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「野球見てなかったんだ?」
白いTシャツにピンクのハーフパンツを履いた幸恵が、高尾の隣に座り訊いてきた。
幸恵は返答を待つことなく、首にかけていたバスタオルで髪を拭き始めた。
「幸恵がシャワーを浴びてる間に点差が更に開いて、馬鹿らしくて見るのをやめたんだ」
そっか。高尾の言葉を聞いてバスタオルを肩に落とし、幸恵はすっきりした顔をこちらに向け軽く答えた。
「あれ、お笑い動画見てるの? 珍しい」
床に手をつき身体を傾け、高尾に寄り添う感じで、幸恵はパソコン画面に目を見張った。スーツを着た二人が漫才をしている。
高尾はコンビ名を教えてあげようとしたら、幸恵は目を細め笑いだした。
「きゃはははは、おもしろーい。これウールーズだし」
ノートパソコンからも、客がゲラゲラ笑っている声が小さく響いている。
「流石幸恵、よく知っているな」
「ウールーズの一人はピカコンで優勝したから、今や有名なコンビだよ」
「ピカコン? 」
幸恵は気分が高揚してきたのか、まくし立てて話しをし出した。
「『ピカピカ一番! 全国お笑いコンクール』通称ピカコンていってね、素人が多く出ている大会で、ウールーズの明石明は優勝したのよ。でそれ以降、ウールーズはテレビに出るようになって、今は人気上昇中ってとこ」
「へー。聞いたこともない大会だけど、そんなのでも有名になれるんだな」
ウールーズと呼ばれる二人が礼をしたところで客の拍手が起こり、動画は停止した。
高尾は欠伸をしながら、ずらりと並ぶお笑い動画の静止画をスライドさせた。関西の漫才コンビを探すことにした。
「聞いたことないって、高尾が知らないだけでしょ」
拗ねた声を出して、幸恵はテーブルの下に置いていた化粧箱と鏡を引き寄せ、鏡をテーブルに載せた。
その言い方に、高尾は画面をスライドする手を止めて、思いを巡らしていた。
そもそも、その大会はどれだけ有名なのだろう。いくら素人芸人が数多く出場しているとはいえ、あの程度の漫才で優勝してしまうのには呆れ返ってしまう。まるで、味気ないマシュマロを食べているような漫才だったではないか。
下から数えた方が明らかに早い、オッペケぺーな大会であるに違いない。
「レベル低そうだな」、高尾はぼそっといって、ノートパソコンの画面を再びスクロールさせた。
「なんかいった?」
鏡を見ている彼女の目が横を向いた。
「えっと、関西の漫才はどれだろう」
高尾は独り言のように口走り、目をパチクリさせながら画面内の説明欄を追っていく。
確かこのお笑いコンビは、関西の芸人だった筈だ。テレビで見たことがある。高尾は静止画の画面に合わせ、キーを押そうとした。しかし、横からの鋭い視線が、高尾の手の動きをまたしても止めた。
身をすくめ、視線の方へ顔を僅かに傾けてみる。目を据わらせ、彼の横顔を黙って凝視する彼女の顔があった。
この顔は聞こえていたな。お笑いに対して敏感なだけに、素通りできない言葉だったのだろう。
言い訳すれば、更に話が拗れ兼ねない。ここは正直に出た方が得策と見た。意外と理解してもらえるかもしれない。大した大会でもなさそうだし、理解を示してくれそうな気もする。
彼女の方を敢えて見ずに、画面を見つめながら、彼は小さく口を動かした。
「レベルが、もしかしたら低いかなって」
「それは何、ウールーズのこと、それともこの大会のこと?」
「その辺は、よくわからないけど」
一瞥すると、彼女は唇を突き出して二三度頷いていた。腑に落ちないのが伝わってくる。
間髪入れずに返してくる彼女のいいっぷりと表情に、彼はどぎまぎした。
高尾は、お笑いに関してろくに詳しくない。
バラエティー番組などお笑い芸人の出演しているテレビを、彼女と一緒に見ることは確かにある。それもあって、有名な芸人は知っている。
しかし、テレビ以外を主体に活躍している芸人や、これから売れてきそうな芸人については皆目検討もつかない。
彼女のお笑いの検索範囲は多岐に渡る。テレビやラジオの番組チェックは常にしているし、ネット動画の検索もよくしている。
若手からベテランまでプロアマ問わず、これまでどれだけの芸人を見てきたのか想像がつかないほどだ。
自分で視聴してみて、これは面白いと感じたなら、何度でも見聞きしているそうだ。
以前彼女に、そんなにお笑い動画やテレビを見て飽きないか、と訊いてみたことがある。すると、好きな芸人の気に入ったネタなら直ぐに飽きることはない。何回も何回も見れば笑いは半減してくるけど、久々にまた見てみると笑っちゃうと、楽しそうに話してくれた。
そういった答えを聞いて、高尾はあることと類似しているなと思った。好きな歌手やバンドの曲を、何度も聞いてしまうことだ。年数が経過して久し振りに聞いたとき、懐かしい気持ちと同時に名曲故の感動が蘇るのだ。良いものは色褪せない。
『ウールーズ』というコンビを、彼女は既に知っていたのではないか。ピカコンとやらの優勝するより前の、恐らく素人だった無名時代の頃から、ネットなど通して知っていた気がしてならない。
幸恵のお笑い好きには敵わないな。高尾は、軽率に呟いてしまったことを悔いた。
関西とか大阪どころじゃない。動画の検索を止めて、ノートパソコンを片付けることにした。お笑いの話を終えたかった。
「わからないのにレベル低いはないわよねえ」
化粧水を手のひらに垂らしながら、幸恵はしらじらしくいい捨てた。
高尾は聞き流して、ノートパソコンをテレビ台の中に片した。うんざりした気持ちでテーブルに右肘をついて、手のひらに突き出した顎を載せた。
気を落ち着けようとしていた矢先の言葉に、荒立つ気を抑えた。左手の人差し指でテーブルをトントン叩く。鼻に皺を寄せ、幸恵のいない方を向いて唇を動かした。
お笑いがなんだってんだ。ウールーズって誰。ぜんっぜん面白くないんだけど。
身体の冷えを感じて、高尾は側で回っている扇風機の電源ボタンを押した。
回っていた羽は、次第に緩くなっていく。止まりかけたところで、再び羽は勢いよく回りだした。
隣にいた幸恵が即座に動き、電源ボタンを押したためだ。
「なっ!?」
唖然とした表情で高尾は鏡に目をやると、あっけらかんとして頬に化粧水を塗る丸い顔があるではないか。
奥歯を噛み締める高尾。我を失い、高々と肘を振り上げる。テーブルに勢いよく肘をつこうとした瞬間、スルッと肘は空振りして顔面がテーブルに当たりそうになってしまった。
「ぷっ、ぷぷぶひゃひゃはははは」
化粧水をつける手を止め、幸恵は口から豆粒でも吹き出すように笑いだした。
顔中から汗を点々と浮かせて、高尾は奥歯をギシギシ鳴らせた。
下品な笑い方は、彼の感情を一層逆撫でた。だが、そんな気持ちとは裏腹に、肘をそっとテーブルに載せた。手のひらで目の周りを隠し、瞼を閉じた。深呼吸をして、更にもう一回大きく息を吸い込んだ。
肺を膨らませ、息を吐き出すと同時に、隣室の住人どころか外に聞こえるほどの怒声をあげた。
「何がお笑いだ、ふざけるな! お笑いってったって、バカやって笑わしてるだけだろ、ガキが! 誰だってできるっしょ!」
いってやったぞと、息を荒くして高尾は会心の笑みをした。叫んだことで、気持ちがスッキリしたのがわかる。でも、どこか腑に落ちないのもあった。それは、怒声をあげて間もなく、スッと入ってきたものだった。
息を整えながら、興奮状態を抑える。その間に訪れた沈黙の時間。冷蔵庫のモーターの音が、虚しく聞こえる。
彼女の気配がない。どこでなにをしているのだろうか。
茶の間、寝室、台所、トイレ、まさか外には出ていまい。もしかしたら、茶の間を出てなにか物でも取りに行ったか。そんなことを思っているうちに、何時しか、モーターの音が聞こえなくなっていた。物音一つしない音無しの部屋。
明らかに怒声を発したのを境に、部屋の空気が重くなっている。徐々に沸き上がってくる罪悪感。言い過ぎたかもしれない。次第に失われていく、満足げな思い。
身体中から、じんわりと熱が帯びてきた。肘の折り目から、汗が滲む。二の腕をかすっているはずの、Tシャツの袖が揺れていないことに感ずいた。
耳を澄ましても、回る音は聞こえてこない。いつの間にか、扇風機の電源が押され羽は止まっていた。
高尾は目を開いて、指の隙間からテーブルを覗いてみた。頭と腕の暗影があった。
このまま、手のひらを顔から離して頭を上げようとも思ったが、薄気味悪い雰囲気からその気が起こらない。胸中がぞわぞわしている。収まるのを待つことにした。
片方の指で数えられるほどの呼吸を繰り返したところで、コトリとなにか置く音がした。
彼は眉間に皺を寄せ、パッと目を見開いた。指の隙間から再びテーブルを覗いてみると、さっきまで見えていた暗影が消えていた。てっきり、自分のものと誤認していた。彼女はずっと、ここにいたのだ。
「……いし」
「えっ!?」
突然、高尾の耳元に掠れた女の声が聞こえた。色っぽいお化けの声みたいだった。
「……さいし」
か細い声はさっきよりは聞こえたが、なにをいっているかが理解できない。はっきり聞こえるのを待つが我慢できず、しびれを切らしてしまった。
目の周りから手を離し、高尾は恐る恐る顔を上げた。
「うるさいし!」
高尾の顔に向かって、部屋の壁にヒビでも入るかというほどの彼女の声が響いた。
テーブルを挟み、目の前で仁王立ちする彼女の姿があった。化粧水を塗り、すべっとした顔でこちらを見ている。
ふん、どうよといった感じで薄ら笑いしていた。
耳の奥で、彼女の声が木霊している。その声をかき消したく、彼はこめかみを手で抑えた。頭を細かく振り、指を離した。
「うるさいだと?」
険しい顔で高尾は小さくいうと、彼女も言い過ぎたとでも思ったのか、表情を曇らせた。
「バカだからいってやったんだよ。お・バ・カ・さ・ん」
高尾は人差し指を立てて、おちょくるようにいってやった。口の端からよだれが垂れてきたから、立てていた人差し指で拭った。
「バカって誰がよ」
「お笑いのことだよ。バカなんだよ、バカがバカやってバカが笑ってんだよ。わかんないのかバカ」
「バカバカうるさいし、いってる本人が一番のバカでしょ!」
高尾は勢いよく立ち上がった。片足を上げ人差し指を立て、尻を振りながら冷やかすように言い返した。
「バンバンバカバカはいバカよ」
「人をバカにして。そうやってねー、苦労して一生懸命やってる人をねー、バカにしてると、ゴホゴホッ」
幸恵は喉を詰まらせ、崩れるようにして座り込んだ。背中を丸め茶髪の髪を揺らしている。口に手を当てて、本格的に咳き込み始めた。
その姿に、高尾は段々心配になってきた。
彼女の隣に歩み寄り、膝をついた。Tシャツの上から、背中をゆっくり擦ってあげた。
「幸恵、大丈夫か」優しく声をかけてあげると、幸恵は咳をしながら頷いている。いいあっている場合ではない。もう止めよう。
擦っているうちに咳は徐々に治まり、幸恵は背中を起こしてきた。高尾は擦っている手を離し、真横から顔色を窺った。頬の辺りが紅潮し、涙ぐんでいた。
「あーむせる。高尾、お水をちょーだい」
「おお水っ!?」
幸恵は小さく頷いた。焦ったわけではないが高尾は素早く立って、台所からコップに水を注いできて呑ませてあげた。
何口かゆっくり呑んで、幸恵は二度頷いた。もういいというサインと認識して、高尾は唇からコップを離してあげた。幸恵はありがとうと泣きそうな声でお礼をいい、息を大きく吐いた。
さて、落ち着いたところで。パンと両手を軽く叩いて、幸恵は一変透き通った声で話を繋げた。
「そんなにバカにするならさ、十秒以内に私を笑わせてみてよ」
一瞬力が抜け、高尾は片手で持っていたコップを落としそうになった。辛うじて中身をこぼさず済んだが、ぎこちない動きでテーブルにコップを置いた。
まだやる気なのか。終わる気満々だっただけに、高尾は戸惑いを隠せない。
目をおどおどさせて抵抗する。
「じゅ、十秒はいくらなんでもむりっしょ」
「だったら一分で」
「それ大した変わってないっしょ」
「出来もしないくせに、文句ばっかりいって」
幸恵は早口でいい捨てた。咳を一度して、化粧箱からチューブ状のクリームを抜き取った。
おでこや鼻のてっぺんに、点々とクリームをつけていく彼女。彼は黙ってそれを見ていた。
クリームを塗る彼女の顔は、お地蔵さんが寝ているようだった。そんな顔を見ながら、彼は自負していた。
彼女のことは、誰よりも知っている。同棲するようになって、よりわかりあえるようになった。こうすれば泣く、こうすれば喜ぶ。笑わせることも、性格から追っていけばわかるのではないか。
高尾は片方の口の端だけ開き、不適な笑みを浮かべた。幸恵はお笑い芸人をリスペクトしすぎだ。これを機に笑わせることなど大したことない、簡単なことだとわかってもらおう。
艶の出てきた肌に向け、彼は自信ありげに口を開いた。
「だったらやってやるよ。笑わせればいいんでしょ?」
クリームを塗る手を止め、幸恵はきょとんとした顔になった。
高尾は幸恵の前で笑わせたことは一度もない。話の流れで笑ったことは多々あるが、こうして笑わせることを前提にするのは始めてだった。それだけに驚いたのだろうと思った。
幸恵を背に立ち上がり、高尾は顎に手を当てた。
何にしようかと思案していると、後ろからコホンと咳が一度聞こえた。連発するかと心配したが、咳はそれ以降してこなかった。
もしかしたらジーンズが臭かったのかもしれない。汗と汚れで、得もいわれぬ異臭を後ろを向いた拍子に発された可能性がある。だが、そんなことは気にしてられない。
彼是と考えていくうちに、高尾は声を殺し笑った。顎に手を当てたまま、何度か頷く、自画自賛していた。これはいける。
ここ最近二人で見たテレビ番組をヒントに、閃いた芸を披露することにした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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