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建物の駐車場には、青と白の軽自動車が一台ずつと黒の乗用車一台が停められていた。
グリーンぺパー中川は二階建ての古い木造賃貸アパートで、アルファベットLの形を百八十度回転させた向きにある。
敷地内に入ってすぐの右側には駐輪置き場があり、T字ハンドルの自転車一台と、見慣れたワインレッドのママチャリが止められていた。
そこは屋根こそついているものの、春夏秋冬野ざらし状態。使用して六年になるママチャリは、ハンドルの付け根やチェーンが大分錆びてきていた。
高尾は裏手に入り、日影の細い通路を進んだ。一0三号室の玄関前で立ち止まり、ジーンズのポケットに手を入れようとしてやめた。
敢えて鍵を出さないで、ドアノブをゆっくり捻ってみる。案の定、あっさり開いた。
「ただいま」
「きゃはははは、おもしろーい」
玄関に足を踏み入れた瞬間、甲高い笑い声が高尾の耳に響いた。
狭い玄関で靴をごそごそ脱いで、台所から茶の間の境目まで歩いた。すぐそこで、もう一人の住人がノートパソコンを開き腹を抱えて笑っていた。
花柄のワンピースを着たこの女住人は高尾が驚くほどのお笑い好きで、ノートパソコンを使うときは、専らお笑い動画を見るときと決まっている。
日常的な光景に高尾は一瞬顔を緩ませたが、すぐ真顔に戻して、数日前にいった言葉を今日もいうしかなかった。
「幸恵、玄関のドアのカギしとけっていってただろ?」
「おかえり。また忘れちゃった、ごめんなさい」
しょんぼりした顔になって、幸恵は夕食の支度をするためノートパソコンを片しだした。
彼女とは二年前に会社で知り合い、付き合って一年もしないうちに同棲を始めた。会社とは勿論、泉製作所のことだ。
「物騒な時代だから、気を付けてくれよ」
脱衣所でYシャツを脱ぎながら、高尾は聞こえるようにいった。
ネットやテレビでニュースを見ると、若い女が尾行されたあげく、部屋に侵入され殺傷された、なんていう事件もあったりする。
ここは、北関東地域の閑静な場所に位置している。幸いなことに犯罪などは越してきて以来、一度も聞いたことがない。だからといって、何も起こらないとも限らない。
もしものときは、玄関の鍵をしているだけでも防御にはなる。
守れる身は守ってほしい。彼女のことを心配して、彼は声を尖らせているのだ。
高尾は、洗濯機の横にある丸い籠の上で手提げ袋を逆さまにした。ストンと作業着が落下し、Yシャツの上にかさなった。灰色のTシャツ姿で脱衣所から離れ、手提げ袋は寝室にある壁掛けに掛けた。
裸足でクリーム色のカーペットを踏んで茶の間に入り、高尾は座布団に腰をどっかりと下ろした。今週が終わった安堵感からか、肩から下に向かって身体がどっと重くなってくる。呑み会にはやっぱりいけなかったなと思った。
茶の間の奥にある窓は全開に開けられていて、青空と雲がまだ広がっていた。
「高尾はビビリーだからねー」
台所にいた幸恵が、ジュースを片手に茶の間に戻ってきた。テーブルを挟んで高尾の向かい側に膝をつき、ジュースを差し出して座った。
「ビビリーってなに?」
高尾は腕を伸ばし、コップを掴んだ。手のひらが冷たくて気持ちがいい。
「ビビってるってこと」
高尾は口を弓のように曲げた。不快な気分になったが、努めて冷静な口調でいった。
「ビビってはいないよ」
「ビビってるし。部屋に人がいるのに、何で鍵をしないといけないかわからないし」
「だからそれは」といったとこで、高尾は口をつぐんだ。
この流れは、先日と同じパターンではないか。このまま話続けても、所詮聞き入れてはもらえない。
彼女を納得させるためには、流れを変える一言が必要なのだ。ああいえばこういわれる。そうなったときに、わかってもらうためにも。それがいつも浮かばずに、困っているのだ。
今話すのはよそう。機会を見計らって、また話すことにした。
幸恵は団扇を手に取り、けろっとした顔で扇いでいた。首もとの髪がひらひらと舞っている。そんな姿を見ているうちに、高尾も涼を求めた。
「こっちにも頼む」
幸恵は口許を緩め、ふわりふわりと高尾の方に向け扇ぎ始めた。と思ったら身を翻し、首もとに向けまたビュンビュンと音を出して扇ぎ始めた。笑いを堪え、開きそうな口を閉じて団扇を扇いでいる。口の中に、何か美味しいものでも入れてるかの表情をしていた。
高尾は小さく息を吐いた。
「もっとこう、なんていうの。鰻を焼くときみたいにブンブンブンブンて、知ってるでしょ」
声を漏らし笑い出した姿を前に、高尾は持っているコップを口に近づけた。
唇がコップのへりについた瞬間から、吸い込まれるようにカラカラの喉へ流し込んでいく。
乾ききっていた口の中は、みるみるうちに甘い葡萄の味に包まれ喉も潤ってきた。
ふう。コップをテーブルに置き息をついた。中身は半分以上減り、角が取れた四つの氷がグレープジュースの表面でカタカタと音を立てて浮かんだ。
高尾が喜色に呑む姿を、幸恵は嬉しそうな顔で眺めていた。団扇をテーブル置いて、四つん這いで扇風機の前まで近寄っていった。電源ボタンを押して強さを変え、扇風機の首を動かし高尾の方に首を向けてきた。
「風くる?」
「きてますきてます」
高尾は身体の向きを変えて、扇風機に近づいた。髪の毛が逆立ち、冷たい風が顔面を中心に疲れきった身体を癒してくれる。分身している羽を見ているうちに、自然と目をつぶり穏やかな顔になっていた。
ブルブルブルブル……。唇を震わせながら息を吐いて、息をすーっと吸った。
「鼻ん中、超涼しいー」
息を大きく吐きながら、高尾はいい放った。
「何か似た名言、昔あったよね」
幸恵が訊くと、猫が顎を撫でられているときように上を向いた顔が、僅かに縦に動いた。
微妙に違うその名言は、あるスポーツ選手が以前どこかでいっていた。
競技の後のインタビューにおいて、涼しいではなく気持ちいいといっていた記憶がある。気持ちいい場所は、鼻の穴でもなかった。これ即ち、全然似てないということだ。
高尾は目を開け、扇風機から離れた。座布団に座り直し、居ずまいを正した。正面にいるくりっとした目と合わせた。
真顔のまま高尾が見つめていると、幸恵はまた団扇を手に取り、鼻から下を隠した。目を細くし、三日月の形になっていた。
その笑みに釣られ高尾は口角が少しだけ上がったが、表情をすぐ真顔に戻した。今一度、話の続きをしてみようと思っていた。このままだと、いつまで経っても不安が過って仕方がない。
乾いてきた唇をペロリと舐め、彼は口を開いた。
「さっきの話だけど」
「鼻の中超涼しいがどうかしたの?」
「それじゃなくって、帰ってきて話したことあるでしょ」
下唇のへりに団扇を当てて、幸恵は黒目を上にした。考えているフリでもしているのか。とぼけた顔をしていた。
扇風機の風が、真ん中で分けている高尾の髪を揺らしていた。おでこをくすぐる前髪を軽く払いのけて、話を続けた。
「ビビリーだかバンビーだか知らないけど、玄関に入ったらカチャリと鍵をしてくれれば済むことでしょ?」
下唇を突き出し、幸恵はテーブルに団扇をペタリと置いた。
「バンビーだかトンビーだか分からないけど、つい忘れちゃうのよね。明日から気をつけまーっす」
右手を眉毛の近くに持ってきて、幸恵は警察官みたいに敬礼をした。
高尾は呆れてそっぽを向いた。残りのグレープジュースを一気に呑み干し、バリバリと氷を噛み砕いた。舌の上に溶けた冷水を呑んで、チラリと横目で様子を窺ってみた。
幸恵は敬礼をやめていた。俯き加減でテーブルに視線を落としていた。
少しはわかってくれたのかな。高尾はそっぽを向くのをやめ、幸恵と正対した。
「幸恵、顔を上げてくれよ」
「許してくれるの?」
「次から気をつけてくれればいいよ」
高尾がそういうと、幸恵はゆっくりと顔を上げた。無表情な顔だったが、両手の人差し指をほっぺに当てると同時に、ニコッとした顔に変化した。
「ありがと。バンビー」
「何バンビーって、それはないっしょ?」思わず、声が裏返る高尾。
「でも、バンビー最初にいったの高尾だし」
「バンビーは嫌だよ」
「バンビー嫌なら、やっぱりビビリーしかないわね。ビビリー高尾。芸人さんに、いそうでいなさそう。きゃはは」
高尾は言い返したいのだが、言葉が出てこない。
話が途切れたのを機に、幸恵はコップを持って立ち上がった。花柄のワンピースをひらつかせ、そそくさと台所へといってしまった。
あれは全く反省していないな。許してしまったことに、彼は内心後悔していた。テーブルの上に肘を乗せ、おでこに手を当てた。からかわれた感じもする。言葉で無理となれば、行動でわかってもらうしかないのではないか。
恐怖。それがいい。怖さでもって、彼女を説得させる。さてどうするか。何かいい考えはないかと思案しているうちに、寒気を感じてきた。腕に目をやると、ポツポツと鳥肌が立っていた。おでこから手を離し、両手で腕を擦ってから、彼は扇風機に近づいた。
中、いや消すか。強で回っていた羽は次第に緩やかになっていった。
彼は立て膝をつき、その上に肘を乗せた。考えを巡らす間もなく、すぐさま暑さが襲ってきた。テーブルに放置された団扇を手に取り、胸元や首を軽く扇いだ。
思考回路が低下しながらも、なんとなしに考えているうちに、声らしきものが耳に入ってきた。
聞こえる方へ耳を傾けると、蛍光灯の電気がついた台所の方からだった。途切れとぎれ。鼻唄は夕飯の支度な音と混じり舞っていた、時折口ずさむか細い声も聞こえ、彼の思考経路の道筋を変えた。
聞いたことのあるメロディーに、彼は頭を巡らしてみた。童謡、邦楽、洋楽、アニソン。とどのつまり思い出せず、諦める頃には鼻唄も聞こえなくなっていた。
高尾は立ち上がり、茶の間の奥にある窓際に近づいた。窓の前に立ち、レールに両手を置いた。
外を眺めると青空は、いつの間にかオレンジ色に染まってきていた。
目の前の駐車場には一台の白い軽自動車が、駐車しようとバックしていた。所定の位置に駐車し、エンジン音が止まった。ドアが開くと、太めの女がのっそりと出てきた。
レールから手を離し、彼は網戸を引いた。そのとき、背後からまた鼻歌らしき声が聞こえてきた。振り向いてそっと部屋の電気をつける。
高尾は忍び足で台所に近寄ることにした。
ワンピースを揺らし、彼女は流し台とコンロの間を行き来している。
台所と茶の間の境目まで辿り着い頃には、いつの間にか鼻歌は聞こえず、じりじりと何かの焼ける音と醤油の焦げた香ばしい匂いがしてきていた。
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