第七話-耳を疑った日
静かだった。
とても静かだった。
聞こえてくるのは、胸の奥で波打つ自分の鼓動だけ。
少しして、徐々に五感が戻ってくる感覚がした。
温もりを持った何かに覆われている感触。
淡い光が瞼をすり抜けてくるような気がして、アタシはうっすらと目を開けた。
「ん……」
最初に見えたのは、焦茶色の木の板に覆われた天井。
それと、円形の室内灯。
もぞもぞと身体を捩らせる。
アタシに被さっていたシーツから、アタシの腕が出てくる。包帯でぐるぐるに巻かれていた。
左手を天井に向けてかざしたまま、ぼーっとした頭でただそれを眺め続ける。
「生き、てる……?」
まるで夢でも見ているみたいな心地だった。あまりにも現実感が無かった。
やっぱり本当はとっくに死んでて、ここはそういう世界なんじゃないか?
なんてことを考えながら、ふと記憶を手繰り寄せてみる。
揺らめいていた人影、滲んでいく視界、赤い閃光、それが狙いを研ぎ澄ます先には――。
――そうだ。
「ノゾミッ‼︎」
ガバッと、アタシは跳ね起きた。血の気が引いていくような気分になって、背中にはじんわりと冷や汗が流れているのが分かった。
急に動いたからだろうか。頭がズキンと痛んだ。反射的に痛んだ場所を押さえると、ここにも包帯が巻かれている。一体、何で。
ぼーっとしてる場合なんかじゃない。ここはどこで、あの後何があって、ノゾミはどうなったのか。何でアタシはここにいるのか。それが分からないとどうしようもない。
ぐるっと、部屋の中を見回す。
天井のものよりも少し明るめの木材が使われた壁が四方を囲んでいて、本の詰まった棚やサイドテーブルのような家具が所狭しと置かれていた。古めかしい感じがして、懐かしさすら感じる。
広さはまぁまぁ。一般的な寝室ってこんな感じなんだろうなってくらい。
アタシの寝ていたベッドと並んで、もう一台、全く同じ形のベッドがあった。シーツが乱れている。誰かがここで寝てたってことだ。多分。
きっと、何処かにノゾミがいる。そう考えると、居ても立っても居られなかった。
本棚のすぐ脇に扉を見つけ、アタシはベッドから立ち上がる。手をつくと、ギシリとベッドの枠が軋んだ。
足早に扉へと歩いていく、その途中で、部屋の隅に置かれていた姿見が目に入った。
「……あれ⁉︎」
その中に見えたアタシの姿は、服を着ていなかった。包帯ばかりが身体に巻き付けられていて、まるでお化けみたいになっていた。
また慌てて部屋の中を見回す。目当てのものはアッサリ見つかった。寝ていたベッドのシーツの上に畳んで置かれていた。
そそくさと元の格好に戻って、念のため姿見の前に立つ。吹っ飛んだ時に擦ってしまったのだろうか、服の裾が一部ボロボロになってたりしたけど、特に変になってるところは無さそう。少なくとも、出歩くのに支障はなさそうだった。
「よし」
身なりを確認して、改めて扉の取っ手を掴む。
鍵が掛かってたりしたらどうしようと思っていたけれど、案外呆気なく、扉は外向きに開いた。
意外にも、その先の景色は、部屋の中とは全く違った雰囲気のものだった。
打ちっぱなし、という言葉がよく似合う、一面コンクリートの床と壁。無機質な光景に引っ張られるように、周囲の気温が一回り下がった気がした。
どうやらここは廊下のようで、アタシの立っている場所から左右に、長く道が伸びている。何枚もの扉が、開かれるのを待っているようだ。天井から等間隔にぶら下がる裸電球が、頼りない光を放っていた。
端まではそう遠くないように見えたけど、どうやらそれも曲がり角らしく、さらに左右に廊下が続いているみたい。
……何も分からない。
情報量が多すぎる。アタシはここからどこに行けばいいんだ。まず歩いてみるしかないか。ノゾミもいつも言ってた。とりあえず動いてみないと、思いつくものも思いつかないって。
「……あの」
「うわぁぁあっ⁉︎」
背後から、急に声が聞こえてきた。低い声だった。
アタシは悲鳴を上げながら、声のしてきた方を振り向く。勢い余って、情けなくも尻餅をついてしまった。
「いってて……」
「す、すみまえん、そこまで驚かせるつもりは無かったんですが」
また、同じ声がした。ゆっくりと顔を上げると、そこにはノゾミじゃない、一人の人が立っていた。
人が、立っていた。
緑色のシャツの上から、前にデータで見かけたことのある、白衣とかいうものを羽織って、黒縁の眼鏡をかけている、人。男の人みたいだった。申し訳なさそうにやわらかな苦笑を浮かべながら、アタシに向けて手を差し伸べている。
アタシはその手を困惑混じりに恐る恐る取って、ゆっくりと立ち上がった。
「……あ、えっと……ありがとう?」
お礼を言おうとしたつもりが、思わず言葉尻を上げてしまった。アタシは男の人の差し出した手を素直に取って、身体を起こす。
「いえ、こちらこそすみません。……貴女の探している人なら、きっとそこの突き当たりを左に曲がったあと、右手に見えてくる階段を上がった先の、すぐ目の前の部屋にいると思いますよ。それでは」
「あ……」
と、男の人はすたすたと曲がり角の向こう側に姿を消してしまう。何かを言って呼び止めようとしたけれど、言葉が出てこなかった。
人だ。人がいる。
それが当然だと言わんばかりに、普通に、人がいる。
「どういうこと……?」
これまでの十二年間、あちこちを旅してきて、生きてる人に会ったことなんて無かったのに。どうしてこんなところに、当たり前に人がいるんだろう。っていうか、だからここ何処。
……今会った人のことは後で考えよう。とにかく、あの人が言ってた「アタシが探してる人」っていうのは、きっとノゾミに違いない。言われた通り、廊下を歩いていくことにした。
突き当たりで左に曲がると、またコンクリートで覆われた直線的な道が続いている。
相変わらず薄暗くて、不気味な雰囲気を漂わせていた。床に直に接していた足元が冷える。
そう言えば、アタシが目を覚ました部屋にアタシのスニーカーは無かった。もしかすると、あの時落としてしまったのかもしれない。
音の無い廊下を、ひた、ひたと、壁に手をつきながら静かに歩いていく。それこそ、お化けの一体や二体でも出てきそうな雰囲気だ壁は所々綻びてるし、落書きみたいなものがあちこちに描き殴られていた。
突如、バン! と、アタシの立ち位置のすぐそばにあった扉が、凄まじい音を立てて開いた。
「ひぃいい⁉︎」
「ほら、早く行こーぜ!」
「ちょっと待ってよ! まだ準備が……あ、お姉さんすみません」
扉の奥から出てきたのは、二人の小さな子供。一人は廊下に飛び出してきて、勢いそのままに階段の方へと走っていく。後から出てきた方の子が、アタシに一度ぺこりと頭を下げてから、先に行った子を追いかけて行った。
「…………」
心臓がバクバク言っていた。ビックリした。どうなってるんだ、ここは。
男の人が言っていた階段は、今の子供たちが登っていったやつのことだろう。上がりかけた呼吸を落ち着けて、手すりを掴みながら、一段一段登っていく。途中に踊り場を挟んで、また十段くらい。トントンと足を進めると、本当にすぐ目の前に、一枚の扉が待ち構えていた。
多分ここだ。あの人の言う通りなら、ここにノゾミがいる。
早る気持ちを抑えながら、ぎこちなくドアノブを握りしめた。
手首を回すと、カチリ、と小気味の良い音がした。徐々に力を加えていくと、控えめに扉が軋んで、滑らかに奥へと開いていく。
朗らかな空気が頬を撫でた。
ベッドの部屋よりもいくらかゆったりとした空間。暖かな赤みが差した灯りと下にテーブルが置かれていて、それを挟んで人が二人、向かい合って座って、談笑しているようだった。
そのうちの一人、右側に座っていた人が開いた扉に気が付いて、チラとアタシの方を見る。すぐに視線を正面に戻したかと思うと、クイっと親指を向けてきた。
その人の視線に導かれるように、アタシは向かい合っていたもう一人に目を向ける。
……見慣れた、腰まですらりと伸びる黒髪が、アタシの視界の中で翻った。
「あ! シシキ! 起きてきたんだ! 良かったぁ〜」
その人はアタシに気がつくと、ガタッと乱暴に椅子を押し退けて立ち上がり、小走りで駆け寄ってきたかと思うと、アタシに覆い被さってきた。
虚を突かれたアタシは足に力を入れることができず、流れに身を任せるようにドタッと床に倒れ込んだ。
「――――ノ、ゾミ」
記憶の中で重ね合わせたのは、瓦礫を背に四肢を投げ出していたあの姿。もう一生会えないかも知れないと悟った、あの時の感情。
どう表せばいいだろうか。
手を離してしまったという後悔、生きていたという安堵、守れなかったという罪悪感、またその笑顔を見られたという幸福感。
綯い交ぜになった胸中から辛うじて浮かんだのは、その名前だけだった。
「うん。生きてるよ、私たち」
ノゾミはそう言って、アタシの頭をクシャリと撫でる。
「…………そっか」
指先からほんのりと伝わるその温もりが、ノゾミがここにいる何よりの証拠だった。
「そっか。……そっ、かぁ」
仰向けに倒れたまま、アタシはノゾミのことを抱き返した。今だけは顔を見られたくなくて、ぎゅっとその胸に押し付ける。きっと酷い顔をしている、と思った。
しばらく、このままこうしていたかった。死にそうになったあの時、あんなに遠くに感じたノゾミの姿が、ちゃんとアタシのすぐそばにあることを、もっと確かめていたかった。
……けど、ずっとそんなことを言ってられる状況でもなかった。
「……あ〜、感動のご対面のところ申し訳ないんだけども……」
と、ハスキーな女性の声が、アタシの耳に届いた。
「あぁいや、表立って邪魔するつもりは無いんだが、それにしたって説明は欲しいかと思ってね」
ノゾミから顔を離して、その向こう側に立つ人影を見る。
暖色の灯りに照らされているだけ……にしても随分と赤みがかった髪は、うなじのあたりで束ねられて揺れている。
吊り上がった鋭い目元は気怠げに据わっていた。真っ黒な服は腿のあたりまでスルリと裾が伸びている。ああいうのなんて言うんだっけ。
ワンピースとかキャミソールとか、多分そんな感じのやつだ。それに、さっき会った人と同じような白衣を羽織っていた。
「……えっと」
初めて会った人にいきなり誰? と聞くのも失礼な気がして、アタシは言い淀んだ。
何と言えばいいかな、と視線を彷徨わせていると、その人は「あー、みなまで言うな大体言いたいことはわかる」と言いながら、ガシガシと後ろ手で頭を掻く。
「私は亜夜ってんだ。まぁ適当にアヤさんとでもなんとでも呼んでくれ」
「アヤ……さん……?」
涙声が抜けきらないまま、アタシはその名前を反芻する。
なんだか不思議な気分だった。ノゾミ以外の人の名前を、またこうして呼ぶ日が来るなんて思ってもいなかった。
「とにかく色々知りたいことはあるだろうが……まず立てお前ら」
「「え〜」」
「え〜じゃない」
アヤさんは呆れたように眉をハの字にすると、「ったく」とため息を吐きながら、身体の前で腕を組んだ。
そう言われてしまったら仕方がない。
実際知りたいことは山ほどあるし、ここは大人しく離れよう。
と、考えが上手くリンクしたのか、どちらからともなく、アタシたちは互いに相手の服から指を離して、床に手をつきつつ立ち上がる。この部屋の床は廊下と違って木でできているらしく、足を動かすたびにギシギシとちょっと不安になる音が鳴った。
さっきはいきなりノゾミに抱きつかれたから良く見れていなかったが、どうやらここはダイニングキッチンみたいな役割の部屋らしい。
壁に沿って調理器具とか、シンクとか、あと何か黒い円形の台みたいなものもあった。位置的に、恐らく加熱用の器具なんだろうけど、今までどの文献でも見たことのないものだった。
何だろうあれ、と暫く眺めていると、「気になるか? それ。まぁ見たことないようなもんもあるだろうしな」と、アヤさんが口を開いた。
「ガスコンロって言うんだよ」
「ガス、コンロ……?」
ガスは辛うじて聞いたことがある。大昔に主要なエネルギー資源として用いられてた物質のことだ。逆に言えば、知ってることはその程度。ノスタミリチップの中にはまだ読みきれてない本もあるし、探せば何処かに詳しく書いてるのかも知れないけど。
「現状、何かと資源が限られてるからな。ここにはそんなに最新器具ばっか揃ってるわけでもないし、旧式のやつを動かす為にいちいちバツマル採取しに行くのも面倒だし。大人しく備蓄してるガス使った方が生活していく上で効率が良いんだ」
「……バツマル?」
また聞き覚えのない単語だな、と思って聞き返すと、アヤさんはわざとらしく慌てたような仕草を見せる。
「あぁすまん、いつもの癖で。バロックマテリアル――バロック鉱石の略称な。……結構いい略称だと思わないか? 用途次第で人間に天国も地獄ももたらす、アレの性質を上手く表現してると思うんだが」
「バツマル……?」
多分嘘だ。絶対にいつもの癖なんかじゃない。「いい略称だと思わないか?」からこっち側の話をしたかっただけだ、今のは。
……なんだろう、絶妙にダサいような気がしてならない。
けど、それを生き生きと語るアヤさんの表情は見事なまでのどや顔で、到底そんなことを言い出せるような雰囲気では無かった。
ふと隣を見てみると、ノゾミはアヤさんに少し冷ややかな視線を向けていた。それに気付いたらしいアヤさんは、コホンと一つ咳払いして、机から離れる。
改めて立って向かい合うと、アタシよりもアヤさんの方が背が小さいみたいだ。というか、よく見れば見るほど、身体付きも顔つきも、アタシたちよりも歳下みたいに見える。
「……えと……で、結局ここは何なの? アタシたちは今何処にいるの? 何でここには人がいるの?」
アタシが質問しながら詰め寄ると、アヤさんは苦々しい表情をしながら仰反る。
「お前、敬……いや、この際大目に見るか……」
ハァ、とまた大きなため息を吐くと、おもむろに右腕の袖を捲って、手首に着けていた腕時計みたいなものをポンと叩いた。ブゥン、と低い音を響かせて、半透明のウィンドウが空中に現れる。それをクルリと回して、アタシたちに見せてきた。
「――ここは元々私が住居、兼研究施設にしていたブロック。お前らが気絶したあの浮島から真下……大体地下五十メートルくらいの場所に当たる」
そこに映し出されていたのは、簡易的に表現されたこの辺一帯の地図だった。
「地下…………」
アタシがボソッと呟くと、ノゾミが小さく頷いた。どうやら先に目が覚めた分、ノゾミはもうこの辺りの話を聞かされたらしい。そりゃそっか。
「元から地下にあったお陰で、例の事件の被害も免れた。……それからは、災害難民になった市民とか孤児とかを匿って、ここで生活させてる」
「じゃあ、アタシたちがここに居るのは」
「外を監視させてるカメラがヤツらの活動反応を感知したから、様子を見に行ったらお前らが倒れてた、だからここに持ち帰った……ってとこだな。良かったな、私があと数秒遅かったら死んでたよ、お前ら」
淡々と告げられるその事実に、今更ながら背筋が凍る。脳裏にまた、あの時の光景が浮かび上がってきて、アタシは膝が震えそうになるのを必死に抑えていた。
「ってなわけで改めまして、私はここの管理と運営を担当してる。遠永亜夜だ」
と、アヤさんはウィンドウをしまいながら、その赤みがかった長髪をサラリと流して、得意げに笑みを浮かべた。
「因みに全く何の自慢でもないが、こう見えて歳は一二〇六歳だ。宜しく」
「「…………え?」」
聞き間違ったかな? と、アタシたちは顔を見合わせる。
聞き間違いでは、ないようだった。