4頁
前浜の朝市は、いつものようにごった返していた。肉や魚介、野菜、衣類や食器などの露店が所狭しと並び、大小の銭が飛び交っている。
大鳥居の前では、何の役に立つのか、坊主が念仏を唱えていた。そこから若宮大路を北上すれば、名高い鶴岡八幡宮が鎮座している。
和賀江の津で荷下ろしの仕事を終えた十三歳の少年……冬王は、そんな活況のなか、欠伸を噛み殺しながら家路に就いていた。
「くそ、あの変な女のせいで寝不足だ」
昨夜の出来事を思いだして、乱暴に頭を掻く。結局、あの後は追っ手から逃れるのが精いっぱいで、異形を追うどころではなかった。
「せっかく異形を見つけたってのに……何だよ、殺すなとか」
心が魔道に堕ちたとき、人は異形と化す。その姿は醜悪で、知性はなく、強靭な肉体で人を襲って喰らう。
なべて世が乱れると異形も増える。異形が増えると世も乱れる。ここ数年、鎌倉近郊では異形にまつわる騒ぎが頻発していた。
「ただいま」
前浜近くの一角に、冬王の暮らす掘っ立て小屋がある。周囲にも似たような家屋が多い。いわゆる貧民街だ。
「おかえり冬王」
土間で朝餉の支度をしていた娘が、笑顔で少年を出迎えた。
同居人の、なづるだ。十九歳の、温和な顔立ちをした娘である。
「ほらこれ」
冬王が、労働の報酬として受け取った魚や野菜を差しだすと、なづるは顔を綻ばせた。
「今日はずいぶん大漁ね」
「西から荷が来たんだってよ」
「まあ。それは朗報だわ」
「おかげで今朝は大忙しだったぜ。まっ、その分多めに貰えたけどな」
「ありがとう、冬王。頑張ってくれて」
なづるが冬王の頭を撫でる。
「や…やめろよ。ガキじゃねえんだから」
照れて、そっぽを向く冬王。だがまんざらでもないのか、口で嫌がっている割りに、なづるの手を振り払おうとはしない。
「あっ、そうそう。冬王にお客が来てるわよ」
「客?」
「冬王も隅に置けないわね」
「はあ? 何言って……えっ!?」
板間を覗き込んだ冬王は、思わず己が目を疑った。そこに正座して冬王を待っていたのは、まさに昨夜遭遇した、あの妙ちきりんな少女だったからだ。
「なな……」
「朝早くからの訪いをご容赦下さいませ」
少女が恭しく頭を下げる。
「何でここに……」
「これです」
少女は懐から小さな巾着を取りだしてみせた。
「あっ、それ俺の。夕べから探してたやつ」
「拾いました。昨夜のあの場所で」
「くそっ、あのとき落としてたのか」
不覚である。
「失礼かと思いましたが、中身を検めさせてもらいました」
巾着のなかには守札が収められていた。冬王が、なづるから貰った物だ。
少女が守札に記してあった寺に赴くと、そこの僧が、この巾着はなづるの拵えたものではないかと教えてくれた。彼女の針仕事は界隈で評判だったから、僧もすぐに気付いたらしい。
そして、その足でここを訪ねてきたという訳だ。
「では、お返しします」
少女が守札を収めた巾着を差しだす。
「……フン」
冬王はぶっきらぼうに受け取ると、その巾着を懐に仕舞い込んだ。
「こら、冬王。わざわざ届けてくれたのよ。ちゃんとお礼を言いなさい」
土間から、なづるの叱責が飛んだ。
「別に届けてくれなんて頼んでねえし」
「また、この子はそんなこと言って」
なづるが大きく嘆息する。
「ごめんなさいね、素直じゃなくて」
「いいえ、お気になさらずに。仲睦まじくて羨ましい限りです」
「そうなの。こう見えて、けっこう甘えん坊なのよ」
「甘えてねえ!」
咄嗟に反論する冬王。
「良いではありませんか。先程も、お二人の仲の良さが窺えて、とても素敵でしたよ」
「……!」
どうやら帰ってきてからの一部始終を、ばっちり見られていたらしい。
冬王の顔が、鬼灯のように赤くなった。
「ガ…ガキ扱いすんな!」
思わず声を荒らげる。だが少女は、冬王がなぜ怒ったのか理解できないらしい。
「何を恥ずかしがっているのですか? 弟が姉に甘えるのは当然です。私の弟も……」
「だからガキ扱いすんなって!」
「あら。もしかして、あなたも弟がいるの?」
気になる文言に、なづるが反応した。
「はい。あまり会う機会はありませんが」
「どんな子? かわいい?」
「それはもう。目に入れても痛くないくらい愛らしいですわ」
「いいわねえ」
たちまち弟話に花が咲き始めた。
「く……」
状況が悪化したことを悟って、冬王が顔をしかめる。
「この前なんて、いっしょに寝たいって駄々をこねて大変でした」
「まあ、可愛らしい。そうだ。ねえ冬王、今晩いっしょに寝ましょうよ」
「ぶッ」
まさかの提案に、冬王は思わずむせてしまった。
「嫌に決まってんだろ!」
「いいじゃない」
悪びれもなく言うものだから質が悪い。
「だから、ガキ扱いすんなっての」
「そんなに照れることないのに」
「照れてねえし!」
冬王が顔を真っ赤にして拒絶する。その必死な姿があまりにおかしかったのか、少女が小さく吹きだした。
冬王が睨みつけると、慌てて顔を逸らす。だが顔を隠して笑っている。
「こいつ……」
生意気な女だ。年もたいして違わないだろうに。
「あらやだ、早く朝餉にしないと」
なづるが手をひとつ叩いて、土間に戻っていった。その途中で振り向いて、
「あなたも良かったら……そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね」
少女に尋ねる。すると少女は、あっと声をあげて、
「申し遅れました。ついつい、お話に夢中になってしまって」
そそと居住まいを正すと、床に指先を突き、深々と頭を下げながら名乗った。
「鞠と申します」
優雅な動作だった。冬王が思わず見惚れてしまうほどに。
「どうぞ、よしなに」
鞠がゆっくりと面差しを上げる。冬王と目が合うと、ふわりと微笑んだ。
「……!」
冬王は慌てて顔を背けた。
伏し目がちの瞳に、長い睫毛。触れれば淡雪のように溶けてしまいそうな、きめ細やかな白い肌。
「まり……」
半ば無意識に彼女の名を呟いてしまう。
鞠という名がとてもよく似合っていると思った。