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鼓動(仮)  作者: 釜鍋小加湯
第一笑
7/15

1-7

 ぼやけたガラス戸の向こう側から、バチバチと床面に当たる音が聞こえてくる。

 折り畳み式のドアを隔てて、高尾は浴室で頭からシャワーを浴びていた。

 二畳ほどの空間に立って、すぐ隣には水色の浴槽がある。夏は湯船に浸かることは殆んどないから、中は空っぽのままになっていた。

 おでこに垂れた髪を、高尾は手で掻き揚げた。ほぼ水に近いというのもあって、浴びていくうちに、一日の汚れだけでなく火照っていた身体も冷やされてきた。それに併せて、気持ちの方も右肩下がりに落ち着いてきた。

 白いタイルから伝い落ちる水滴を前に、高尾は目を凝らした。ついさっき起きた受け入れ難い出来事を、ある透き通った一滴から覗き込んだ。

 人前で芸をしたのは、いつ以来だろう。昨年の忘年会以来か。確かあのときは、合田と坂下の三人でダンスをしたんだ。バネーズという一日限定のダンストリオを結成した。

 当初三人は、リズムに合わせてダンスを披露していた。中盤、曲調が変わるや否や、真ん中でダンスをしていた高尾だけが、得たいの知れない生き物に扮した。

「びんよよよーん」とか「びんよよびんよよびんよよよーん」とかいったりしながら、ボーリングのピンが跳ねるような動きをしだした。

 最終的には、三人共四方八方へ跳ねだして、ぶつかり合ったり壁に体当たりしたりした。激しいアクションの最中、リズムは突如止まり、三人はそれぞれ違う方向にぶっ倒れて終了となった。

 参加した二十人ほどの派遣社員の殆んどは、その得たいの知れない動きに、声をだして笑っていた。でもそれは、面白いものではなかったのだろうなと、今になって漸く悟った。

 振り返ること数分前。彼はあるコントを、保湿を終えた彼女の前で披露していた。

 仰向けに寝て足を屈ませ、「おんぎゃあほんぎゃあ」と泣いて赤ちゃんのモノマネをした。

「おんぎゃ……」泣き声は突然止み、今度は急に起き上がって土下座をした。「ごめんなさい、天井に飾っていた若い女の子のポスター剥がしちゃってほんっとにごめんなさい」と、(むせ)び泣きながら中年叔父さんが謝るという芸だ。何度か繰り返しやってみたが、全くウケなかった。

 このまま終わるわけにはいかない。お笑いを馬鹿にしといて、この有り様はどうみても不味い。どうにかして笑いを取らなければ。その時、忘年会の出来事がふと頭を過った。これならいける。起死回生の如く再来を狙った。

 雑巾の角を噛んで手で引っ張っているような表情をして、彼女の前で跳ねまくった。だが、跳ねれば跳ねるほど部屋の空気は白けていく。ズシンズシンと、着地の度に響く音。笑わない。とにかく、彼女は笑わないのだ。

 弾んでいたボールが弾まなくなっていくように、彼は跳ねるのをやがて止めた。呆然と立ち尽くし、汗だくで天を仰いだ。蛍光灯の光に目を細めた。

 静まり返った部屋の空気。二人は固まったように動かない。

 先に動いたのは高尾だ。重い空気に耐え兼ね、逃げるようにして茶の間を離れた。

 彼女の表情は、最初から最後まで変わることはなかった。まるで能面のようだった。

 どうして笑わなかったのだろう。そこまでつまらなかったのだろうか。特にあの得たいの知れないダンスは、あのときと同じように跳ねた筈なのに。一人だからいけないのか。リズムがないから。或いは、酒の力が必要なのか。

 もしそれらに該当したとしても、少しくらいは笑ってくれると思っていたのに。沢山の人から笑ってもらえたとしても、彼女が笑ってくれないというのには、辛いものがあった。

 こんな夜になるのだったら、くたびれた顔全開で、あいつらと呑みに行っても良かったかもしれない。

 シャワーを両手で(すく)い上げ、彼は顔を洗った。無表情で瞬きする彼女の顔が出てきては消える。出てくるたびに、顔を何度も洗った。


 幸恵は今年で三十歳になる。二年くらい前に、派遣仲間で集まる呑み会で知り合った。

 当時の彼女は、まだ派遣社員として泉製作所に勤めていた。呑み会にはたまに顔を出す程度の人で、顔は知っていても話をすることはなかった。

 話をするようになったのは、呑み会のとき幸恵が一番遅く来たときだった。その日は、何故だか分からないけど高尾の前の席はずっと開いていた。他にも幾つか空いていた席はあった。その中で、高尾の前の席に座ってきたのがきっかけだった。

 椅子を引いて座り、幸恵の顔が前を向いたとき、二人は自然に目が合った。このときは、付き合うだなんて全く思ってもいなかった。たまたま今回一緒になっただけなのだと。

 軽く会釈をして、初めましての挨拶から途切れながらも話をした。やがて、側に座る派遣の人たちも加わり話をしていった。

 すぐに意気投合とはならなかったが、その後、幸恵は呑み会に参加することが増えていった。お互いの存在を認め合い、高尾と会話をする機会も増えていった。

 連絡を取り合うようになってからは、呑み会以外でも二人きりで会うようになっていった。高尾は平凡な毎日が楽しくなってきた。

 デートを重ねたある日、彼は満を持して同棲したいと切り出した。

 返答を渋るかと思われたが、彼女は案外すんなりと首を縦に振ってくれた。

 半同棲に近い暮らしを既にしていたから。それと、私のアパートからよりも会社に近いし。更には、こっちの方が家賃も安いし。最後の最後で、高尾と暮らしたいってのもあるし。

 夕暮れ時、買い物袋を芝生に放置し、グリーンペパー中川から程近い公園内で、そんな風に話してくれた。

 一人ブランコから立ち上がり、高尾は夕日に向かい高々と拳を突き上げた。どっちも一緒に暮らしたいなんて、最高すぎる。

 二人が同棲していることは、仲のいい一部の派遣仲間にだけ伝えていた。

 ある時、呑み会に二人が一緒に現れないことを不思議がられた。二人が付き合っていることは知られていたため、高尾は質問攻めにあった。

 これ以上はぐらかしたところで、いづれはばれる。同棲していることを公にした。

 既に知っていた人からは改めて祝福されたりもしたが、知らない人からは驚いたあげく皮肉や陰口をはたく人もいたりした。

 翌週初めには派遣社員に知られ、週末には泉製作所の社員にまで広がっていた。二人のことをまるで知らない人たちからも囃し立てられ、幸恵はそれらを嫌い数ヵ月後に会社を退社した。

 同僚だった坂下と合田は、今でも幸恵のことを気にかけてくれている。

 お笑い芸人が出演している番組を見るようになったのは、彼女による影響が大きい。それまでは殆んど見ることはなかったのだから。

 彼女の怒りが収まっていることを願い、彼はシャワーの蛇口を閉めた。


 普段より長めのシャワータイムを終え、高尾はラフな格好で台所にいた。黒いTシャツに緑のハーフパンツを履き、Tシャツの前部分には骸骨や英文字が派手に描かれている。二十代の頃、外出用に着ていたものだ。

 茶の間では、幸恵がある猫キャラの形をした座布団に体操座りをして、野球中継を見ていた。

 実況の人が、十九対0と連呼している。どうやら試合が終わったようだ。勝ったチームの監督が、コーチらと握手を交わしていた。

 たまには呑むか。酒には頼りたくないが、生憎仲直りする方法はこれくらいしか思いつかなかった。

 冷蔵庫のドアを開いて、高尾は奥の方から缶ビールを一本取ってドアを閉めた。

「幸恵、ビール呑もうよ。何だか呑みたくなったから」

 彼女は座ったまま、顔だけ振り向いて答えた。

「んー、私はいいよ。明日も早いし」

 遠慮がちに手を左右に振り、顔をテレビの方へ戻した。ドライヤーで乾かした薄茶の髪がさらりと舞い、ショートカットの後頭部が再び高尾の方に向けられた。

 素っ気ない言葉に、高尾は表情を曇らせた。さっきの出来事を、まだ気にしているのかな。そうだよな。自分でさえ、シャワーを浴びてきても気分が冴えないのだから。

 一緒に呑んで、二人して和んだ気持ちになりたかった。でも、無理に誘うことで、更に亀裂が生じてしまう恐れだってある。それだけは避けたい。

 自分が呑むことで、そそられて呑みたくなるというのもありうるのではないのか。取り敢えず呑むか。

 缶ビールとコップ一つを手に持ち、高尾は茶の間に歩いた。

 扇風機が首を振って回り、茶の間は台所より涼しく感じられた。テーブルには、テレビのリモコンがポツンと置かれていた。高尾は缶ビールとコップをテーブルに置き、幸恵の隣で胡座をかいた。

 テレビではヒーローインタビューが行われていた。満塁ホームランを打った若い選手が、お立ち台の上で満面の笑みを浮かべて、そのシーンについて振り返っていた。

 体操座りをしていた幸恵は足を崩し、テーブルの方に向きを変えた。

「ついであげる。コップ持って」

 幸恵は缶ビールをひょいと摘まみ取り、プルトップを引いた。

 内心意外な思いで、高尾はコップを掴み軽く傾けた。

 その横顔を一瞥すると、ビールを注いでいる幸恵の口元が緩んでいた。

 さっきのこと、もう引きずってはいないのか。

 コップの表面が黄色く染まっていき、口縁(こうえん)付近には白い泡が広がった。注ぎ終え、幸恵は缶ビールをテーブルの上に置いた。

 彼は注がれたビールをすぐ呑まず、彼女の仕草を観察した。

 両手をテーブルに載せ、指先を見たりしている。そこに、扇風機の風が薄茶の髪を揺らした。

 引きずっていないではなくて、機嫌を取ってくれているのではないのか。

 はにかんだその表情からは、何か言いた気な雰囲気も感じ取れて、彼は面目ない気持ちになってきた。

「野球、大負けしちゃったね」

 顔を此方に傾けて、幸恵は残念そうに呟いた。

「そうだね、ピッチャー打たれ過ぎだよね」

 咄嗟に浮かんだ言葉で高尾は返した。

 彼女は小さく「うん」と頷き、顔を指先の方へまた戻した。

 このまま話を続けようとも思ったが、今日の試合展開では愚痴が増えそうだ。食後に寝そべり観戦していた頃の裏目の継投策が頭を過ると、話す気は自然に失せていった。

 こんなとき、話の上手い奴ならジョークの一つでも吐いて場を和ませるのだろうな。空気が何となく重い。

 高尾は話題を変えることにした。

「ビール、やっぱり呑まないの? 呑むなら、コップ持ってくるけど」

「大丈夫。明日早くなければ、一杯くらい付き合ったんだけどさ」

 幸恵はパートの仕事をしている。交代制の職場で、明日は早番だった。

 高尾はわかった、と一言いいコップに口をつけ何口か呑んでいった。

 テーブルにコップを置いて、口を閉じたままゲップをした。鼻から息を吐いて、上唇についた泡を舌で舐めた。

「これ、呑んだら寝るよ」

「明日から連休だし、まだ起きてれば?」

「今週は残業もあったから、合田たちに呑み会も誘われたけど、断ったんだ。疲れもあったからね」

「そっか。高尾、一人呑み会になっちゃったねえ」

 高尾は一口呑んですぐ答えた。

「呑む予定ではなかったんだけどな」

「でも呑みたくなった。どうして?」

 幸恵は詰め寄って訊いてきた。高尾は角にあるテレビのリモコンに目を向けながら、後頭部をポリポリ掻いた。

「一緒に、一緒に呑みたかったから」

 頬を緩ませ、幸恵は更に高尾に近づき座り直した。

「ごめんね。二人呑み会さ、近々しようよ、ね?」

 高尾は頷くと、幸恵はにっこりと笑った。

 彼は半分弱のビールを一気に呑んだ。

 何だか今日は不思議な夜だ。呑み会には、やっぱり行かなくてよかった。彼女の機嫌に左右されてる自分がいた。でもそれで良かった。

 その笑みは、心に潤いを与えてくれたのだから。

 テレビ画面ではいつの間にか野球中継が終り、ニュース番組が始まっていた。

 人差し指でリモコンの電源ボタンを押して、彼はテレビを消した。

幸恵は両肘を折ってテーブルに乗せ、結露のついた缶ビールを眺めていた。

「思い出してたんだけどさ、ビール呑んだのって、家長君が(うち)に来たとき以来じゃなかったかな?」

「そういわれてみれば、そうかもな。アイツが家に来たのは……お盆前だったから、一月くらい前か。このビールも、その時のってことになるな」

「呑み会だと高尾は呑むよね」空のコップを持って幸恵は立ち上がった。

 高尾は胡座を崩して、「まあね」といつもより少しだけキーの高い気取った声を出して立ち上がり、缶ビールを持った。

台所でコップを洗っている幸恵の背後で、高尾は缶ビールの口を片目で覗き込んでいた。

「どうしたの?」洗い終えた幸恵が振り返り訊いてきた。

「幸恵、これ残り呑んじゃいなよ。捨てるのもったいないから」

「呑まないよ。歯を磨いて後は寝るし」

「どうしても?」高尾は幸恵につめ寄り、無理やり缶ビールを渡そうとした。

「だから呑まないっていってるで」

 高尾は缶ビールを持ったまま、幸恵を流しの縁に押しつけて抱き締めた。

「しょっちょっ」

「さっきはごめん。怒らしちゃって」

 悪いのは自分だ。どうしても・りたかった。

 一瞬だけ目を見開いて、幸恵は固くなった肩の力を抜き穏やかに答えた。

「もう。怒ってなんかないよ」

「ホントに?」

「ホントだよ」

高尾は腕の力を緩め、ゆっくりと身体を離した。くりっとした眼差しは、もう怒ってないことを伝えるには十分だった。その顔に再び訊いた。

「ビールの残り、呑む?」

「だからあ。ちょっ、溢れるし」

高尾は、缶ビールを幸恵の胸元に突き出した。幸恵は苦笑いをして、日に焼けた高尾の腕を握り、突き返そうと拒否してきた。

 押し問答の末、高尾は缶ビールを持ったまま、もう一度幸恵の身体を抱き締めた。さっきよりもきつく抱き締めた。そして、少しだけ怒り口調でいってみた。

「どうしても呑まないの?」

「呑ーまないよーだ」

 そういって彼の胸に顔をつけ、くっくっくっと笑いながら肩を揺らした。

 そのしぐさに彼は声を出して笑い、缶ビールに残っていたビールをごくごくと呑んだ。

読んで頂いてありがとうございました。感想などありましたら、よろしくお願いします。

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