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少年が、握っていた短刀で異形の背を斬りつけた。
「グアッ!」
赤黒い血を巻き散らし、異形がよろけた。
「えっ!?」
少女が驚愕する。武士の斬撃では怯みもしなかったというのに。
「オオッ!」
異形が背後に向かって爪を走らせた。だが少年はひらりと躱すと、少女を庇うように異形との間に立ちはだかった。
「おい、動けるか?」
「は…はい」
少女は反射的に答えていた。
見知らぬ見る顔だ。粗末な小袖を着て、髪は無造作に後ろで括っている。
「邪魔だから下がってろ」
「で…ですが……」
少年の向こうで、異形がゆっくりとこちらを向いた。だが、すぐに苦悶の声をあげてよろめく。背に受けた傷が痛むようだ。
「とどめだ」
少年が身を低く構えた。
「待って!」
少女が、咄嗟に後ろから少年の袖を掴んだ。
「えっ!?」
少年が驚いて背後を振り返る。
その隙を突いて、異形が家を飛びだした。
「あっ、待て!」
少年が、少女の手を強引に振りほどき、慌てて追いかける。だが表に出たときには、すでに異形の姿は闇に消えていた。
まさに一瞬の出来事だった。
「嘘だろ……」
異形が逃げていった方向を見て、少年が呆然と呟いた。
「やっと見つけたのに」
余程ショックだったのか、哀れなほどがっくりと肩を落としている。
「あの」
少女が恐る恐る少年に声を掛けた。
「お怪我はありま……」
「どういうつもりだよ!」
「ひっ」
突然の怒声に、少女は思わず首を竦めた。
「ど…どういうとは……」
「あと一歩ってとこで邪魔しやがって」
物凄い剣幕で、少年が少女に詰め寄る。
「おまえ、あいつの仲間なのか!?」
「ち…違います」
「じゃあ何なんだよ!」
「何と言われましても……」
「言われましても、じゃねえよ。くそ、もうちょっとで、あいつをブッ殺せたってのに!」
少年が心底悔しそうに、右の拳をパンと左の掌に叩きつける。
「こ…殺すなんていけません!」
突然、今度は少女が声を荒らげた。
「はあ?」
思わぬ反論に少年は耳を疑う。
「何だって?」
「ですから、軽々しく殺生をしてはいけないと言ったのです」
「おまえ、まさかアレが何か知らねえのか?」
「そ…それは知っていますが……」
だが少年の威勢に圧されたのか、たちまち声が小さくなってしまう。
「ちッ」
少年は苛立たしげに舌打ちすると、少女に背を向けた。
「あの、どちらへ?」
「決まってんだろ。あいつを追うんだよ」
すると少女が、先程と同じように少年の袖を掴んだ。
「でしたら、私も連れていって下さい」
「はっ?」
少年は再び耳を疑う。
「何で俺が、おまえを連れてかなきゃならねえんだよ」
「どうか、お願いします」
「そもそも、おまえが邪魔したから逃げられたんだぞ。それを……何なんだよ。さっきから意味が判らねえよ」
「お願いします。どうしても連れていってほしいのです」
「嫌だ」
少年はきっぱり拒否すると、少女の手を振り払った。しかし少女も、懲りずに再び少年の袖を掴んだ。
「やめろって!」
「ですから、私も連れていって下さいとお願いしているではありませんか」
「だから嫌だって言ってんだろ。いいから放せ!」
「いいえ。連れていくと言うまで放しません」
「放さねえと……」
少年が拳を握って振り上げる。
「!」
少女は一瞬首を竦めるが、気丈に唇を引き結び、逆に少年の顔を睨み返した。
「お…女子を殴るなど、悪師のすることです!」
その気迫に思わず少年がたじろぐ。言葉の意味をよく理解できないせいもあったのだが。
「何だよ、わろしって」
そのとき、表通りの方から複数の人間の足音が聞こえてきた。ちらほらと松明の明かりも見える。
こちらに向かってくるようだ。おおかた夜の町を巡回していた幕府の番兵たちだろう。
「くそ、もう嗅ぎつけやがった」
少年が忌々(いまいま)しげに顔をしかめた。
「ついてねえな」
「!」
その瞬間、少女が動揺して少年の袖から手を離した。
「あん?」
先程までの気丈な様子から一転、まるで迷い子のように心細い顔をしている。
「ほんとに何なんだ、こいつ」
とりあえず解放されたことに間違いはないので、少年は闇のなかへ身を転じた。
「あっ、待って下さい。まだ話が……」
気付いた少女が呼び止めるが、
「じゃあな」
一陣の風のように路地の隙間に消えていった。
「あそこだ!」
「そこの者、待て!」
四、五人の番兵がその後を追う。
「まだ聞きたいことがあったのに」
少女が肩を落とす。
「あら?」
足元に小さな巾着が落ちている。どうやらあの少年が落としていったようだ。
少女は巾着を拾い上げると、もう一度少年が走り去っていった方角を見た。
「動くな!」
そのとき複数の番兵が少女を取り囲んだ。
「怪しい奴!」
番兵たちが槍を構え、包囲の輪を縮めてくる。
「あの、私は……」
少女はおろおろしながら番兵たちの顔を見回す。松明の火が目に痛い。
「待て」
そのとき、番兵の間を割って直垂姿の青年が姿を現した。
「あ……」
少女が小さく声をあげた。
「ここはいい。おまえたちは死体の始末と、今しがた逃げた者を追え」
「ハッ」
青年が命じると、番兵たちが動きだす。
「あの……」
少女が、ばつが悪そうに小さく声を掛ける。
だが青年は、きつい眼差しで少女を睨みつけた。それだけで、少女は思わず首を竦めてしまった。
「また、お屋敷を抜けだしてきたのですか?」
青年が少女に詰問した。言葉こそ丁寧だが、有無を言わせぬ口調だった。
「それは……」
少女が口ごもる。
「このようなことはおやめ下さいと、何度も申し上げたはずです」
「……ごめんなさい」
「まったく」
「あの、どうか父上には内密にお願いします」
「……」
呆れたように溜め息を吐く青年。
「とにかく、お屋敷までお送りしましょう」
「父上には……」
「心得ております」
青年に促され、少女は夜道を歩きだした。
そのときになって、自分が手のなかの巾着を握りしめていたことに気付く。
「あの子……無事なら良いのだけど」
また少年が逃げ去った方を見やった。
「いかが致しました?」
「何でもありません」
巾着を懐にそっと仕舞うと、少女は青年に連れられて夜の鎌倉を歩いていった。