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午後になり、職場は温度が上昇してきた。外気が若干上がったのと、機械から熱が発散され、室内に充満してきたからだった。
暑いといっても、Tシャツが背中にベタつくことはない。
今年の夏もそろそろ終わりか。平凡な日々だったな。それはそれで順調なことだ。頭でどうにか納得させようとするが、何だか腑に落ちない自分がいた。
終礼の鐘が鳴り、高尾は定時で仕事を終えた。ここ最近は、定時上がりが恒例だ。受注はさほどないようだから、当分残業はないだろう。
玄関内で靴を履き替えて、彼はいつものように派遣社員専用のラックからタイムカードを抜き取った。小机に置かれているタイムレコーダーに差し入れ、時刻を小さく印字されたのを確認して元の位置に戻した
開きっぱなしのガラス戸を通り抜け、彼は玄関前に出た。太い柱が四方に立ち、屋根もついている。スペースもそこそこあり、白っぽいアスファルトが絨毯のように敷かれている。
本来休む場所ではないが、柱の隅に寄りかかって男がスマホを弄っていた。また、門扉に続く通路との境目には、二段ばかりの階段がある。その端には二人の女性が座り、話をしている背中があった。
さて帰るか。幸恵は遅番だったな。高尾は、帰宅して幾つかすることがあった。したいこともあった。
自宅に向かおうと数歩進んだ後、背後から声がかかった。
「お疲れさまでーす」
存じている声だけに、高尾は首を躊躇なく横に向けた。
「お疲れさま」
「久しぶりだね。先週の呑み会、何で来なかったの?」
女性は高尾の隣に並び、幾分肩の低い位置から「へ」の字を逆にした表情で見上げてきた。
長田裕子は高尾の元彼女だ。別れてからも、こんな風に気さくに声を掛け合う間柄だ。
小さめの茶色いバッグを斜めに吊るし、白いYシャツには、肩まで伸びた黒い髪が触れている。
「先週は残業が多くて疲れてたからね」
「また疲れてたの?」
「今日はそんなでもないよ。そもそも作業場が違うんだから、疲労感は同じじゃないっしょ」
どちらともなく、二人はゆっくりと歩きだした。
「包装とか梱包も疲れるんですけど。腰が、腰がーって、お盆前に辞めた八木沼君がいってた」
「八木沼懐かしいな。腰痛が悪化してしまったもんな。診断書会社に出すとかいってたけど、音沙汰なしだな」
階段に座っていた女性二人の反対側に、高尾と裕子は隣同士並んで座った。彼は即座に、足をハの字に広げ伸ばした。
「とにかく、機械作業は体力持たないから」
「合田君は持ってますけど」
「合田は太ってるからっしょ」
「もやしっていわれてたよね」
聞こえてたのか。「はいはい」と二人組の女性を見ながら、高尾は半ば適当に返事をした。
脛にかかっている緑色のスカートが僅かに揺れる。裕子はクスクス笑ってから、話題を変えた。
「そうそう、来週末の花火大会の話聞いた?」
「先月の花火の残りと、バーベキューをするって、あの二人から聞いたよ」
「そうそう。あれ面白かったよね」
高尾は頷きながら、あの時を振り返っていた。さっき話にも出てきた八木沼の送別会も兼ねて、派遣で仲のいい連中が集まってバーベキューと花火をしたのだ。
バスや自転車そして電車など、それぞれ交通手段は違うが、皆で公園に集まってワイワイ楽しんだ。バーベキュー用のコンロや木炭は、合田が準備してくれた。親が持っていたらしく、公園にも近いことから用意するとかって出てくれた。
休日の日中から皆よく呑んだ。それもあってビールが想像以上に早くになくなり、後半は枝豆とか摘まんだりして話をした。
日が暮れ出してからは花火をした。
片すのが面倒だからと、買っていたにも拘わらずロケット花火はしなかった。手持ち花火をしたり、真っ暗になってから、落下傘の花火をしてパラシュートを探したのを覚えている。
皆いい顔をしていた。八木沼も喜んでいたし、感慨深い送別会と夏の思い出になった。
「あの時の花火、まだ持ってたんだな。てっきり使い果たしたと思ってた」
「合田君の家にずっとあったみたい。お酒は今回大量に買うってもいってた」
高尾は正面を見たまま頷いていると、裕子はその横顔にまた話しかけてきた。
「来るんだよね?」
「まだ返事してないんだ」
えーっ、と絶句する裕子の言葉を書き消すかの如く、あーそうだー、と高尾は声を張り上げた。
「そういえば裕子、俺にいいたいことあるっしょ」
「えっ、何急に?」
「合田や坂下が、呑み会の度に裕子のことを話題に出してくるから。何かあるのかなと思って」
裕子はアスファルトを見つめそっと目を細めた。僅かに口角を上げてから戻し、穏やかに答えた。
「何かあるのかな。バーベキュー来るなら、話すかも」
「今じゃ無理なの?」
「今は仕事終わったばっかりだから、話す気にはならない」
裕子は腕時計を一瞥した。
「そろそろ行かなきゃ。もう少ししたら、バス来ちゃう」
裕子は立ち上がり、スカートの後ろを軽く払った。肩にかかる黒い髪が光に反射して揺れ動いた。高尾も立ち上がり、二人は雑談をしながら通路を歩いた。
気になって何のことか追求しようとしたけど、彼は喉元まできて話題には出さなかった。彼女が話したいときに話してもらえればいいと、一緒に歩いているうちに思った。
門扉のところで、二人は再びお疲れさまといい合い別れた。
部屋に戻り、高尾は台所の電気をつけた。幸恵はまだ帰宅していない。冷蔵庫からジュースを取り出し、コップについでガブガブ呑んだ。空にしたコップを流しに入れて、寝室でYシャツを脱いでハンガーに掛けた。
幸恵が遅番の時、高尾はすることがある。風呂を沸かすことと夕食の準備だ。風呂はまだシャワーのみだから、特にすることはない。
Tシャツ姿で台所に戻り、夕食の準備をすることにした。
暗い夜道を一人自転車で帰ってくるのを想像すると、これくらいはやらないといけない。
高尾は時々思うことがある。自分といて、彼女は幸せなのかなと。昨今は派遣で仕事をしている人も少なくはないが、このままでいいのかと考えることもある。
一番の不安は収入だ。ボーナスもない。休めば給料が減る。日本の景気が傾けば、真っ先に派遣は削減の対象にもなる。
そんな男といて、果たして幸せなのだろうか。いつ沈むかもしれない、泥船にでも乗船してるようなものだ。
ならば転職という選択肢もあるが、次の職場が続かなければ二人は一気に窮地に追い込まれる。彼女の収入だけでは、暮らしていくには厳しすぎるからだ。
どうしたらいいものかと悩むが、今はこの安定の中にいる。
キャベツとプチトマトを、ツードア式の小さい冷蔵庫から取り出した。戸を閉めた瞬間、微量だが冷気が顔に当たり悩む気を調理の方へと向かわせた。
それぞれ水で洗い、キャベツは千切りにして、プチトマトはヘタを取って半分に切った。中皿に載せ、サラダが一品出来上がった。他の品は材料だけ準備して、焼いたりするのは彼女が帰宅してからすることにした。
高尾は台所から寝室に入り、スマホを取って茶の間に入った。座布団に胡座をかいて、テーブルに腕を載せてスマホを操作した。
昼休みに坂下が見ていた、ピカコンのサイトを検索した。午後の仕事始めから何度か脳裏を掠め、気になった挙げ句、部屋に戻って一度見てみることにしたのだ。『第五回 ピカピカ一番! 全国お笑いコンクール募集のお知らせ』とあった。
その下には『性別、年齢不問。お笑いが好きな方であれば、誰でもOK。審査については、こちらが指定したことをしていただければいいです』とあり、更に注意書欄には『漫才など、二人以上のネタは不可。芸が自由の時のみ、三名までに限る』とある。
通読してスマホから目を離し、高尾は頭で整理してみた。
つまりは、一次から順に審査をしていく。その際行う芸については、ピカコンサイドで指定した芸をしてくれということらしい。芸の種類は、一発芸、コント、モノマネなどとあるから、それらをすることになるのだろう。芸が自由の場合は、三名以内のネタであればを何をしてもよいとのこと。明石明は、それで漫才を選択していたのだといえた。
坂下が昼休みにいっていたように、賞金は三百万円とあった。優勝欄には、年度ごとに四人の名前の中に明石明、括弧ウールーズと記されていた。
優勝者の隣には優勝した年度が記されていて、ピカコンは三年おきに行われていた。
今回逃すとキツいな。派遣で泉製作所に勤めているかもわからない。グリーンぺパー中川に住んでるのかもわからない。彼女を笑わせたい気持ちも持続しているかわからない。安定という二文字から外れたら、まず間違いなく無理なことになる。
高尾はピカコンという言葉を幸恵から耳にして以降、実はずっと頭にはあった。迷いはある、吹っ切れてなんていない。お金は確かに必要だ。優勝賞金は、合田たちが興奮してたように、今の立場からいわせれば魅力的だ。
でも、お金じゃない。彼女の心を満たしたい。どうなんだろう自分、て思う。ホントにこのまま生きていって良いのかと疑ってしまう。世の中そんなに甘くはないぞと。それをいってしまえば、お笑いだって甘くはない。泥船が今は安定している。だから今、一つこれに賭けてみたい。笑いで彼女を喜ばせたい。それが出来ないのであれば、この先のことを二人で話し合わなければならない。彼女が幸せになる最善の答えは何かというのを。
締め切りは今月一杯とある。約二週間てとこか。もしやるなら、決断はなるべく早い方がいい。これは、幸恵を笑わせるため。それと、今後の二人の将来を決めるためだ。
先週末、あれだけ馬鹿にしていたのに、気づけばこの大会に魅力を感じてきている。良いタイミングで知った気もする。最近、物足りなさを感じてもいたからな。
ピカコンで幸恵を笑わせる。この前のリベンジも勿論含めてだ。
出場するためには、登録と千円の参加料が必要とも載っていた。
実際、この大会で幸恵を笑わせるためには、ベストエイトまで勝ち残らなければならない。ネット中継されるのはベストエイトからと、デカデカと赤文字で載っているからだ。
目標はここにする。優勝はしたい。でも、第一の目標は幸恵を笑わせることだ。正直、土素人がここまで生き残ることは不可能にも近い。お笑いのプロを目指している人たちも沢山出場するだろう。その中で凌ぎを削り、ネット中継されるベストエイトまで勝ち上がるのは、至難の技だ。
やってやる。このまま突き進んでいく自分から、敢えて違う道を掘ってあり得ない場所に辿り着きたいんだ。
震える指で、彼はまず登録をすることにした。スマホを操作していくと、登録画面が現れた。住所、名前、性別に年齢、電話番号とアドレスを入力して送信ボタンを押した。
送信されました。とだけ出てから、待ちぼうけを食らった。何分経っても返事がこない。これで合っているのだろうか。曖昧な気持ちでスマホのバイブが鳴るのを待つが、何の音沙汰もないまま時間は流れていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。感想などありましたら、よろしくお願いします。




