第一話-空が落ちた日
私たちはかつて、偽物の空を見上げていた。
「今から何十年も昔、父さんや母さんが子供の頃に、世界は変わってしまったんだ」
なんて、父さんは事あるごとに、空を眺めてはそう言った。
私たちの生まれる遥か昔、増えすぎた人間の住む場所を確保するために、とある複雑な仕組みが開発され、人々はそれを使って、二百を超える『浮島大陸』を作り出した。
名前の通り、地面を空に浮かべてしまったのだとか。お金持ちの人たちや偉い人たちは、窮屈になった地上をいそいそと捨てて、空の上に逃げ込んだ。
そうして、上の人たちからすれば「下級」な私たちは、地上に取り残された。
その浮島は、地上に暮らす人達の街をすっぽりと覆ってしまうほど大きかった。だから、それを憐れんだ偉い人は私たちのために偽物の空を作ってくれたんだって。よく分からないけど。
私は初めてそれを聞いた時、「そんなことをわざわざしてくれるなんて、上に住んでる人たちは良い人なんだな」とぼんやり考えているだけだった。
自由なんてものも権利なんてものもよく分かってなかったし、難しいことなんて考えるだけ無駄だと思っていた。ただ、幼かっただけだ。
けど、父さんの顔は寂しそうな、悔しそうな、そんな表情をしていたのをよく覚えている。
「のーぞみ! 遊びに行こ!」
休みの日の午前中、特にやることもなくてベッドでゴロゴロしていると、騒がしい声と一緒に一人の女の子がノックもせず入ってきた。
「えぇ〜……私今日ゲームしようと思ってたんだけど」
「いーから! すっごい面白い所見つけたんだって」
「あ、ちょ、ちょっと……!」
私の意見など最初からまるで聞いていないと言わんばかりに、女の子――糸色は私の手を引っ張って、連れ出しにかかる。
母さんに助け舟を求めたところで、どうせ「たまには外で身体を動かすべきなんだから、ちょうど良いじゃない」と決まって言うのだ。だから私は大人しく諦めて、「行ってきまーす」と家の中に向かって大きく言いながら、糸色の後を着いて行った。
……それに正直な話、糸色と一緒に外で遊ぶのは嫌ではなかった。いつも身近で新しいことを見つけてきては、それを私に一番に見せてくれた。
近所の草むらで暮らしていた猫の家族、古本屋で見つけた掘り出し物の飛び出す絵本、街の裏山にある秘密の洞窟……。
糸色と街を探検する日々は、どれも私にとって大切な思い出だった。
だから今日も、一体糸色は私に何を見せてくれるのだろうと、内心胸を高鳴らせていた。
外に出ると、偽物だという太陽は空高く上っていて、少し生温かい風が吹き抜ける。糸色に連れられてやってきたのは、前にも来たことのあった秘密の洞窟の前だった。
「……ねぇ糸色、ここって」
「そう、この前の洞窟なんだけどさ、昨日探検してたら奥で凄いの見つけたんだ!」
背の高い木が生い茂る山の斜面にポッカリと開いた横穴。その奥からは微かに冷たい空気が流れてきていた。
「こ、この奥なの? でも暗くて何も……」
「だーいじょうぶ! 今日は秘密兵器があるからね!」
そう言って糸色が取り出したのは、どこから持ってきたのやら、簡単なARソナーと懐中電灯だった。
「これなら中の様子も分かりやすいし、暗くても明るくできるから平気! さー行ってみよー!」
おー! と掛け声まで自分でやって、糸色は洞窟の奥へと入っていく。私も覚悟を決めて、でも糸色となら大丈夫だと信じて、暗闇の中に足を踏み入れた。
中は意外と広くて、そんなに危険な場所も無さそうな感じだった。何回か足を滑らせて転びそうになって、その度に糸色に助けてもらったけど。
そうして体感的に四十分くらい歩き続けた頃、なんだか奥から吹いてくる風が強くなってきた気がした。
「はぁ、はぁ……ねえ、まだ歩くの……?」
「いや着いたよ、ほら!」
流石に体力も尽きかけていた所で、糸色は洞窟の先を指差した。これまで糸色の懐中電灯無しでは真っ暗だった洞窟の中に、いつの間にか一筋の光が差していた。
出口みたいだった。糸色も懐中電灯を消して、足元に気をつけつつ、その光の元へ、眩しさに目を細めながらもゆっくり歩いていく。
そうしてようやく洞窟から抜け出した瞬間、これまで感じたことのない風が吹いた。
清々しくて、綺麗で、澄んでいるような。こんなに息がしやすいと感じるのは初めてなような、そんな風だった。
洞窟を抜けた先、目の前には大人の背くらいの高さがあるフェンスが立っていて、その向こう側には人の面影すら感じられない、荒れ果てた草原が広がっていた。
「――すごい」
見る人が見れば確かに、荒れ果てた、寂れた景色だったかも知れない。けど、その時の私からすれば、それは今まで見たことのないほどに美しい景色だった。
「でしょ? 行こ、このくらいなら越えて向こうまで行ける」
私たちは二人でフェンスを乗り越えて、原っぱを駆け抜けた。洞窟の出口からかなり離れたところまで走っても、まだ果ては見えそうになかった。前を走っていた糸色が足を止めて、こっちに振り向く。どうしたのかと首を傾げると、糸色は彼方の空に指の先を向けた。
「……望、空見上げてみて」
「空? 空って——」
どうして今そんなことを、と思いつつも、私は言われるがまま振り向いて、空を眺めた。
――そこには、あまりにも巨大な『地面』が浮いていた。
まるで一つの岩の塊がぷかぷかと浮いているかのような形をした浮島は、私たちなんかじゃ到底届きもしないほど遠くを漂っていて、その圧倒的なまでの存在感に、私は暫く言葉を失った。
「何あれ⁉︎ すごいすごい! ねぇ、あれってもしかして……!」
目を凝らせば、その地面の上にはいくつもの建物のような影が、まるで米粒みたいな大きさでズラッと並んでいるのが見えた。私はそれに気付いて、柄でもなく興奮気味に糸色に詰め寄る。
「うん! 多分あれが『浮島』で、つまりこの私たちがいる場所の上が——」
「――本物の、空……?」
また私は目を輝かせて、雲ひとつない青々とどこまでも広がるそれを仰ぎ見る。いつも見ていた偽物との違いなんて私にはよく分からなかったけど、本物のそれは偽物と比べ物にならないほど自由で、広大なもののような、そんな気がしていた。
「どう? すっごいでしょ、これ。大発見だと思わない?」
「……うん……!」
草むらの中から飛び出してくる鳥たちも、遠く耳に響いてくる虫の鳴き声も、サワサワと風に撫でられた草の擦れる音も、この光景の全てがキラキラしているように見えた。
いつまでも、いつまでも、私たち二人の視線は、その深い深い蒼色に吸い込まれ続けていた。
「——ねぇ、あれなんだろう。あれも鳥かな?」
「え? どれ?」
ただ呆然と雄大な空を眺めていた私は、ふと視界の端に白銀に輝く鋭い光を見つけた。太陽の光が反射して、その形を確かめることは叶わない。
けれどそれは、今まで見たこともないほど、素早く一直線に何処かへ向かって飛んでいく。
「本当だ、鳥かな? 凄い速いね! けど、あんな鳥今まで見たこと——」
天高く飛ぶそれを、私たちは何となく目で追う。そして、その姿が太陽と丁度重なった時。
それは、まるで血のように赤々と煌めく光の筋を放った。
放った先には、私たちが今日まで数え切れないほど見上げてきた浮島。その大きさでは光を避ける事など許される筈もなく、光線は呆気なく浮島を貫いて——
――経験したことのない轟音と地響きが、私たちを襲った。
声を出すこともままならない、土埃が吹き荒ぶ中、やっとの事で私は目をうっすらと開いた。
今の今まで空中に在ったはずの浮島が、次々と爆発を繰り返しながら崩れていくのが見えていた。
「…………………………え」
今、何が起きているのだろう。私は何を見ているのだろう。
目の前のこの光景が夢か現実なのか、それすらもわからなくなったまま、私はただただ立ち尽くして、落ちていく空を眺めていた。
けど、私はハッと気付く。そうだ、あの下には私たちの街があるんだ。このままじゃ皆が危ない。
「……糸色! 戻らなきゃ!」
「えっ……あ、う、うん!」
同じく心ここに在らずという様子だった糸色に声を掛けて、私たちは元来た道を走り出す。
フェンスを飛び越えて、頼りない灯りで先を照らしながら洞窟の中を駆け抜けた。
当然、私たちは小さな子供だ。身体だってまだそんなに強くはないし、痛みだって慣れていない。
けど、私たちは何度も躓いて、転んで、ボロボロになりながら、がむしゃらに駆け抜けた。
……今となっては、よくもまぁ間に合うなどと思ったものだ。
そんな奇跡、万が一にも起こらないというのに。
洞窟を抜けて私たちが目にしたのは、変わり果てた故郷だった。
崩れ落ちてきた岩や建物の残骸が雨のように降り注ぎ、私たちの街は、家は、押し潰されて埋もれて、もう何も見えなくなってしまっていた。
「――なに、これ」
信じられなかった。信じられるわけなかった。どうしてこんなことになってるのか、理解が全く追いつかなかった。
「父、さん……? 母……さん……?」
「ちょっ……望! 危ないッ!」
おぼつかない足取りで洞窟の外に向かおうとしていた私の腕を掴んで、糸色は私を中へと引っ張り戻す。
何で、という言葉が出るよりも早く、ついさっきまで私が立っていた場所に仄青く光る岩が落ちてきて、洞窟の出口をすっかり塞いでしまう。
糸色が引っ張ってくれなければ、間違いなく死んでいた。
……でも、でも——。
「ねぇどうしよう⁉︎ 何、なにあれ、嘘、嘘だよね⁉︎ そ、そうに決まってるよ、だって、だってあれじゃ、父さんも、母さんも、皆、みんな、う、うう……ッ」
気付けば私は、膝から崩れ落ちていた。体の震えが収まらない、寒気が止まらない。怖い、怖い、怖い。
蹲ることしか出来なくなった私に、糸色は背後からそっと手を回した。
「大丈夫……大丈夫だよ望。まだ分かんない、何も分かんないんだから、だから」
その腕は血の気が引いたように冷たくて、声もひどく震えていて。まるで縋り付くみたいに、そうでないと壊れてしまいそうだと言わんばかりに、私のことを強く抱きしめる。
真っ暗になった洞窟の中、二人分のすすり泣く声と、轟く地鳴りだけが、終わっていく世界で細く、細く響いていた。
――あの日。
――空が落ちた日。
私たちは、私たちにとっての全てを犠牲に、望みもしなかった自由を手に入れてしまった。
もう、十二年も前のことになる。