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主人公が彼女を笑わせるために、お笑いの大会に出るお話です。今回は主人公の過去を書いています。
良かったら読んでみてください。
喫煙所で休むようになってから、高尾はほぼ一日中立ちっぱなしの日が続いていた。座っている時間といえば、午前十時と午後三時にある十分休憩と昼休みの食事中だけ。立ち作業に立ち話、そして立ったまま喫煙と、立ったまま何かしらするのが当たり前になっていた。
午後三時の鐘が社内に鳴り響く。肩の荷を下ろし、高尾は職場を離れ室内にある休憩所のベンチで千田と休んだ。
周囲には、座った状態でぐったりしていたりジュースを呑んで雑談をしている社員が多くいる。
高尾はタバコは吸いたかった。だが、トイレで用を足し、ジュースを販売機で買い、喫煙所に入り吸うとなると、職場からは時間的にギリギリでややもすると遅れ兼ねない。千田も十分休憩の際は近場の休憩所で休むことから、それに着いていく形で合わせていた。
手に持つ缶ジュースを膝の上に乗せ一息ついていると、隣に座る千田がアイスコーヒーをゴクゴク呑んでから高尾に首を向けてきた。
「田島、入って十日くらい経ったけどどう、続きそう?」
「わからないです。ここ数日、腕だけでなく足も痛んできていて。千田さんが何年も続いているのが凄いと思いました」
「全然凄くなんてないよ」千田は謙遜してから話を続ける。「ところで、昼休みは喫煙所にずっといるの?」
「はい、友達とタバコを吸いながら話をしたりしています」
千田は、缶コーヒーの残りを一気に呑んで喉を鳴らしてから、休憩中には見せない真顔になった。
「話をしてリフレッシュするのもいいけど、身体を休ませることも大事だよ。昼休みがある理由の一つだろ。飯を食って休んで、午後にもうひと頑張りして終わる。今の三時休憩も、あるとないでは大違いだけど、昼休みの過ごし方は考えた方がいいかもよ。立ち話をして体力が持たないのは、本末転倒だからね」
缶の溝に溜まったメロンジュースを眺めて、高尾は伏し目がちに「はい」と返事をした。千田は小さく頷き、ベンチからスッと立ちあがった。
この言葉を機に、高尾は昼休みの過ごし方を変えた。といっても、極端に変えたわけではない。タバコはやっぱり吸いたいし、合田や坂下そして裕子とも会話もしたい。
四人で昼食を取ってから、外の喫煙所に出た。高尾は立て続けにタバコを二本吸った。
「じゃ、先に行くから」三人に伝えて一人喫煙所を去った。
ドアを開けて室内に戻る。通路をぐるりと回り、ドアを開け外に出た。そこは禁煙の休憩所だった。
喫煙所と殆んど同じ形容で、ベンチが段の上に三つ設置されている。そのうちの二つは既に使用され、段に座っている人もちらほら見掛けた。
人が少ないからか、静けさが際立つ。室内にある禁煙の休憩所で休む人が多いのが理由だろう。冷房は利いているし、自販機や雑誌が設置されているのも利点だからだ。
高尾は、気晴らしに外に出たいというのもあり、雨の日以外は外に出ていた。暑さはあるが、肌を通過する風が気持ちがいい。太陽は照っているが、
室内の廊下に比べて風がある分涼しい。
彼は、唯一空いている一番奥にあるベンチに腰を下ろした。
視線の平行線上には、建物の間から喫煙所がかいま見えた。距離があるため、どこに誰がいるかまでは見極められないが、沢山の人が立ってタバコを吸っていた。まだ合田たちもいるはずだ。目を凝らしてみるが、遠すぎて見分けることは流石に出来なかった。
背もたれに寄りかかり、高尾は大きく息を吐いた。人もさほどいないことから、気持ちも楽だ。肩の力が自然に抜けていき、リラックスモードに入っていく。太ももから脹ら脛、背中の力も抜けていくのがわかる。
今の自分は、気持ちも身体もずっと張りっぱなしの状態だ。こうやって、のんびりするのは大事だなと休んでいるうちに思えてきた。
もし、タバコが吸いたくなって我慢出来なくなったら、少し早めにここを出て喫煙所にまた寄ってから職場へ直行すればいいだろう。
そんな日が二日ほど続いた時だった。外にある禁煙の休憩所でベンチに座り休んでいたときのこと。
千田さんからのアドバイスのおかげもあって、早くも疲労度が違ってきていた。疲れはあるが、足や腕の痛みが多少軽減されてきていた。精神的な疲労については、慣れてくれば自然と軽減されていくだろうけど、今は一つ一つの作業に気を使っている。それまでは仕方のないことだと思っていた。
これなら、何とかやっていけるかもしれない。そんなことを考えていた時だった。
軽く腕を揉みながら、水色の空を見上げそよ風を浴びていると、ドアの開く音が風に乗って微かに耳に入ってきた。その方に首を傾け目をやると、こちらに歩いてくる女性の姿があった。
彼女はタバコを吸わない。なので、喫煙所にいる意味はそもそもなかったが、ここにくる意味もわからなかった。それは、一緒に休憩していても話しをすることは殆んどなかったからだ。
「お疲れ様です。足、大丈夫ですか?」
高尾の座る位置から一人分のスペースを開けて座り、長田裕子はにこやかな顔で声をかけてきた。
足が痛いことは、三人には話しはしていた。それを心配して来てくれたのだろうか。
高尾は腕を揉みながら裕子と顔を合わせた。
「疲れはあるけど、座るようになって少しは楽になったよ。長田さんは、立ち作業とか疲れないですか?」
「私は大丈夫です。足腰は強い方だから。経験てやつかも」
「工場で五年くらいやってたんですよね?」
「そう。田島さんも、やっていくうちに仕事も身体も慣れていくんじゃないかな」
他愛もない話だが、頷きながら気持ちが弾んでいた。高尾は、ありがとうといって下唇を前歯で小さく噛んだ。心の状態を、彼女に知られたくなかった。
平然にも映る長田裕子の態度とは裏腹に、羞恥を覚えた。
翌日も翌々日もベンチに座っていると、裕子はやって来て、高尾の隣に座ってきた。その座る距離は変わっていないが、心は確実に変化していた。少なくとも高尾の方は。
何かを話したい。浮かばずにずっと考えているうちに、沈黙の時間が流れていく。その時間を裕子は特に嫌うわけでもなく、工場の壁や遠くの人々を、ただぼんやり見ていた。もしかしたら、リラックスしてくれているのかもしれない。
日が経つにつれ、高尾は昼休みにここへ来る理由を、身体を休めるよりも裕子を待つ目的に成り変わっていた。
ここに来れば、自分がいるから来てくれているのだろうか。それはいくら何でも考えすぎだ。
タバコを吸わないから、ここへ来ている。そう心にいい聞かせた。
男は誤解の連続なのだ。自分の思っている気持ちと女の気持ちが同じだなんて都合がよすぎる。
二人は今、灰色の壁をぼんやりと見ていた。
高尾はふと我に返り、ゆっくりと裕子の横顔に顔を向けてみる。優しい風が吹いてきて、髪の毛が地層みたいに裕子の頬をふわっと包んだ。
「裕子」
頬についた髪を手で拭い、彼女は顔を向けてきた。
声には出ていないが、目が大きく開いていた。
「いや、何でもない。ご、ごめん。じゃなくてすみません」
しどろもどろに言葉を繋ぎ、高尾はその場を収めようとした。心で呟いていた名を、つい声にしてしまった。
どうしたらいいのだ。半ばパニックに陥り、彼は腕を夢中で揉みだしマッサージをするふりをして、高ぶった感情を抑えた。
日が傾き終業時間が近づいてきた。シャーリングの轟音には当初よりは慣れてきたものの、様々な音が耳に入り続けることで、頭痛を起こすことがある。これほど暑い職場も初めてで、気持ちが悪くなる日もある。
作業を失敗したり、同じことを何度もいわれたりすることもある。
いっそのこと、他の誰かを雇った方が早く覚え会社の戦力なるのではと、悲観的感情に押し潰されそうな日もある。
今日も何度か失敗しそうになりながらも、千田にフォローされて何とか終えることが出来た。
シャーリングによる機械作業に、恐怖を抱くことがある。このやり方で間違えてはいないか。不安になる度、後ろで見ている千田に目を合わせ確認をしてもらっていた。
清掃をしている最中、高尾はくるりと身体の向きを変え背後で片付けをしている彼の名前を呼んだ。
「千田さん」
彼は顔を上げて、優しい目で反応を示した。
「シャーリングを辞めた人って、結構いるんですか?」
「いるよ。田島の前にやっていた人も、一週間で辞めてしまったんだ。週明けから突然来なくなって、そのまま退社したって担当者から聞いたよ」
「そうですか」
千田は普通に答えていたが、喋り終わる頃には眉毛が垂れ寂しい顔になっていた。
高尾は向きを戻し、黒ずんだ機械のレールを眺めながら、裕子の顔を思い出した。
「田島さんも、やっていくうちに仕事も身体も慣れていくと思いますよ」裕子の声が心に響く。
仕事で上手くいかないとき、この言葉を胸に何とか踏ん張ってこれた。
千田の存在も大きい。高尾が作業をしている間、後ろから見守ってくれていることで安心してやれてもいるからだ。仕方が違うことに気付いたときにはスッと隣に寄ってきて、正しい仕方を丁寧に教えてくれる。
当初は逆だったんだ。ただ後ろで突っ立って見ていた。それが、隣で一緒にやるようになり、今は一人で一つの行程を任されつつある。
高尾が質問する場合は、それはこういうことだよ、というように親切に答えてくれる。以前に訊いたことでも、態度を変えず教えてくれる。寧ろ時間を割いて教えてくれる。
一人で任されることで、不安は徐々に自信に変わっていくから。千田の言葉だ。
仕事の質、量から見れば高尾と千田は雲泥の差がある。高尾の場合に至っては、疲れるとペースがガクンと落ちるため作業に波もある。
そうなってくると後ろから声がかかる。千田は人差し指と親指を出して手首を回した。それは、チェンジを表していた。
新人を育てるのに専念しすぎて、日々の生産数に達せず残業というのは回避しなければならない。
入れ替わって、千田の作業を見ている高尾。こんな達人レベルになんて、なれるわけがない。流石に無理な領域だと思っていた。
先の話になるが六年後の高尾は、シャーリング以外の工程も度々任されるようになっていた。
清掃と整理整頓が終わり、高尾は終礼のある方へ一人歩いた。それに気付いた千田が足早に近づいてくる。二人はいつも、一緒に終礼場所まで向かっている。
しかし、今日の千田はいつもと様子が違った。
「田島、ちょっといいか」
「はい」
何か失敗したかな。疲れた顔で高尾は振り向いた。目が合うと、千田は親指を突き出し方向を示した。
高尾は首を傾げ、千田の歩く方について行く。集合場所とは真逆の方向だった。人気のない職場の隅に辿り着いた。見上げると掛け時計があり、四時四十七分と針が指していた。
後十三分で帰れる。高尾は欠伸を噛み殺し何気なくそんなことを思っていると、千田は思いもよらぬことを訊いてきた。
「悪いんだけど、五千円貸してくれないか、無理なら三千円でもいい。頼むよ」
「えっ?」と声が出ると、申し訳ない顔をして高尾の顔を見つめてきた。そこには、仕事中の頼れる千田はいなかった。
泉製作所に入社するとき、派遣の担当者から貴重品の管理は自己責任で、と念を押していわれたことが頭ををよぎった。お金や物品が盗まれることがないわけではない、という警笛だと理解していた。お金の貸し借りは禁止、お金がない場合は前借りが許されている。ただそれは、入社して三ヶ月までの期間限定の制度だった。
身体中が熱くなってきて、背筋から尻の割れ目に向かって、汗が背番号一のように垂れていった。
どうしたらいいのか。高尾は困惑していた。千田はそんな高尾の表情を見ていて、返事を待っている。瞬きを何度もして懇願する目からは、切羽詰まっている思いが伝わってきた。
決心して、高尾は右ポケットから財布を取り出した。七千円入っていた。五千円札をゆっくり引き抜いて差し出した。
「すまんな」千田は小声でいって受け取った。札を持っている手をおでこの前にやり頭を下げてきた。
千田が黒の長財布を開いたとき、札入れのところにはレシートしか見えなかった。
高尾の目には、この男の哀れさを見た気がした。
主任の話す終礼を聞きながら、高尾は思った。あのお金は恐らく返ってこないだろう。後三日しかいない。給料日に、千田の姿を見ることはないのだから。
そうは思っても、千田を嫌ったり憎んだりすることは高尾には出来なかった。休憩時のアドバイスや仕事について、幾つもの教えを受けた。それがあっての今なのだ。
僅かな貯蓄で、この地域へ越してきた。前借りするほどまでとはいかないが、貯蓄は微々たるものだ。だが、あの切迫した表情を思い浮かべると、貸さないままではいられなかった。
千田が退社する日。あの日と同じように片付けと清掃が終わり、二人は終礼場所に向かった。前を歩く千田の背中に、今度は高尾が声をかけた。顔だけを振り向き、千田は一瞬ぎっとしたを見せた。
「どうした、まだ何か訊きたいことがあるのか? 確かに、教えていないことはまだあるよ。でも、半月で教えられることは教えたつもりだけど」
「いえ、そうではないです」
千田は立ち止まり、くるりと身体をこちらに向けた。高尾は隣まで歩み寄ることはせず、二歩くらいの距離を置き立ち止まった。電気も既に消え、丁度日の当たらない位置で二人は見合った。両側には、機械と台車が静かに並んでいる。
そんな暗めからでも、千田の顔がみるみる不安げな表情へと変わっていくのがわかった。目が怯え、口が半開きになり、下唇が小さく震えている。
高尾は一度大きく肩を上下させて、にこやかな顔で口を開いた。
「あの、何処に就職するのですか?」
硬直していた千田の皮膚が緩んだ気がした。普段の落ち着いた顔に戻っていく。
「あー、いっていなかったね。名古屋に行って、自動車の組み立てをするんだ。そういえば、工場についていつだったか話したの覚えているか?」
高尾は首を傾げ思い出そうとした。千田は僅かに顎と視線を上げていた。職場の隅にある掛け時計を見ていた。それに釣られるように高尾も首を後ろに向け目を凝らすと、後四分ほどで終礼の始まる時間だった。
「キツい、汚い、危険。三Kのことだ」
高尾が首の向きを前に戻したところで、千田はいった。
それを聞いて高尾は、「はい、覚えています」と答えた。考える間もなくいわれたが、実際考えたところで、三つとも脳内から消えていた。
「名古屋での仕事は、設備も新しいと聞いていてね。汚さと危険はそれほどなさそうだ」
「キツい職場なのですか?」
「キツさは覚悟してるよ。二つがない分ね。今度の仕事は加工じゃなくてライン作業だから、慣れれば多分大丈夫だと思う。結局は同じことの繰り返しさ」
千田は気楽な顔をしていた。特に危惧しているような様子は見受けられなかった。きっと工場経験が長く、やっていけると自負しているのだろう。
「頑張ってください」それでも高尾は激励すると、千田は帽子を脱いで頭をポリポリ掻いた。何度かうんうんと頷いて、口元を緩めた
「ま、お互いな。田島はこの職場はキツいか?」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫というのは?」
千田によると、キツいのは体力的なことなのか、精神的なことなのか、或いはどっちもなのか。仕事はキツいのは当たり前、特に入社した頃はどっちもキツい。月日の経過でキツさは薄れてくる。慣れというものだ。仕事には合う合わないはある。無理にとはいわない、でも一日一日こなせていけば克服していけるものもあるということを以前の休憩で話してくれていた。
「体力的にも精神的にも、少しずつ慣れてきています」と高尾は答えた。
親指を立てて、千田はグイグイと終礼場所の方を突いた。二人は並んで歩いた。列をなして並ぶ社員が目に入り日の当たる場所に出た頃、千田はポツリと答えた。
「田島なら、上手くやっていけると思うよ。まだ若いし、これからだろ」
はい、と答え千田の横顔を覗くと、窓からの透き通った光が当たっていた。その明るさとは裏腹に、その表情は暗く、転職というのを希望として捕らえているようには見えなかった。
「お世話になりました」高尾はその顔に向かって、今日一番いいたかった言葉を伝えた。
「迷惑かけたな」
「いえ、寧ろこっちの方がかけまくりですよ」
千田は小さく声を出して笑った。
「さて、どんな日になるかな」
優しくも哀しい顔をした千田と目が合い、高尾は顔を反らし視線を落とした。緑色の床が微かにぼやける。ぎゅっと瞬きをすると睫毛が滲んだ。
高尾は強く目を瞑ってから、千田の顔に向け笑って答えた。
「新人同士になりますね」
「何度めかもう、わからないくらいだ。まあとにかく、街と職場には早く慣れるようにしていくよ」
「名古屋は都会だよなあ」
高尾が羨ましげにいうと、「着いてくるなよ」と高尾の顔を見て千田はにやけた。
終礼場所に到着し、二人が並んで間もなくざわつきは落ち着いていき、主任がファイルを片手にやって来るのが見えた。
あれから早六年。職場中からは、相変わらず轟音やブザーの音が鳴り響いている。鉄板を抑えフットペダルを踏むと、大きな音をたてて寸法通りに鉄板は切断された。高尾は今日もシャーリングの工程を任されている。
彼もきっと汗水垂らして、真剣に事を成していっている筈だ。そう思うと、未だに励まされる。これだけ長く続けてこられたのは、あの半月があったからこそなのだ。
切断をした鉄板を所定の場へ置いた。高尾は帽子を被り直し、次に切断する鉄板を持った。
読んでいただき、ありがとうございました。感想とかありましたら、宜しくお願いします。




