悪魔の舌から、逃れろ
ホットフラッシュは、室内に新鮮な空気が入った時に起きやすい。だからあらかじめ対応しておくのだ。
晶も手伝いたかった。凪と同じように、鉄棒を持つ。それはずっしりと重く、晶の足元がふらついた。
「やめとけ」
真横で窓を叩き割りながら、凪が言う。
「割ったと同時に炎が出てくるぞ。それを避ける自信がないなら、梯子を固定しとけ」
確かに、凪は窓を割ると同時に左右へ身をかわしている。自分にはそんな余裕はないだろう、と晶は思った。
大人しく梯子を持ち上げ、最も煙の少ない外壁にたてかける。しかしこれでは、風ですぐに倒れてしまう。
(何か重石になるも……の……)
晶は振り向き、そこで動きを止めた。生き残った蜥蜴たちの青い目が、じっとこちらを見ている。
「お、追いかけてきたの……」
蜥蜴が同意するように低く鳴く。そして尾が、くるりと円を描いた。梯子の下部が、その中にがっちりと巻き取られる。
「手伝ってくれるの?」
晶がつぶやくと、蜥蜴がうなった。それは「任せろ」と言っているように聞こえる。
「凪、できたよ!」
晶が叫ぶと、凪がするすると梯子を登った。二階の窓を覗きこみ、手で丸印を作る。
「床が焼けてない。ここから入るぞ」
凪は器用に体をくねらせ、硝子を割る。そして侵入時に刺さらないよう、枠の破片を取り除いていった。
それが終わると、二人は屋敷の中へ飛びこむ。火元からは離れているはずなのに、視界が灰色に染まった。
(な、なんだこれ?)
薬局の火事とは、比べものにならない。学校の訓練で習ったように、袖で口元を覆って体をかがめる。同じ体勢になっていた凪が、怖い顔で振り向いた。
「いいか。壁伝いに進むぞ、絶対に離れるなよ。あと、もう火が回ったところは行けないからな」
「……うん」
パーチェが二階に逃げていなければ、もう手の施しようがない。それでも、可能性があるところを探したい。晶は、割り切って進むことにした。
部屋をうつるたびに視界が暗くなり、煙もますます多く加わってきた。パーチェのピンクの髪を探していたが、晶はすぐに断念する。
(ダメだ、全部灰色に見える)
全てのものが、モノトーンの世界に押し込まれる。
「煙が強すぎる、引き返すぞ」
とうとう凪が白旗をあげた。晶は唇を噛む。
今出たら、二度と引き返せない。それは、痛いほどわかっていた。
(何か、何かないか。僕にまだ、できること)
晶は周囲を探る。すると指先が、小さなものに触れる。頭に一気に血液が昇った。
(あのライトだ!)
荷物を整理した時に出して、すっかり存在を忘れていた。明かりに見えないから、カタリナも見落としたのだ。
(もらったばかりだから、まだ電池は切れてないはず……)
落とさないよう、細心の注意を払いながらライトに手を掛ける。裏のスイッチを押すと、強い明りが部屋の中を照らした。
わずかな可能性だ。だが、ゼロよりははるかにいい。
晶は祈るような気持ちで、電球を動かす。すると、部屋の隅がちかっと光る。
その方向へ突進した。闇雲に伸ばした手が、柔らかいものに触れる。
「凪っ、……ゴホッ、凪!!」
凪はすぐに来て、パーチェを背負った。
もうここに用はない。晶がそう思ったのと同時に、黒煙が追いかけてくる。どちらからともなく、二人は走り出した。来た道をひたすら、逆に辿る。
炎が見えないのに、晶の全身がちりちり熱い。
「下から炎が来てる。床が抜けるぞ、ぼさっとすんな!!」
凪が怒鳴った。晶はあわてて梯子を下りる。凪の後方から、火柱があがった。
「くそっ!」
凪が窓枠に取りつく。蜥蜴が大きなヒレを広げた。
「凪、飛んで!!」
考えている余裕はなかった。凪は空中へ身を躍らせる。大人一人分の体重を、蜥蜴のヒレはゴムのようにひねりながら受け止めた。
「いてっ」
凪の声がする。晶はようやく、息を吸い込んだ。
「生きてる」
全身を冷たい風がなでると、さっきまでののぼせが嘘のように消えていく。晶は何度もくしゃみをした。
「……ん」
その音がうるさかったのか、パーチェが起き出してくる。
「天国って、思ってたより地味なところね」
パーチェは半目のまま、首を回す。まだ意識がはっきりしないようだ。
「おい、しっかりしろよ」
熱でぼさぼさになった髪を整えながら、凪が言う。パーチェはじっと声の方を見つめた。
「……やっぱり、違うわね。天国ならこいつがいるはずないもの」
「何だとこのちんちくりん」
「うっさいわね、顔だけ男」
「ああ、また始まった」
晶は天を仰ぐ。しかしとにかく、全員無事で本当に良かった。
「ぐるる」
また蜥蜴がうなる。彼らの目の先には、逆襲にあってぶっ飛ばされた男たちがいた。
「ねえ、あいつらはどうするの?」
晶が言うと、二人ともようやく喧嘩をやめた。
「とりあえず、ブチのめすわ」
「もうのびてるよ。それより、今のうちに身元をつきとめた方がいいんじゃない?」
殺されかけたパーチェは、怒りがさめやらぬ様子だ。晶が提案しても、頬を膨らませている。
「もっともだ。だが、わざわざ自分の身分を明かすような物は持ってこないだろ。さっさと逃げた方が賢いぜ」
凪が冷静に割り切った。言われてみれば、その通りだ。
「……ナギの案ってのが気にくわないけど、そうしましょ。家が倒れるかもしれないし」
パーチェはそう言い、振り返る。そして炎の塊になった自宅を、はじめて正面から見つめた。