望んだ承諾
凪は、うろたえる晶を見ながら言った。
「台所へ戻るなら、ついでに研究室を覗いてみろ。あの女はそこにいる」
凪に背中を押される形で、晶は研究室へ向かう。おそるおそる開いた扉の向こうは、真っ暗だった。
(何も見えない……)
晶は奥へ進む。その時、足の小指が固い物に当たった。
「……っ」
悲鳴をあげるほどでもないが、平静でもいられないこの微妙な痛み。晶がそれに耐えている間に、徐々に目が慣れてくる。
『私、明るいと見えないのよ』
確かにパーチェはそう言っていたが、ここまで徹底する必要があるのだろうか。
その時、外で風が吹いた。雲が動き、わずかに月の光が入ってくる。部屋の中が、より見えるようになった。
「あれ?」
晶がつまずいたのは、パーチェがかけていたごつい鉱石眼鏡だった。それは不要品のように、床に放り出されている。
「パーチェ? どうしたの?」
父が近視だったので、彼が眼鏡をなくしたときの困惑具合を覚えている。晶はパーチェを探して、二階を見つめた。
その時、風が吹く。月を覆っていた雲が完全に流れ、月光がどんどん室内に広がっていった。
黒一色だった室内が、灰色に変わる。その中で、パーチェの鮮やかな髪がうねった。
日光の強さの中では、けばけばしさが目立つ。しかし夜の暗さを含んだ中にあると、なんとも言えない艶がある。
パーチェは晶に気付かず、額にわずかな皺を寄せて文献を読みあさっていた。──眼鏡なしで、である。
晶は思わず立ち止まった。顔のほとんどを覆っていた眼鏡がなくなると、百合の花が開いたような色気が漂う。髪の毛が前に落ちてしまったせいで、あらわになった首筋が生々しい。
「……あら、何?」
パーチェがようやくこちらに気付いた。
「あ、え、あの」
晶はタコのように、無駄に四肢をばたつかせながら用件を語った。
「急な話だけど、まあいいわ。王の敵なら、そのおじさんとも気が合いそう」
パーチェが笑うと、口元から白い歯がのぞく。
「よ、良かった。じゃあ、日時が決まったら一緒に来てよ」
晶はその場から逃げだそうとして、また眼鏡につまずいた。
☆☆☆
次の朝日が昇った時には、状況が一変していた。
「おい、もう出るぞ。何をグズグズしてる」
「うん……」
晶は何か大事なことを忘れているような気がして戸惑ったが、結局その疑念を振り払った。
晶たちはインヴェルノ卿に呼び出されていた。迎えの馬車の中で、パーチェはなぜこんなに早く連絡がついたのかといぶかっていた。
(凪がズルしたんだけどね)
本当のことは言えないので、晶はただ笑って誤魔化し続けた。
「このような夜半に面会の場を設けていただき、誠にありがとうございます」
主賓室に足を踏み入れた晶と凪は、そろって卿に礼をした。作法が分かっていないパーチェだけが、一拍遅れて真似をする。
(緊張してるなあ……)
しかし、無理もない。内々の話で、大したもてなしはいらないと伝えてあったにもかかわらず、案内された部屋は目がくらむほど煌びやかだった。
落ち着いた色合いのタイルで覆われていたオーロの宮殿と違い、部屋中に金細工が溢れている。そして何より特筆すべきは、絵の多さだ。
生命力を暗示するように、果実がたわわに実った樹木のモチーフが最も多い。次によく見られるのは、インヴェルノ卿の肖像画だった。微妙に美化されているのが、画家の忖度というやつだろう。
「ははは、そう固くならずもっとこっちへ寄らんか」
「この前も思いましたけど、不用心では? 僕らが危険人物かもしれないのに」
「坊主とお嬢ちゃんには、そういう匂いがせんな」
インヴェルノ卿は、中身が貴族らしくない人だ。近所のおじさん、といった感じである。
「あ、お前はダメだけど」
凪にだけ、きつめの台詞が放たれた。
「こんなに美しいのに……」
「邪悪な匂いがする」
「正解です」
「俗物め」
凪は笑みを浮かべたまま、こっそりそう言った。しかし、インヴェルノ卿がものすごい勢いで振り向く。
「儂を俗物だと言うたな」
凪がそっぽを向いた。しかしインヴェルノ卿は、それでは誤魔化されない。
「言うたな」
「はい、ごめんなさい」
凪はさっさと白旗をあげる。だが彼の口元には、なぜか笑みが浮かんでいた。
「かかか、その通りその通り。相変わらず話せる奴よ」
「わかりやすいんだよ」
二人とも軽口をたたき合いながら、楽しそうだ。晶の心拍数が、やっと元に戻った。要は二人とも、軽いじゃれ合いをしていたのである。
「じゃあ、そろそろ本題だ。王への取引に使えそうか、確かめさせてもらう」
ようやく学術発表が始まった。最初は興味深そうにしていたインヴェルノ卿だったが、動物の臓器が登場した時点で明らかにまばたきの回数が増える。そして抽出物の話になると、完全に黙り込んでしまった。
「……聞かなければよかったと思っている。おお、おぞましい」
戦の経験もあり、もちろん肉食もしているインヴェルノ卿がそんなことを言うのが、妙におかしい。晶が遠回しにそう指摘すると、インヴェルノ卿は青い顔のまま口を開く。
「臓物には、全ての穢れが詰まっておる。よって、狩りはしても絶対に捨てるところなのだ」
モツでもなんでも美味ければ食う今の日本人には信じられない話だが、衛生環境の悪い時代はこれが常識だったのだろう。サリーレ博士の意識は、何歩も先をいっていた。
「生食に感染症の危険があるのは本当だけど、うまく抽出できれば奇病の特効薬になるのは間違いないわ。お金にもなるわよ」
パーチェがきっぱり言う。インヴェルノ卿はそれを聞いて、再び資料に目を落とした。本当に嫌そうな顔をしながらも、読み進めていく。
「……分かった。これを元に、奴に揺さぶりをかけてみる」
長い沈黙の後、ようやく待ち望んだ答えが出た。大役を果たしたパーチェがその場にへたりこむ。