六章:ウナギ 第三夜
ぼくが会社から帰宅して、電気のスイッチをつけると、床の上に死体があった。
死体は、よれたスーツを着ており、うつ伏せになり、右手を上に上げ、左手を下にして横たわっているその姿は、旗揚げごっこをしているかのようのさりげなさだったが、背に突き刺さっている黒い柄の包丁がパーティーグッズなはずはなく、彼が死体である事をはっきりと証明していた。
もしかして、知っている人物だろうかと、ぼくは床に顔をつけて死体の横顔を見ようとしたが、鼻が潰れているせいか、そういう顔立ちなのか、彼が見知った人物かそうでないのかは、はっきりしなかった。
となると、警察に届け出るのはためらわれる。
実は、昨夜の記憶がぼくにはない。
会社の同僚の愚痴を散々言い放って、気分よく泥酔して帰って来た際に、ぼくは誰かと一緒だった気がする。
だから、その後玄関口で眠りに落ちて、翌朝、慌てて家を出た時に、室内に誰かがいてもおかしくはない。
つまりそれが、最悪の場合、ぼくが殺してしまった目の前の誰かである可能性だって十分にあり得るのだ。
ぼくは、えいこらせっと、死体の頭だけそこらにあったまな板で横に向けようとするが、死後硬直なのか何なのか、死体の顔は一向に動かない。
次にぼくは、腹の辺りを蹴ってみる。
しかし、死体は勿論蹴られるがまま横へ水平移動するだけで、ひっくり返ってはくれない。
そこで仕方なく、ぼくは、ビニール手袋をはめた手で、死体をひっくり返す。
その際、背に刺さっていた包丁がぐっと前に深く刺さったためか、死体がウッと呻いた気がしたが、勿論彼が生きているはずはない。
きっと、柄が床の上を滑るさいに、何やら音が出てしまったのだろう。
さて、顔をじっくりと見るが、彼の顔は、石膏で作ったデスマスクのように、何とも言えず特徴を欠いているので、いざ見てみると、知人なのかそうでないのか良く分からない。
墓石が非個性的である事は知っていたが、死体もこんなにも非個性的だとはぼくはこれまで思ってもみなかった。
その時、不意に外からパトカーの音と、ランプの赤い光が入って来たので、ぼくは、気が動転して、思わず窓から見えないように腰を落とした瞬間バランスを崩し、手袋から露出した腕の部分が死体の頬に当たる。
途端にゾッとするほどの体の冷たさを感じたぼくは、直ぐに腕を退ける。
立ち上がると、死体は、腹部を突き出すようにした状態で、そのままのんきに寝転んでいる。
ぼくは、不意に死体に対する怒りを感じると共に、彼の体に自分の痕跡を残してしまったという恐怖に追い詰められる。
しかし、まだ、言い逃れは出来るはずだ。
例えば、顔を触って生きているかどうか確かめたとか何とか、何とでも言えるはずだ。
しかし、蹴った痕跡はどう説明する?
それに、ぼくは不意に重大な事に気付く。
包丁が背中から刺さっている以上、誰かが死んだ後の彼を、わざわざひっくり返した事になる。
それが何故なのかを他の誰かが考えてみれば、自ずとぼくに疑いがかからないだろうか。
ぼくは、柱時計の振り子のように部屋の中を右往左往する。
時間だけが無意味に経過する中、ぼくは、不意に床下から突き上げるような振動と音を感じる。
また階下に住む住人が、棒かモップの柄のようなもので、ぼくに自分の足音のうるささに気付かせるために、床の下からつついているのだ。
ぼくは苛立ち、立ち止まって、爪をかじりながら死体を眺める。
こうなったからには、警察に連絡するわけにはいかない。
だとすれば、どうするかと言うと、証拠を隠滅し、死体をどこかに放り捨てなければならない。
しかし、ぼくの部屋には風呂場がないし、近くには捨てれるような川もない。
そこで思いついたのが、すぐ近所に出来たスーパー銭湯だった。
ぼくは苦労して、冷たい男の体を酔っ払った人を介抱するような体勢で抱え、エレベーターで一階に降り、きっとここで監視カメラに映っただろうなと思いながら、アパート前の狭い道へ出る。
もう遅い時間なので、人は誰も歩いていない。
両側は、聞いた事がない会社がぎっしりと詰まったビルが建っており、一軒だけある照明が点滅しているスナックの客引き女はやる気がないのか、酔客は入れないようにしているのか、煙草を吸って、私を眺めているだけだ。
そこから数歩先へ歩くと、新装開店特別セールという安っぽいのぼりが二本入り口に立てられた「YUMEGOKOCHI 24H OPEN」という赤いゴシック体の店名が入り口上部に書いてある、スーパー銭湯があった
ぼくはその中に入り、女性湯側はピンク、男性湯側は水色の半分ずつ色が違うハッピを着た番台に座る番頭に、男二人と告げる。
番頭は一瞬不審そうに死体を覗き込んだが、あまりに下を向いていたからか顔を見るのを諦め、もごもごと酔ってるお客さんはねえ、気を付けてくださいよと言うと、番号の書いてある水色の腕に巻くバンドがついたロッカーキーを二つ渡してくれた。
ぼくは、波の絵の上にでかでかと男湯と書いてあるのれんをくぐる。
太陽が射しているかと見紛う程に明るい脱衣場には、もう遅い時間であるにもかかわらず、十数名の様々な年齢の男性が、体を拭いたり、服を着たり、扇風機に当たったり、人工樹木を中心にして、中央に円形に設置してあるベンチに寝転がったりしている。
ぼくは、暗い隅のほうに設置してある個室に入り、念のために鍵をかけてから、ようやっと死体を下に降ろし、自分のくしゃくしゃになったスーツやシャツや靴下を肌からはぎ取るように足元に脱ぎ捨て、死体の上にまたがるようにして、服を脱がしていく。
死体は、全く協力的ではなく、更に右腕以外は何故か関節部がほとんど固まっているので、腕からシャツを脱がすのも一苦労だ。
運のいい事に、包丁を抜いた背中は汚れておらず、血は一滴も流れていない。
体を何度も壁に打ち付けながら、必死に脱がしていると、外から誰かがのんきそうな声で話しかける。
「なあ、何してんだ?ドラムの練習か?」
それを聞いた数人が笑う声が聞こえ、ぼくは、上ずる声を必死でなだめながら答える。
「いやあ、もう風呂に5日間も入っていないからか、蠅がうろうろ頭の上にたかってましてね。
そいつを叩き潰してやろうかと思って格闘していたんです。」
「ははぁ。」
誰かは気が抜けた声を出して、鼻をかむ。
「なあ、兄やん、ピンポンやってコーヒー牛乳飲もうや。」
「いや、わしはフルーツ牛乳や。」
そう言いながら去って行くペタペタという足音を聞きながら、ぼくは、引きちぎらんばかりの勢いで、死体からズボンを脱がす。
死体は、頭を床につけて、両足をぼくの肩に乗せた状態で、ズボンを片足ずつ脱がされ、その反動で、勢いよく頭を部屋の角に打ち付け、変な角度に首が曲がる。
ぼくは、靴下もついでに脱がしてから、何となく死体の身を起こして、首の角度を元に戻そうとするが、首は元に戻らない。
戻しても、戻しても、首はカクリと妙に横に傾いたままだ。
ぼくは仕方なく全裸の死体を片方の手で介抱するように抱えて、もう片方の手で衣類を持ち、ロッカーにそれらを放り込み、鍵をかけて風呂場へ移動する。
直に皮膚に当たる死体の体の冷たさは、最初は不気味に感じたが、元人間ではなく物体だと思えば何も感じなくなる。
脱衣場にいた人々は、各々の事情に没頭しているのか、こちらを見向きもしない。
ぼくは、死体の足を引きずるようにしながらカラカラとガラスが湯煙で曇っている引き戸を開け、中へ入ってから閉める。
すぐには風呂場の全貌はよく見えず、白い煙に巻かれながら、カコーンというタライの音や、ジャボジャボという湯が出る音、チョロチョロという、湯が縁から流れる音、シャーというシャワーの音、こもって何を言っているのか判然としない人の声などを、ぼくは、死体を抱えながらじっと立ち止まって聞いていた。
それらは、とても懐かしい音だった。
しかし、そのままじっと聞いているわけにはいかない。
ぼくは、死体を綺麗に洗って、証拠を隠滅しなければならないのだ。
ぼくは、タイルを踏みながら、足を一歩前へと踏み出した。
すると、目の前の煙の塊がすーっと消え、ほこほことそこかしこに白い湯煙が上がっている風呂場の全貌が何となく見えた。
そこは、棚田のように、傾斜に対して階段状に作られた色とりどりの風呂桶がひしめき合う異様な場所だった。
壁には一面、天井までそびえ立つ立派な青々とした富士山が描いてある。
湯気の中でタオルを頭に乗せたり腰回りに巻いたりしている人々は列をなし、一つの風呂に入ると、上がり、隣の風呂へと延々と移動し続けていた。
それらの棚田風呂に入る入り口には案内図が書いてある掲示板が立っていた。
それによるとどうやら、棚田風呂は一つ一つ湯の成分が効く場所が違うらしく、それぞれの風呂には、足、くるぶし、頭部、眼球、腸など体の各部の名称と愛らしいイラストが書いてある。
死体と2人でこんな風呂に入り続けていたら、最終的に、一度腰に効く風呂に入ったところで、結局腰を痛めてしまうだろう。
それより、棚田風呂の横に位置する泡壺風呂という風呂にぼくは注目した。
その下の注意書きには、一人~四人までの小さな風呂ですと書いてある。
運が良ければ、ぼくはこの風呂に死体と2人きりで入り、体を洗って証拠を隠滅する事が出来るかもしれない。
そう思ったぼくは、木の引き戸を開けて、泡壺風呂の前に立つ。
それは、赤土色のコンクリートの床の中に埋まった壺型の風呂で、背景の壁に地獄絵図と噴火した火山が描いてある手前に、6個ほどあった。
その内の3個には、壺に入ったゆでだこのように真っ赤な顔をした高齢者が入っていたが、3個は空いている。
ぼくは、彼らの目を少し気にしながら、死体の動きが不自然に見えないように、先に死体を壺の中に入れ、その後で自分も中に入る。
足先からズボリと中に入ると、体中が痒くなるほどの気泡が下からコポコポと吹きあがっている事に気付く。
いいぞいいぞとぼくは思う。
この泡が、死体から証拠を綺麗に隅々まで洗い流してくれるかもしれない。
死体は、カクリと妙な角度で頭を傾けて、顔の半分を湯につけた状態で、そのままじっとしている。
ぼくは、両手をツルツルした壺の縁の上に回し、ふーっと大きく息をつく。
その時、引き戸を開けて、二人のでっぷりと太った中年男性が中に入って来る。
「泡壺にも今日は入って行くか。」
「そうだな。最後にそれもいいな。」
まさかと思う間もなく、二人は空の泡壺があるにもかかわらず、ぼくと死体の泡壺の中に無理矢理体をねじ込むように入って来る。
大量の湯が、泡と共に壺の外へ流れ出し、そのまま、コーッという排水口の音と共に、あっという間に消え失せる。
ぼくは慌てて死体の首をぼくの肩の上に乗せ、奇妙な笑いを浮かべながら二人の顔を見る。
二人は双子なのか、瓜二つの丸い顔を湯でふやかし、頬をピンクに染め上げている。
「兄ちゃんはここに来るの初めてかい?」
「ええ。」
ぼくは用心しながらも、答える。
同時に、あまり印象に残る答え方をすると、覚えられて証言されてしまうかもしれないと思う。
「何で分かったかと言うとだね、俺ら、毎日ここに来てるから、ほぼ全員常連は顔見知りなわけだ。
兄ちゃんは、見ない顔だ。」
そう言うと、二人は口をつぐむ。
ぼくは、内心冷や冷やしながら脂汗とも、ただの発汗ともつかない汗をだらだらと流し、早く二人が去ってくれとだけ心の中で祈り続けた。
横の一人のぶよぶよとした柔らかい体が、ぼくの腹部や肩に当たり、その隙間から溜まった泡が、時折一挙にポポポポッと上がっていく時の感触がとても気持ちが悪かった。
どれぐらいの時間が経ったかは分からないが、やがて二人はざばっと壺から上がった。
一気に減った湯は、ゆっくりと下から泡に押し上げられるように回復していく。
「随分無口だし、冷え性だな。」
「ええ。」
ぼくは内心飛び上がりそうになりながら答える。
二人の顔が上部からの照明を浴び、背景画に描かれている鬼のように凶悪そうに見える。
「そうなんですよ。それで、湯につかるといつも寝てしまうんです。
ほら、こうやっても起きません。」
ぼくは、死体を揺らす。
首がぐらぐら揺らぎすぎる。
「まるで死んでいるみたいだな。」
そう言うと、何がおかしいのか笑いながら二人はカラカラ引き戸を開けて、棚田湯の方へ移動して行った。
ぼくは、周囲のゆでだこのような高齢者たちの静かな視線をまたもや感じながら、立ち上がっては、死体を引き上げ、逃れるように次の苔むして壊れかけた引き戸を開けて中へ入る。
そこは昼間のように眩い外だった。
森の木々に囲まれた中心に一つ、黒々とした沼に似た露天風呂があった。
ぼくは、死体をその風呂の中に肩まで沈め、自分も横に入る。
ひんやりした泥の感触がぬるぬると足元から体を這うように上がって行き、遂にはぼくも肩まで湯に沈んだ。
どこかで子ども達がはしゃいでいる声が聞こえ、嘘のように直ぐに通り過ぎて行った。
その時、ぼくは、腹の辺りに違和感を感じた。
何故かぼくは、ウナギだなと思って、そいつを捕まえようと腹をまさぐった。
すると、自分の腹なのに、自分の腹という感じがせず、それでも、ウナギはぬめる体をぼくの手のひらで作った筒の中に、自らの体を押し込めるように入れた。
「そうやってお前は自分を殺したんだ。」
はっとして死体の顔を見ると、口の中からウナギがぬるりと這い出して来る。
ぼくは、手の中のウナギと繋がっているかのようなウナギを腹から引き出すように、手繰り寄せる。
上から光が差して、顔に刻印を刻むように印象を徐々に植え付ける。
鼻の横の黒子、尖った眉、額に残る小学生の時についた薄い傷跡。
森が寂しげな葉擦れの音をたててざわめく。
なんだ、この死体はぼくだったのか。
そう気づいた瞬間、引き抜かれたウナギは、指の間から真っ暗な沼の底へ向かって、ぬるりぬるりと落ちて行ったのだった。