悪霊の呼ぶ声
「母様」
「はい、母はここにいますよ」
「……いつも、いてくださいますね」
そう言ったオーロの声には、喜びだけでなく憂いも混じっている。
「僕がずっとこんなだから、母様もどこにも行けませんね」
王妃はすぐに、明るい声で話し出す。
「分かっていませんねえ」
「え?」
「今の母は、オーロといるのが一番楽しいのです。子供が要らぬ心配をするものではありません。あなたが大人になって、妃をもらって、お子が沢山出来たら──その時は堂々と、あちらこちらに足を向けましょう」
「……そうですね。しかし母様は、迷子になっていらっしゃる気がします」
母と子が、同時に笑い出した。
「ほほ、その通りでしょう。でも、あなたが探しに来てくれるのよね?」
「ええ……必ず……」
「おや、眠くなってきたの? では、後でね」
王妃はゆったりした歌を口ずさむ。それは徐々に小さくなり、消えた。天蓋の布が左右に開き、彼女が出てくる。
「眠りました。──どうか、お願いいたします」
「全力を尽くしましょう」
神妙な顔になった凪が、一礼してからオーロと向かい合った。肌の色や血管を確認してから、寝台の横に跪く。
「……お手をとっても?」
王妃がうなずく。凪がそのまま触診にとりかかった。まず子供の掌を広げ、そこを何度か指でなぞる。凪の眉間に皺が入った。
「直ちに儀式に入ります」
凪はもにゃもにゃと呪文──般若心経を唱え始める。そしてそれが終わると、薬壺を取り出し、他の術士を呼ぶ。
「塗ってさしあげなさい。私が呪文を唱え終わるまで、手をさすり続けること」
それから凪は、延々経を唱える。晶の足がしびれてきたところで、ようやく凪が足を二度鳴らした。待ちかねていた合図だ。
晶はじりじりと窓枠に近づく。幸い誰にも止められなかった。背中に当たるタイルが冷たい。
凪はそれを確認すると口を閉じ、金属椀に入れた白粉を謎の液体で溶く。
「燭台をこちらに」
「はい」
燭台の準備ができると、凪は懐から金属の棒を出す。
「それは何ですか」
「神託の宝具にございます。私の能力が最大限に高まっていれば、赤い炎は紫へと変わるでしょう。王妃、もう少し下がっていただけますか」
王妃はしぶしぶ、一歩だけ下がった。本当は近くで見たくて仕方無いのだろう。
「……では、参ります」
凪がためを作る。室内の目が、そちらにうつった。晶は金属の包みを手にして、決行の瞬間を待つ。
凪が炎の中に、金属棒をつっこむ。するとすぐに、炎が紫色へ変わった。
「おおっ」
室内にざわめきが起こる。それと同時に晶は腕を外へ出し、包みを投げた。
一拍おいて、ぽちゃんと間の抜けた音がする。しかし、それ以上のことは起こらなかった。
凪に対する期待はますます盛り上がっている。これで何も出来ません、では済まない。
(まずいよ……)
本物の奇跡が起きなければ、ここから帰れない。晶の背中に、嫌な汗がわいてきた。
(カタリナ!)
晶は番人を呼んでみた。しかし、「自分のことは自分でしろ」と言い放つ彼女は物音すらたてない。
(こうなったら、二人で暴れるしか……)
晶がそんなことを考え始めた時──背後で轟音があがった。その場にいた晶と凪以外が、頭を抱えてうずくまる。
晶は窓の外を見る。池からはもうもうと白煙があがり、水面に橙色の炎がたゆたっていた。
王妃は勿論、衛兵たちも怯えきっている。この世界では、爆発などめったに起こるものではないため、耐性がないのだ。世界の終わりかと、本当に思っているような表情だった。
(これならしばらくは、凪の思い通りだ)
晶の考えを裏付けるように、凪がさっと黒いケースをしまうのが見えた。わからないよう、王太子の腕を圧迫して止血している。
「やはり来たか、悪霊めっ」
凪が叫ぶ。王妃が息子に駆け寄り、金切り声をあげた。
「王妃様、安心なさいませ。王太子はご無事です。大人で体調が悪くなった者はいるかっ」
呼びかけに応じて、呪術師の一人が手を上げた。
「お……俺の体が……」
「どうした」
「冷たいんだ。さっきから何を触っても、なんにも感じねえ」
それを聞いた凪は厳しい顔で指示をとばす。
「よし。全員が取り憑かれる前に、ここを離れるぞ」
「は、はい」
男たちが一斉に帰り支度を始めた。ようやく顔に赤みがさしてきた王妃が、凪の前に立ちふさがる。
「お待ちなさい。この子の治療はどうなるのです!」
王妃は今にも泣き出しそうだ。彼女に向かって、凪はすまなそうに言う。
「申し訳ございません。しかし一旦戻って身を清めねば、悪霊が体を欲してあなたや王太子に害を与えます」
「私の体ならくれてやります! あの子が病気になってから、そうしたいと思わぬ日などありませんでした」
ついに王妃がぼろぼろと涙をこぼした。声がかすれ、何度も同じ願いを繰り返す。
晶は彼女に真実を明かせないのを、歯がゆく思う。しかし、ぐっと歯を食いしばって我慢した。
「なりません。王太子が、それを望みません」
凪が言った。王妃は、唇を噛んで下を向く。