2話 光
「――向かう方向はこっちで良いんだよな……」
オレに央納殿とその周辺、さらに神官たち内々や天界での諸々の常識を教えてくれた、第一文神官の佳幻様と別れた後。オレは、佳幻様から貰った地図を頼りに、西海殿へと向かっていた。
「来た時から思っていたけれど、天界って本当に綺麗だよな……内竜山脈のみんなや彼奴にも見せてやりたいよ」
しみじみとした感慨深い気持ちになるけれど、決して会えなくなったわけじゃないんだ。
佳幻様もひと月に決まった仕事をしっかりとするならば、別に下界に降りても構わないと言っていたし。
「よぉーし、早く仕事をちゃっちゃかちゃっちゃか済ませて、みんなに会いに行くぞ!」
――そう思っていたのに。
天界に来てから間もなく、一夜が明けようとしているというのに、オレは西海殿にたどり着けないということはおろか、道に迷っていた。
……別にオレが地図を見るのが下手なんじゃない。単純に、佳幻様から貰った地図が見にくいのだ。
加えて、オレにはそもそも地図を見てどこかに行く、という機会がなかった。
仮にあったとしても、大抵の場合は旅になれている彼奴が着いてくるから、地図が読めなくても、道に迷いそうなぐらい方向音痴だったとしても問題はなかったのだ。
「くそぅ……こんな時に限って彼奴を必要とするなんてなんか負けた気になる……」
いつもは口喧嘩ばっかりだったが、困ったときに助けてくれて、頼れる相棒だったのは間違いなく彼奴だったのだ。
「せっかく、神官になれたんだから、不思議な動物でもいてくれればいいのに」
ぼやいてみたけど変化は……
――ササッ。
音を立てて、何かが叢で蠢いているようだった。
危険な野獣かもしれない、と警戒しているオレをよそに、姿を表したのは小さな光だった。
「ぷはーっ! やっと出られたよー! ありがとう、ありがとうっ!」
愛想よくしきりにありがとうと言っているが、オレはぼやいただけで、困っているだけで何もしていないのだが……って、光が喋ってる!?
「ど、どどどどどど、どうして光が喋ってるんだっ!?」
「だって、ここ、天界だよ? 神様に仕える人たちの住処だよ?」
確かに。そういわれれば、ストンと落ちるものがある。
間延びするような光の声に、オレの最高値に達していた警戒心はどこかに吹き飛んでしまった。
「いやいや、そんな簡単に信じ込んじゃ駄目でしょ?
もしかしたぼくがすっごく悪い妖精で、きみのことを今から食べちゃう、なんて言い出したらどうするんだい?」
「え、オマエ、妖精なの!? 本当に妖精って存在するんだー!」
神官の姿は下界でも一度、見たことがあったから信じていたけれど、神話の住人である精霊の姿は、真には信じていなかったので、目の前に精霊がいることに感情を隠せないでいる。
「うわぁぁぁあああ! そんな風にぼくを振り回すなああぁぁ!」
おっといけないいけない。
気分が上がって、つい光に触ってみたけれど、それはご法度らしかった。
「仮にもぼくはね、上位精霊に位置するすっごくすっごく偉い精霊なの!
そんな偉い精霊に黒武のきみが触ってもいいって思ってるの?」
「うーんと、佳幻様に教えて貰ったとはいえ、あんま詳しいことは分かんねぇーしなあ……あ、でもよ、本当に偉いやつは自分のことすっごくえらい、なんて言わないんだぜ!」
オレが教えてあげると、精霊は蜂のように光をあちこちに動かして、わなわなと竦むような声を上げている。
「どったの、精霊?」
「…………今、きみ、佳幻って言った? それってもしかして、央納殿にいる第三文神官の佳幻のことだよね?
あのキリっとした顔で、ぼくよりもすっごく偉そうで性格の悪そうな女のことだよね?」
「そ、そうだけどよ……佳幻様は第三文神官じゃなくて、第一文神官だぞ。
顔がきりっとしててかっこいい雰囲気なのは同意するけどよ、あんまし性格が悪そう、とか言わないほうがいいぞ。佳幻様は滅茶偉い神官様らしいからな」
「ふんっ! ぼくに掛かれば佳幻なんてちょちょいのちょいだもんね!
だって、ぼく、すっごくすっごく偉い上位精霊なんだから!」
すっごくすっごく偉い上位精霊という言葉、滅茶気に入っているんだろうな。
何回も何回も話の中に入ってくるし。
しかし、この様子じゃこの『すっごくすっごく偉い上位精霊』と佳幻様は何かあったに違いない。
目の敵にしているような気がするのはいつも鈍感と言われるオレでもさすがに分かる。
「すっごくすっごく偉い上位精霊は、佳幻様と何かあったのか? あ、でも、精霊と神官じゃ精霊の方が下な気がするんだけどな」
「むっきぃいいいいい! そんなわけないじゃん!
他の精霊じゃそうかもしれないけれど、すっごくすっごく偉い上位精霊であるぼくの場合は例外なの!」
逆鱗に触れたらしい。
この『すっごくすっごく偉い上位精霊』が誰かに似ているな、と思っていたが、浮かんできた。
隣の村の村長の息子だ。
父親が村長であることを笠に着て、周囲の大人たちに色々言っていたな。
文句ばっかりの子供だったけど、オレには懐いてくれたし、なんだかんだ言って憎めない子だったから印象に残っている。
あの子と目の前にいるこの精霊とを重ねていると、なんだか急に笑いがこみあげてきて噴き出してしまった。
「な、何を笑っているんだ! 怖いな! もう、ぼくが怒っていたのにすっごく話を聞いていないみたいだし、ぼくの怒りもどこかに行ってしまったよ……」
「うん、それはいいことだ。怒りは不運を逃すとも言うしな」
「誰の言葉だよ」
「オレのばあちゃんだ」
治泉ばあちゃんは、両親のいないオレを育ててくれた。金持ちというわけでもないのに、オレが成人するまでたった一人で面倒を見てくれた。
風邪を引いた日は、遠く離れた村から医者を呼んできてくれた。
オレが剣を習いたいと言った日には、都で一番の剣術士を連れてきてくれた日もあった。
「そんな、いい話すんなよぉ! 涙が、涙がとまんねえよおぉぉ!」
どうやらすっごくすっごく偉い上位精霊の琴線に触れたようだ。
鼻水を垂らしながら涙が光の中から出てくる。
……まあ、人間みたいな顔が見えるわけじゃないから、鼻水かどうかは分からないけれど。
「それで、すっごくすっごく偉い上位精霊は佳幻様とどういう関係だったわけ?」
「ぎ、ぎくっ……べ、別に大した話ってわけじゃないけどさあ……
きみは急ぐところがあるんじゃないの? ぼくの話に付き合っても大丈夫なわけ?」
「急いでいつ必要がある、とは佳幻様言わなかったし、絶賛迷子中だから別に構わない」
「さっきから思ってたけど、きみすっごく潔い性格だね」
胸を張って応、と答えると胸を張ることじゃないと言われた。
解せぬ。
「早く話せ。早く、早く、早く!」
「もう、お母さんに絵本をねだる子供じゃないんだから静かにしてよね!」
「そうなのか……オレにはお母さんなんていないので分からないが、普通の家庭では母親に絵本をねだるのか?」
オレの言葉にまた琴線が触れたようで、精霊は「うわ、悲しい話!」と言って、収まっていた涙を流し始めた。
……母親がいる喜びみたいなものを知らないので、オレにとっては悲しくも、嬉しくもない話なのだが、精霊がめちゃ泣いているので、収まるのを待つとしよう。
「話し始める前に自己紹介をしておくべきだね。
ぼくは西海の精霊にして銀天の叡知、ジェスターニ。皆は気安くジェスって呼ぶけど、きみはジェスターニと正式名称で呼ぶこと!」
「なるほど、ジェスと呼べばいいってことだな」
「話を聞く気ないのかな!」
すっごくすっごく偉い上位精霊――改め、ジェスターニは、自分で言っているよりもつんけんしている性格ではないと気付いていないのだろうか。
「まあ、どうしてもきみがジェスと呼びたいのなら呼んでもいいけど……」
「なるほど、それならジェスターニと呼ぶことにしよう」
「いや。そこは、『ありがたくジェスと呼ばせてもらう』って言うところだよね!
すっごくすっごく偉い上位精霊って口先では言っておきながら、実際には偉いなんて微塵も思っていないって感じるのはぼくの気のせいかな?」
すっごくすっごく気のせいではないのだが、ここは乗っておくのがいいだろう。
首を左右に振っておき、名を名乗る。
「オレは今日というか昨日というか、まあ最近に武神官になったばかりの静客だ。
特に呼び名はない。静とか、静ちゃんとか、あとは静ぷんぷんとか、お客さまとか、まあ、特に呼び名はないな」
「いやちゃんとあるじゃん! すっごくあるじゃん!
……全くもう、きみと――いや静客と話しているとなんだか疲れるな……」
オレは元気だぞ、と言ったら「きみはもう黙ってて」と言われてしまった。解せぬ。
そして、ジェスターニと名乗った光は次のように語った。
「ぼくはね、静客がこの天界に来るよりもすっごく前から天界にいたんだ。
どれぐらい前かというと、佳幻が天界に昇華されるよりも前から天界にいたんだ。
さすがに、この聖天が作られたぐらい昔ではないけれど、神官長がこの天界に来るよりも前にいたのは、この聖天にいる上位精霊の中でも、ぼくぐらいのもんじゃないのかな。
まあ、そんな古参のぼくはね、当時の南丘殿の第一文神官に任じられて佳幻と主従契約を交わしたんだ。
当時のぼくはまだ、上位精霊とまではいかないけれどそれなりに強い精霊だったからね。
今でこそ、精霊と契約する人は減ったけれど、佳幻と契約を交わしたころは全盛期と言っても過言ではないぐらい、当たり前に精霊と神官が契約を交わしていたんだ。
最初もぼくと佳幻の関係は良好だったよ。
なにせ、佳幻は精霊を使役することも少ない文神官だったからね。
ぼくが召喚されるときはたいてい、佳幻の執務室近くでいざこざが起こったときとか、佳幻が執務室を離れ、下界や他の神殿に出張するときぐらいだったから。
ぼくは佳幻が与えてくれる褒美である法力を餌にすっごく優雅でのんびりとした生活を暮らしていたんだ。
けれどその日はやって来た。――ぼくと佳幻が決別する日がね。
出張先から南丘殿への帰り道、狼が佳幻とその部下たちが乗る馬車を襲ったんだ。そしてね、間が悪かったことに、ぼくの眷属たちがその隙にぼくの元から離れていったんだ。
呆然としたよ。すっごく、すっごくね。
だってまさか、まさか、あれほど信頼していた眷属たちがぼくのもとを離れていくなんて、そんなふうに思った。
あ、眷属はね、精霊が上位精霊になった証みたいなもので、決別する頃にはぼくはすっごく強くてすっごく偉い上位精霊だったんだ。
けれど、眷属たちはいなくなってしまった。
佳幻たちを襲った狼たちは難なく返り討ちにしたけれど、ぼくの心にはぽっかりと穴が空いて……そして、風の甘言の囁きに乗ってしまったんだ。
風の精霊は、ぼくよりは若いんだけど、それなりに古株でね、眷属だって当時のぼくより少なかったのに、人を堕落させることじゃ飽き足らず、神官やぼくみたいな精霊たちも堕落させていったんだ。
そして、風の甘言に乗ったぼくは、主である佳幻を襲ったんだ。
すっごくすっごく申し訳ないと思ったけれど、佳幻はね、眷属が去っていって虚ろだったぼくに同情していたせいで、すぐに法具を出さなかったんだ。
だから……だから、佳幻のお腹には今も傷が残っているんだよ。
精霊から受けた傷は癒えないから。
正気を取り戻したぼくは、佳幻にぼくを抑えるように頼んだ。
あとは、よくわからないけれど、多分、佳幻に封印されたんだと思う。そこにある壺に入っていたみたいだから……」
なるほどな。
目の敵にしているなんて最初は思ったけれど、負い目を感じていて素直になれなかっただけなんだな。
ジェスへの評価が少し上向きになっていると、ふと疑問が浮かんできた。
封印されていたはずなのに、なんで自由に飛び回っているんだ?
「ああ、それはぼくも疑問に思っていたけれど、壺が古くなっていたっていうのと、あとは佳幻の法力が微妙に混ざっている静客が近付いてきて、『不思議な動物でもいてくれればいいのに』なんて言ったからだろうね」
「なるほど、言葉にしたら何でも叶うということか。これが天界か、いい世界だな。
……よし、食べきれない量の饅頭が食いたい!」
言葉にしてみたけれど、出てこない。
時間が掛かるのだろうか。
「いやいや、そんなわけないでしょ! それに神官には食事が必要ないから、ご飯を食べたいなら変人神官の家を尋ねるか、下界に降りるかのどちらかしかないよ」
なんと。佳幻様が一向に食事処を案内してくれないな、と思っていたけれど、天界にはそもそも食事処がないというのか。
じゃあ、どうやって生きているのだろうか。
「そりゃあ、巨樹の法力のおかげでしょ。だから、使いすぎると命というか、存在に支障をきたすからほどほどにするように、って注意されなかった?
……それこそ佳幻に」
ああ、それはそういうことだったのか。
うんうんと頷いていると「うわぁぁあああ!」と慌てた様子でジェスが叫びだした。もしかしたらこいつは頭がパアなのかもしれない。
「どうしたんだ急に叫びだして……っていうか、なんでそんな点滅しているんだ?」
「やばい。すっごくすっごくやばい」
点滅しているジェスは慌てふためくようにあちらこちらに動いている。
「このままじゃぼく、死んじゃう!」
少し下界に戻りたくなり、そして新たなる未知と遭遇した静客。
自分語りしちゃって、つっこんじゃったら、まさかの命の危機!? なジェス。
次回は、覚えのない契約です。