻をつねって何とかこらえたのね。
それで、何で私が入院なんですか?何の病気なんですかって聞いたら、シャーッとベッドの周辺にかかっていたカーテンを開けて、その中にいた全裸で寝転んでる中年の男性の腹部を、スッと軽やかにメスで切り開いたの。
するとね、その中から、グロテスクな内臓なんかがにゅっと顔を覗かせると思いきや、プツプツプツプツプツプツって、丸いお豆さんがコロコロ転がり出て来たの。
どういう感情なのか分からないけど、中年の男性は、いやあと言いながら恥ずかしそうにしていたわ。
医師は、こんな状態です。手遅れです。だから入院が必要ですって私に言ったの。
それで、私がこの男の方と私は違う人間なのだから、私は手遅れなんかじゃありません。ちゃんと検査なり何なりして下さいって言うと、医師は、あなたとこの男性が何故違う人なんですか?彼はあなたのお父さんであり弟でしょう。
今は怪我以外のほとんどの病気は遺伝だと決まっているんですと言いました。
その瞬間、そうだった、この人は生き別れになったお父さんであり弟だったと気付き、緩んだ膀胱から、勢いよくおしっこが流れ出たのよ。もう。困っちゃった。」
「ほんと、狸さんたらドジっ子。おしっこは病院へ行く前に済ませるのが常識でしょう?」
「てへ。てへてへてへてへへっへっへっベロリンガ。」
「ボロリゲス。」
「ズドビンゴ。」
「ダガズンバ。」
憑かれているのだから仕方がないとはいえ、何の意味もない狂った会話を聞かされて疲れて来たぼくは、やっと見つかった古本屋へ入っていく。
いらっしゃいませと元気よく言う店員もなく、防犯対策が何もなされていないまま、通りに広がるほどに置いてある主に文庫本で構成された1円本コーナーを抜けると、中央に傾いだ棚に挟まれた洞窟のような入り口から下っていく階段が見える。
その下には、迷路のごとく入り組んだ道の両側にザーッと書棚が傾いだり、曲がったりしながら思い思いの様相で立っている。
ぼくは、しばらく本の甘い匂いを胸の奥いっぱいに吸い込み、ワクワクしながら本の背を時折つっとつついたり、指を滑らしたりしながら歩いて行く。
すると、更に降りる階段をみつけ、蟻の巣穴のように丸く膨らんだその黄色い照明の輪が何重にも広がる空間へぼくは、降りる。
そこには一人の初老の男性がおり、夢中で本のページを繰っている。
そのまま男性の背後から背を割れば、中は本になっているんじゃないかと思えるほどの熱中ぶりだ。
ぼくも、一冊の本を手に取り、おもむろに開いたページを一期一会と思いながら読む。
「…とすると、既存の空間や時間における常識というものが、空理空論である事が明確に証明出来るだろう。大抵の人々は安寧を求め常識の中に埋没しているが、彼らは、そこから離脱し、この世界の常識を覆す事で、世間に風穴を開け、価値観の変動を引き起こす、いわゆる異界の人間である。我々は、彼らを排除せずに取り込む事で、より広い視野で世の中を見つめ、自分自身を反省し、この世界の多様な現実に気付いて、他者に対しての寛容性を養えるのである…」
タイトルを見ると、〔爆薬製造法〕と書いてあるその本を、ぼくはそっと棚に戻す。
「SDGsの考え方の根幹にあんのは、No one will be left behind.つまり、だれひとりとりのこさないでっせ。
そんで、その17の目標たるや、更にお涙ちょうだいでして、
1 貧困をなくそう
2 飢餓をゼロに
3 すべての人に健康と福祉を
4 質の高い教育をみんなに
5 ジェンダー平等を実現しよう
6 安全な水とトイレを世界中に
云々云々あるんやけど、皆さんご存じでしょうから、端折らせてもらいますが、もう、わい、泣けて来てもうてかなわんわ。」
「分かるぅー。だって、あそこまで真っ直ぐで綺麗な理想って、小学生までは皆持ってるけど、大抵紆余曲折あって、消えてしまうもん。」
「そうそう。例えば、いじめ、だめ、ぜったいって思ってても、どこ行っても軽いいじりみたいないじめとか、あまりにも空気よんでない人を敬遠したりとかぐらいはあって、それも仕方ないのかなって、思っちゃうものね。」
「要は、理想をくじくのは現実。理想は泡沫、現実は金。」
「やだぁー、狐さんたらゲンキン。現金ちょうだい。」
「人間の数大量に減らして数人を満たす事なら出来るかもしれないけど、どんなに満たしても、結局欲は尽きない。でも、どんなひどい環境であっても、人間は結局あるていど適応して、最終的に満足しちゃう。
浮浪者だって犯罪者だってそれなりに色々楽しんでる。
何なら誰もがそこで生きて来たことに誇りさえ持っちゃう。
それなら、彼らを可哀想にと助けようとする善意は自由意志無視した迷惑行為になるんじゃないかしら。」
本に没頭している初老の男性が、うるさいからか頻繁に咳ばらいをする。
ぼくは、申し訳なく思いながら階段を上がる。
商店街へ出ると、少し日差しがかげっているように感じられ、ぼくは足を速める。
特にどこへ行くとは決めていないが、暗くなってから、憑かれた人間を連れ歩きたくはない。
すすすとその後は慎ましく商店街を抜けると、今度は、区画整理されているように見える、カクカクとした道の脇に、バランスよく店舗や公園が立ち並ぶ場所に出る。
上空を飛び去る飛行機の轟音が、のんきに聞こえて来る。
歩いていると、真っ白で、アーチ型の橋の上に辿り着く。
下をのぞくと、ぬるりとした水面が、鈍い輝きを残しながら緩やかに流れている。
枯葉を一枚落とすと、水面にたどり着く前に風で飛ばされて、うやむやになってしまう。
そのまましばらく進んで、鳩がそこかしこにポポポとたむろするまばらに街路樹立ち並ぶモザイクタイルが張り巡らされた道を、鳩を散らしながら木漏れ日を踏んで歩き、更にその先の揺れる錆びた歩道橋を渡ると、見慣れた店が目に入る。
そこは、巨大な何でも屋〔ヒロノブNo.1〕であり、最近チェーン展開して、全国津々浦々、どこへ行っても国道横などの閑散とした道路を数メートル進めばぼんぼんと建っているらしい。
ぼくは、清潔過ぎてためらわれるガラス張りの入り口から中へ入り、すぐ目の前にある巨大な樹木を眺める。
樹木のある場所の天井には丸窓があり、そこから下へ向かって、自然光が柔らかく差し込んでいる。
その周辺には幾多ものベンチや寝椅子があり、高齢者や子連れの男性が休んでいる。
ぼくは、休憩したくもあったが、憑かれた者の話を座ってじっくりと聞きたくはないので、すぐにエスカレーターに乗り、適当に店の商品を眺める。
たかが人間の衣食住、その他諸々の欲望を満たすためにこんなにも商品が生じるのかと思えるほどに、商品の数は多い。
服一つとってみても、派手に着飾りたい人のためのごてごてとした複雑な装飾のついた服もあれば、スポーツをしたい人のためのシンプルな機能性を重視した服もあり、目立ちたくない人のためのアースカラーの地味な服もあり、個性的な人のためのピッタリと身に貼り付いて、よく分からない箇所が破れた服もある。
ぼくは、空っぽのそれらを人の種類を見るように眺めては通り過ぎると、全面赤一色で統一されているために、店員の手と顔だけが浮いて手前に見えるヒロノブ屋に入り、ヒロノブ流真っ赤な揚げパスタ、略してヒロアゲを購入し、それをつまみながら巻貝のように渦巻くエスカレーターに乗って、上へ上へと登っていく。
ヒロアゲは、ぼくだけでなく、後ろの三人もひょいひょいと摘まみ上げて取っていくので、瞬く間になくなってしまい、ぼくは、一体ヒロアゲがどんな味だったかさえすぐに分からなくなってしまいながら、グルグルと上へ上へと行く。
登るにつれて巨大な樹木の葉に紛れて暮らす小人達の様子が見える。
洗濯物を干したり、枝の上で昼寝をしたり、散髪をしたりしている人々は、今テレビで大問題だと取り上げられている寄生小人だ。
昔は木造の日本家屋の天井裏や床下に暮らしては人間から物を盗んで暮らしていた寄生小人は、最近は古い家屋がなくなったために、都会に進出して来ている。
小人達は、主に住宅街のそばに位置する植物園や公園、動物園などに住み着いているが、そういう場所が小人達で過飽和状態になっている現在、ヒロノブNo.1の巨大な樹木も標的にされ、多くの小人達が寄生する場になっている。
それはそれで、人々は娯楽ととらえ、中には小人ウォッチングをする人々が日夜店に詰め寄せ、写真を撮ったり、逆に小人達に撮られたりしているそうだが、ぼくは興味がない。
一番上の階まで登ると、エレベーターの降り口から少し進むと、もう、ぼくの目的地があった。
それは、イリュージョンショップという、ヒロノブNo.1を訪れる人は必ず立ち寄ると言われている人気店だ。
真っ黒な空間の中で、顔と手だけが白く前に浮いて見える店員に、ぼくは、三十分コース、ホラーでと注文する。
店員は今ならハロウィンキャンペーンをやっておりまして、オプションでおつけできますが、どうされますかと聞いて来たので、ぼくは断る。
店員は次に、味は、イチゴ、メロン、ピーチ、パッションフルーツ、グレープフルーツがありますがどうされますかと聞いて来たので、ぼくはパッションフルーツを選ぶ。
では406号室へどうぞと、トリップドリンクと一緒に手渡されたトリップゴーグルが入った籠を手に持ち、ぼくは暗い廊下を歩き、406号と書いてあるドアを開いて中へ入る。
そこは、一畳ほどの広さの部屋で、小さなソファ一つと、テーブルが一つ置いてあり壁にはアンディーウォーホルの贋作である、ポップな色彩をほどこした今の総理大臣の絵が飾られている。
そう言えば、イリュージョンショップは国家事業だという都市伝説があったなとぼくは、狐憑き、兎憑き、狸憑きの三人が無理矢理部屋に入ったために、窮屈な状態でぼんやり思い出す。
その都市伝説によると、無能な社会不適合者に犯罪を犯したり政府を批判させたりさせないために、安いイリュージョンショップを積極的に増加させようとして、秘密裏に政府が店に補助金を出しているというのだった。
ぼくは、パッションフルーツ味のトリップドリンクを一気に飲み干す。
この飲み物には合法の向精神薬が入っており、これを服用してからトリップすると、より深く幻想の世界に没入できるのだそうだ。
そう言えばこのドリンクも牛肉用の牛を殺す時に使われている攻撃性を失わせる薬が入っており、性欲が減退するなどの副作用があるとか何とか言われてたっけな。
ぼくは、色々と思い出しながらも、そんな負の要素を帳消しにするほどの快楽に没頭するために、トリップゴーグルをはめる。
すると、夜の城の中に、ぼくは立っている。
念のために後ろを見るが、流石に憑かれた者たちも、この幻想の世界まではトリップして来れないらしい。
すぐに、目の前に赤いじゅうたんを敷き詰めた豪奢なホールが見え、そこに同じようにトリップした人々や、幽霊や妖怪やお化けやモンスターたちが集まっているのが見える。
ぼくは、入り口に置いてあった仮面を顔につけて、人々を見回す。
そうしていると、前方の舞台上にいる楽団が上品なクラッシックミュージックを演奏し始め、ぼくは、それに合わせて踊り出す。
人々や幽霊などにぶつかっても幻なので問題がないためもあり、踊りにはルールはない。
ぼくは、何となく既存の踊りを踊っているお化けたちに合わせて踊るが、中にはブレイクダンスやジャズダンス、ロボットダンスを踊る人もいたり、我流の不思議な踊りを披露している人々もいる。
やがて、それらのダンサーたちに触発されたぼくは、両手両足を最大限に開いた蟹踊りを踊ったり、竜巻のように、グルグルと周囲を駆け回る、踊りとも言えない暴挙に出たりし始める。
何とも上品で艶のある、花のような貴族階級の女性たちが扇で仰ぎながらもの思わし気にこちらを見ている様子や、ボロボロの衣服を引きずるようにした、骸骨同然の幽霊が、虚ろな穴のような目をぎょろぎょろさせながらホネホネダンスを踊っている様子や、ネオンテトラのように、輝く衣装を身に纏って、ピチピチと爆ぜるように踊ったり笑ったりしている道化師の姿を横目で見ながら、ぼくは、全てを掻き回していく。
そうして、不意に空へと飛び上がり、何度も繊細な足さばきで、タタンタタンと両足を打ち付けて地へ降りると、拍手が数度あがる。
次は、月を取りに行く勢いで、ぼくはぐうっと高く上がる。
一緒に飛んだ女性の、ピンクのドレスの襞が鼻に触れ、その後、愛らしい笑顔が見える。
瞳は半分白く開いたままで、ずっと誰かにくすぐられているように女性はくつくつと笑い続ける。
君は誰なんだい?とぼくは甘くささやく。
君はもしかして、ぼくのために生まれて来てくれたの?
月は、手のひらの上に乗って、卵の黄身のように崩れる。
掻き消えた女性の姿は、ぼんやりと発光し、彼女に手を引かれたぼくは、深海へ降りて行くように地上へと飛んでいく。
地上では、皆が揃ってワルツを踊り、ぼくと彼女は彼らの中をくぐって、その下へと降りて行く。
暗かったり異常に明るかったりするくぐもった世界の果てを通り抜けると、その先には、永遠に続く宇宙空間がある。
宇宙では、宇宙人達が奇妙な踊りを踊り、そのために発生した謎のエネルギーが、周囲の星々を燃え上がらせたり、色とりどりに輝かせたりしている。
ぼくも女性と共に踊り回り、時間も空間もない不変の世界で、腹の底から笑う。
やがてぼくたちは、宇宙人達と謎の巨石を囲んで植物のように少しづつ動き、そのぼくたちの力で、巨石から新たな宇宙が生じるのを眺めている。
その間幾多もの年月が過ぎ、宇宙人達も彼女もぼくも、全てが違いが分からない程に結びついている。
時折体を流れる誰かが作り出した波動に身を委ねると、脳がジンと痺れる程の強い快楽に、全身がとろけそうになる。
その内、宇宙は完成すると、ぷくぷくと増え、そのままシャボン玉のようにどこかへ流れていく。
ぼくは、感動のあまり涙が流れるのを感じる。
その時、不意にゴーグルの画面が暗くなり、時間ですと黄色い文字で表示されているのを見て、ぼくは、ゴーグルを外す。
「だから、誘ったって無駄だってば。」
「でもねえ、ここまで来たら、誘わないのも失礼じゃない?」
急に入って来た憑かれた者たちの会話に、ぼくは余韻にも浸れぬまま、すぐにゴーグルを入れた籠と空のコップを持ち、カウンターで会計すると、店を出て、またグルグルと巻貝を降りて、出口から外へ出る。
既にすっかり日が落ちた空は、街の灯りに気圧されて、うすぼんやりと灰色に霞んでいる。
急ブレーキをかけてぼくの横に止まったオープンカーの主は、スチャッと気取った仕草でサングラスを上げ、姉ちゃんたち、どう?乗らない?と憑かれた者たちに呼びかける。
三人は体を絞る様な動作と共に奇妙な鳴き声のような笑い声をあげて、袖を振りながらぼくの後について来る。
車は、すぐにすうっと離れて行き、ぼくと憑かれた者たちは、どんどんと暗い道の方へ歩いて行く。
「やっぱり誘う?」
月光が雲に隠された街外れの夜道は、とっぷりと闇に落ちている。
「いやいや、そう言いはっても、本人さんの問題やから。」
鋭角的な角度の曲がり角を曲がると、暗い道の先に、ぽつりと光る小さな看板が見える。
そこには、ウナギという文字と黒いおたまじゃくしのようなウナギの画がかいてある。
ああ、どれほど遠くまで来てしまったんだろうとぼくは後悔する。
「ねえ、誘う誘わないじゃなくて、すでにこちら側に来ているでしょう?」
憑かれた者の話は相変わらずさっぱり分からない。
両側の住宅らしき建物は道側に白々しく壁を向け、街灯は乏しい灯りを地面についた薄暗い染みのように投げかけている。
ぼくは、辿り着いたウナギ屋の苔色のれんをくぐり、引き戸を開けて中へ入る。
中は、カウンター席しかない小さな店で、大将は不愛想にいらっしゃいと言うと、プイと厨房の中へ入って出てこない。
ぼくは、和紙に書いて壁に貼ってあるメニューを見て、うな重一つでと少し大きめの声で大将に呼びかける。
大将はしばらく遅れてから、あいよと言うと、後は静かになる。
店の奥のカウンターの隣にはガラス窓があり、その外には小さな庭が見える。
青々と茂る数本の竹の手前に、ししおどしがあり、水がある程度流れると、カコンと小気味いい音をたてて鳴る。
ぼくは、それを聞き続けているうちに、眠くなってくる。
憑かれた者たちが話しているのが途切れ途切れに聞こえて来る。
「…それまでは意識というのは、無意識の中にあり、私と言う概念はなかった…。」
「…それが心を生み出し、心の病気まで生み出す…。」
「…寂しいのよ。皆、誰しもが私と言う概念のために、一人ぼっちで閉じ込められているんだもの…。」
何の話だ?いずれにしても、ぼくには無関係な話だろう。
「…狂気とは意識の正常状態であり、正気とは意識の異常状態である…。」
ひそひそと訳の分からない話を、ぼくをつまみにしてそのまま永遠に続ければいいさ。
「…人を殺して上にのし上がりたい、ところかまわず異性を犯したい、怒鳴られたらそれが上役でも怒鳴り返したい、復讐したい、大声で叫びたい…。」
「…欲望は常に不適切であり、それを調整する意識が必要だった…。」
へいお待ちという低い声が耳の下からスッと入り込み、ぼくは目を開けて、二段になった四角いお重の、金色の桃の花が描かれた黒い蓋を開ける。
その瞬間、ぼくは驚愕と共に蓋を取り落とす。
中に入っていたのはうな重ではなく、カエルの卵とおたまじゃくしの群れだった。
憑かれている三人は、指先で器用におたまじゃくしと卵を摘まみ上げて、ひょいひょいと口の中に放り込む。
あっという間になくなった一段目を脇によけて、二段目の中を見ると、そこには色々な形と色の眼球が入っている。
それらをもひょいひょいと摘まみ上げる三人を見ながら遠のく意識の隅で、ぼくは、何かを掴みかけて、再び浮上する。
すると、浮上した先には、病院がある。
医師の往診について来た看護師が、ぼくの目をパッと指で開いて、その中をペンライトで照らし出す。
「薬を増やした方がいいでしょうね。」
「そうだな。この患者は薬を飲ませないとすぐに暴れるから、多めであるほうがいい。」
そうか、ぼくは精神病の患者だったのかと思って、医師や看護師を見ると、彼らの顔は、狐や兎や狸のお面を被ったかのように奇妙に無表情だ。
すうっと意識が遠のいて、再度暗がりから浮上すると、ぼくは、水槽の中にいる。
コポポポッ、コポポポッと湧き上がる泡が、体の表面を撫でていく。
「今日のテーマは、犯罪の低年齢化についてです。この問題、○○さんはどう思われますか?」
「そうですねえ、犯罪全体の件数は経済発展と共に低下していますが、若者は、まだ社会に適応出来ていない存在ですから、暮らしが豊かになっても結局は犯罪を犯してしまうのでしょうね。そうならないために、道徳教育の強化や地域の見守り活動の活性化が必要だと思います。」
コポポポポッ、コポポポポッ、コポポポポポッ、コポポポポッ。
ああ、気持ちがいいなあ。ああ、気持ちがいいなあ。ああ、気持ちがいいなあ。
その時テレビの電源と共に、ぼくの意識も暗がりへと落ちて行った。
そうして、ぼくは、そのまま永遠に浮上する事はなかった。
ぼくは、自分が憑かれていると思っていた者たちは正常で、ぼくこそが憑かれた者だったのだなとそこで初めて悟った。
涙を流す心も体も失ったまま、ぼくは、何ものでもなくなった自分を悲しんだ。
しかし、その悲しみも溶けて、やがて全ては憑かれたぼくと共に宇宙に似たとこしえの闇の中へとじわじわと消えて行ったのだった。