現実は残酷だ
「うう、恐ろしい。そもそも、インスリンはどうして働かなくなっちゃうの?」
「ああ、それについては話してなかったな。身も蓋もないが、半分は遺伝だ」
背に高い低いがあるように、インスリン分泌も多い少ないがある。当然、先天的に少ない人の方が糖尿病になりやすい。
「日本人は、全体的に少なめだからな。余計に注意しないといけない」
残りの半分は、脂肪や筋肉量に左右される。そのため、食生活や運動改善が大事なのだと凪は続けた。
「しかし、Ⅰ型──オーロのかかった型だと、この理屈が通用しない」
初穂と力石が、「オーロって誰?」という顔をしたが、晶は話を進めることにした。
「特別なの?」
「日本でも、全糖尿病患者の一割もいない。発症原因は、自己免疫機能の崩壊といわれている」
免疫。
通常は体に入りこんだ異物を排除してくれる、頼もしいガードである。しかしそれが何らかのきっかけで暴走すると、自分の体を攻撃し出す。これが原因で起こる病気は自己免疫疾患と呼ばれている。原因が自分であるだけに完治は難しい。
「現代医学すら克服できてない、デカすぎる山だ。糖尿病Ⅰ型では、この攻撃によってインスリンを作る膵β細胞が破壊されてしまう。そのため一生外部からホルモンを補充する必要がある」
凪がそうしめくくった。力石が口を開く。
「つまり、大事なものが全然作れなくなるってことか?」
「そうだ。Ⅱ型──よくある糖尿病は、インスリンの働きが悪くなってるだけだが、こちらは『完全にない』んだ。治療法は、ひとつしかない」
「む、難しいのか?」
「いや。インスリンを注射してやれば済む」
「あ、それならうちの義父も使ってるわよ。慣れればすぐ使えるようになるって。ま、注射は本人も嫌みたいだけど」
「なんだ、脅かすなよ」
事情を知らない力石と初穂が、ほっとした表情になった。
「原因がはっきりして良かったわね。後は、その子の親にどう伝えるかだけど」
「……そうだな」
「人の命に関わるんだから、真面目にやれよ」
力石が凪をたしなめる。しかし凪は、気のない返事をしただけだった。
「今は、ちょっと疲れてるみたいで」
晶は無理して笑顔を作る。力石と初穂は何かを察したのか、それ以上の追求はせずに帰っていった。
扉が閉まり、沈黙が流れる。晶は食器を片付けながら、話を切り出した。
「あの世界に、注射ってあるの?」
「ない」
「インスリンって概念は?」
「もっとない。この世界でも、発見されたのは約百年前だぞ」
晶の目の前が、真っ暗になった。
「じゃあ、オーロは」
「死ぬしかないな」
凪はばっさり結論を口にした。それが大人の矜持だとわかっていても、晶の胸には苛立ちが広がる。
「……こっちなら、治せるのに」
「世界が違うってのはそういうことだ。後はセータにどう説明するかだけ、考えてろ」
凪は検査結果の紙をぐしゃぐしゃに丸めて、ゴミ箱に投げる。紙くずは四角い箱の縁に当たって、何度か跳ねた。
「ねえ。インスリンって、どうしたら手に入る?」
晶は凪に聞いた。しかし彼は、完全にこちらに背を向けている。
「少年よ。それは無理な相談だぞ」
黒猫が身をくねらせて、晶の膝にのってきた。
「……関係ないでしょ、黒猫には」
「ならば番人の私から話そう。文句はないな」
カタリナが現れた。晶は反射的に、自分の耳をふさぐ。
『無駄なことをしおって』
さっきよりくっきりと、番人の声が聞こえる。
『魔術を使って、直接お主の頭に語りかけておるからの。いいか。今回は、諦めよ』
晶は反射的にかぶりを振る。言葉は分かっても、理解するのを体が拒否していた。
『あの世界は、魔法を忌避し癒やしの術の使い手を根絶やしにした。しかしそれにとってかわった医術は、牛歩というのもおこがましいほど発展がのろい』
辛うじて発達したのは、外科分野。戦になれば怪我人が出るため、それに対処しなければならないからだ。しかし、内科疾患についてはほとんど手つかずで、流行病が発生すれば万の単位で人が死ぬという。
「……カタリナだって、その人たちが助かったら嬉しいよね」
『私にも感情はあるからな』
「だったら」
『しかし、番人としての答えはこうだ。丈夫な体に生まれなかった、病原菌と接触した、重要な臓器が損傷した──そういう者は死なねばならぬ。それが、今あの世界に生まれたものの宿命だ』
カタリナは、動く気配を見せない。晶は唇をかみしめ、両手を振りかぶった。
「それでいいの!? 番人として、何も考えてない状態で止まっていいの!?」
「何も考えてないのはお主じゃ、愚か者」
正面切って罵倒された。
「お主がこちらから薬を持ち込んだとしよう。病人は治り、みんな喜ぶ。しかし、それでめでたしめでたしとはならんのだ。『次』を期待されるぞ」
「……次?」
「病人は一人や二人ではない。噂はあっという間に広がり、お主の周りに集まってくるだろう。その全てに、責任持って治療が施せるのか」
カタリナの言葉で、晶の胸に穴があいた。盛り上がっていた熱意が、嘘のようにしぼんでいく。