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細長い蛍光灯の明かりが、台所の水回り周辺と日に焼けた腕を仄かに照らしていた。高尾は泡立てたスポンジを片手に、台所で食べ終えた食器を洗っていた。流しの中には、箸が転がり皿や茶碗がところ狭しと散乱している。
丸い大きな皿を手に取った時、高尾の脳裏に夕食の出来事が思い出された。
それは、茶の間で幸恵と餃子定食を食べている時のことである。テレビでは賑やかなバラエティー番組が放送されていた。高尾は、目の前で餃子を旨そうに食べている幸恵がいつ笑うのかを今か今かと待っていた。
味噌汁をすすり、彼はテレビ画面に目を向けてみる。大御所の芸人が、雛壇に座る若手芸人のネタに大口を開けて笑っていた。
映像を見るに、ウールーズは出演していない。幸恵のやつ、なかなか笑わないな。彼らが出演していれば、もう少し笑ったのかもしれない。動画を見ていたときのきらびやかな顔が思い出される。
彼は今、夕食前に閃いたアイデアを実行しているところだ。どうしたら彼女は笑うのか。そのヒントは、テレビにあると考えた。バラエティー番組を見ていれば、恐らく彼女は笑うはず。自ずと笑うツボを知ることが出来るではないか。
食事をしながら彼女の表情を観察していき、ほんの僅かな頬の緩みも見逃すまいと、それとなく彼は、鋭い視線を彼女の顔面に向けたりしていた。
彼女はどんなことで笑うのか。一体どんな笑いが好きなのか。同棲して半年は経過しているが、存じているのはお笑いが好きなことだけ。そんなわけで、データを取っていくことにしたのだ。一回二回笑ったからといって、それを笑いのツボと決めつけてしまうのは早とちりもいいところだ。少なくとも、半月は観察してみようと決めた。
「笑うツボ」に関しては、まずは彼女の笑い方だ。既に幾つかのバリエーションは浮かんでくる。それに加えて、彼女はどんなことに対して、どんな笑い方になるのか。他にも笑っているときの表情、笑う声の大きさ。更には、感覚的になるが、どれくらい笑っているのかも秒単位で計ってみることにした。それ以外にも良いのが浮かべば、その都度加えていくことにした。
笑うツボを集めてまとめていけば、笑わせるための方向性が見えてくる。
彼女の笑いのツボを知ることが何よりの目的。それがネタ作りの根底になる。今度こそ笑わせるその日のために、高尾は今一度気を引き締めた。
テレビを見ながら、幸恵は狐色の餃子を旨そうに口にして笑っていた。高尾はその度に、視線を前にして程度を確認した。
実はこのやり方、今にして思えば笑い声のみで判断していればよかったのだが、それは後の祭りだった。
番組は後半盛り上がった。二人は食事を終えて、テーブルには綺麗に食べ終えた皿や茶碗が放置されている。
「きゃはははは」大御所の突っ込みに、幸恵は声を出して笑っていた。高尾も半分釣られて笑いながら、幸恵の笑う顔を何気なく見て確認し、感覚的秒を数えた。
今のは一.二八秒。そして、笑いのツボレベルは五段階中の三てところか。よし、この調子で観察していこう、と思った矢先のときである。
ピタリと彼女の笑い声がなくなった。高尾はテレビ画面を見たまま、その瞬間を待ち構えている。笑え、笑え、どうして笑わないのだ。若手芸人の話すマネージャーの失敗談に、出演者全員が笑っている。そのゲラゲラと笑う声が、茶の間に座る二人の耳に響く。何気なく目線を横に一瞥すると、彼女の口許は真一文字に結ばれていた。
何故だ、可笑しい。視線を前に戻し、笑い転げている姿を目に映しながら彼は首を傾げた。面白い話が続いているというのに、彼女はちっとも笑わない。それどころか、鋭い目をして画面を睨んでいるではないか。急にどうしたというのだ、何故笑わなくなった。可笑しい、これはどう見ても可笑しいぞ。
そうこうしているうちに、またしても面白い話が飛び出した。今度は、黄色いジャケットを着たベテラン芸人が楽しそうに話を展開している。手を叩いて馬鹿笑いする大御所の司会者。
それをよそに、彼は眉間にシワを寄せテーブルを挟み座っている彼女の反応を待っている。クスッとも聞こえてこない。何故だか知らんが、ここにきて視線を感じる。頬の辺りをじっと見られている気がする。高尾はスローモーションに首を真横に向けてみた。
ぐっぐわっ。顔を見た瞬間、口から餃子をリバースそうになった。なんと幸恵は、昨日見た能面のような顔をまたしているではないか。
片方の眉毛が釣り上がり、高尾はぎこちない顔で固まってしまった。ピクピクと、その眉毛だけが僅かに上下している。まさかこのアイデア、悟られてしまったか。もし、そうであるならこの計画はもうおしまいだ。
目が合った状態で、高尾は相手の目の奥を探ろうとしてみた。しかし、瞬きもろくにしないその目から伝わってくるものは、恐怖にも近い感覚が深まるばかりだった。
一時停止でもしたかのように、二人は目が合ったまま動かない。
何とか言葉を発したい。高尾は、渇いた唇から竹輪の穴ほどの口をもわっと開いた。だが、脳までも思考停止してしまい、言葉が全く出てこない。
幸恵は黙ったまま、そんな高尾を凝視している。目を細めてずっと見続けている。テレビは既にCMに変わっていた。そんなことはどうでもいい、その目は確かに、何かを訴えてきていた。
ひゃっぱり(やっぱり)こええよ。高尾は視線を反らしたり合わせたりと、挙動不審な目の動きを繰り返してる。もう限界だ。またもや風呂場へ逃亡しようとした時、幸恵は能面ヅラを崩した。高尾を見つめたまま、少なからず怒り口調で訊いてきた。
「高尾、さっきから私の顔をチラッ、チラッ、チラッ、チラッ見てきてるし。何なの?」
「み、見てたかな?」
「とぼけちゃってえ。餃子食べてるときからずっとチラ見してたし」
気づいていたのか。でも、この計画までは知られてはいまい。まさか、目の前にいる女を笑わせたいためだってことまでは。
訝しげにずっとこちらを見つめていたが、幸恵はテレビをそれこそチラ見してから、黙っている高尾に口を開いた。
「つまんないし」
えっ。言葉には発していないが、目を見開き高尾は反応を示した。
「今回出てるお笑いの若手のこと。三年後には消えてるわよね」
「そうかな」
「最近の若手はつまんないし、若いなりの尖ったとことか、勢いが芸に表れていないし。もっとこう、ゴリ押ししてでも爪痕残すくらいのはきが欲しいのよね」
てっきり自分のことだと思った。何だ、ということは本当に笑っていなかったということか。
「そう言われると、確かにそうかもな。俺も見ていて、大して面白くなかったよ」
食べ終えた皿や茶碗を手に取り、彼はお盆に重ね終えると、台所へと運んだ。
流しに食器を移し、高尾は大きくため息をした。
これは相当大変だぞ。流石は幸恵。独自の分析をした上で、テレビを鑑賞していた。単にバカやっても笑わないわけだ。まあいい、こっちもこっちで策は練ってある。
大きな丸い皿をスポンジで洗い、水道の蛇口を捻った。泡の浮く皿やフライパンを丁寧に洗っていく。
きゃはははは。後ろの方から楽しそうに笑う幸恵の声が聞こえてきた。笑のツボに入ったのだな。その後も連続で聞こえてきた。
蛇口を閉じて、水回りに飛び散った水滴を側にある布巾で拭いた。
何のことで笑っているのだ。知りたい。首を後ろに向けてみるが、トークの声がこっちまでは聞こえてこなかった。
布巾を流しの角に置き、餃子臭い息を吐く。
あの二人にでも話してみるか。お笑いの話なんて、したことあったかな。
蛍光灯の紐を引っ張り、彼は流しの電気を消した。
彼女の笑う声が、今も茶の間に響いていた。
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