召喚魔方陣
召喚魔法陣を出た後のことばかりを心配していた。
まさか、出られないという状況に陥るとは思わなかった。
「これほど美しい召喚魔法陣を、我が生涯のうちに見ることが出来るとは。」
馬で乗り付けた人は、少しばかり大仰ではないだろうかと思う言い方をした。シャツにズボン姿で、ずいぶん着崩した格好をしていた。きっちりと着こんだ感のある白ローブさんたちと対照的だ。
四十歳代後半ぐらいだろうか。この人も美形だが、崩れていない体型の方に敬意を感じる。
馬を下りた彼は私に笑いかけた。
その時間、二秒。
すぐに視線は魔法陣の方に戻った。私にはあんまり興味はないようだ。
そうしているうちに、人が集まり始めた。こんなに近くまで馬で乗り付けたのは、最初の三人だけだが、少し離れた場所で馬から降りている人がいる。白ローブ姿の人たちも増えた。
けど、彼らを待つ義理はない。仕切り直しだ。
召喚魔法陣の事に詳しいはずの、神殿責任者の大祭司長に聞く。
「ファーノさん。どうして、これ、一緒に動いてしまうんですか? この魔法陣を描いた人しか解除できないとか、そういうルールがあるんですか?」
聞きながらも疑問に思う。
描いた人が解除できるなら、ウィンザムの白ローブがそこから出て来いと何度も繰り返したのはおかしい。
「そんなルールはないよ。」
答えてくれたのは、魔法陣に見入っていた馬の人だった。魔法陣から視線は動かないが、親しみのこもった口調だ。
「これまでに来た異界の方々の召喚魔法陣は、そう時間を置かずに消えたと聞いている。」
勝手に消えるってことだろうか。
ファーノさんに視線を移す。機嫌悪そうに私を見てた。
何で私にそんな顔を向けてくるの? 私、何もしてません。
もう一度、答えてくれた人に視線を移した。魔法陣の外縁沿いをウロウロしながら眺めてる。疑問に答えてくれるのは嬉しいけど、こっちを全然見てない人より、どんな顔されても視線が合う人の方が問いかけやすい。
私はファーノさんに聞いた。
「消えるって、どれくらい待てばいいんですか?」
「わかりません。」
ファーノさんの答えは、非情なまでに端的だ。
もう少し、やんわり伝えて欲しかった。途方にくれるしかないじゃない。
さて、どうしよう。ため息をつきながら、最初にいた場所に戻る。
「おぉ、動く!」
魔法陣好きさんが感動してくれる。その彼に、ファーノさんが呼びかけた。
「陛下。」
王様ですか?
確かに騎士にも祭司にも見えませんけど。失礼ながら、お衣装からは偉い人に見えません。
「ご紹介をさせてください。」
ファーノさんは、王様には真面目な顔を向けてる。
王様はやっと顔を上げ、ファーノさんと私を順番に見た。
「こちらは、タカハラアヤノ様です。お耳に入っているかと存じますが、ウィンザムが召喚を成功させました。しかしタカハラ様は、ウィンザムで、不当な扱いをお受けなり、アサイルに来られたとのことです。」
この話に、王様の顔が引き締まった。そうすると威圧感が出て、急に王様らしくなる。私をちらりを見たものの、説明はファーノさんに求めた。
「不当な扱いを受けたとは、どういうことだ。」
「剣を向けられたそうです。」
どうやらファーノさんは、誰に対しても端的なようだ。本当に要点しか伝えない。
王様がこちらを見据えて来た。
「本当ですか。」
私がはいと答える前に、ファーノさんが割り込んで来た。
「タカハラ様、こちらはアサイルの王、ケイリズ・メデ・アルフォーノです。」
え? あ、そういえば、ファーノさんが私たちを紹介している最中でしたね。なんてマイペースな人なの、ファーノ大祭司長。
そのペースにつられて、私は反射的に定型句を返してしまった。
「初めまして、よろしくお願いします。」
会釈をしてから気づいた。
ケイリズ? なんか聞いたことがある気がする。
ついファーノさんをじっと見てしまった。この人の名前、ケイリズ・ファーノじゃなかっただろうか。
「ケイリズさん? ファーノさんも確か…。」
はっきり思い出せず言葉を濁してると、王様がガシリとファーノさんの肩を掴んだ。
「末の弟だ。」
なるほど。若くして神殿のトップなのは、出自のおかげでしたか。親子ほど歳が離れてるように見えるけど、兄弟なのね。
もうひとつ気がついた。確かめておこう。
「ケイリズが家名でしたか? 大祭司長、私、失礼な呼び方をしていましたでしょうか。『ケイリズさん』より、『ファーノさん』の方が発音しやすかったのです。」
この理由は本当だ。
大祭司長ファーノさんの、端整な顔が微笑んだ。
「構いませんよ、タカハラ様。ただ『さん』より、『様』と言って頂ける方が嬉しく思います。」
そうですか。そこのところは私にとって優先順位が低いので、後で考えます。返事をしないまま微笑み返す。
周りから見ると、寒い光景かもしれない。
早々に話題を変えよう。
私は篝火を指差した。
「あれは、最初からここにあったんですよね。変わった様子はないようですし、魔法陣が消えるのを待つ必要はないですよね? 座れる所に行きたいんですけど。」
言いながら、三歩ほど彼らに近づいてみた。
慌てて後退りをする魔法陣の向こうの一同。
「タカハラ様!」
ファーノさんが声を上げる。顔は怒っているけど、ウィンザムで感じたような、切羽詰まった危機感を与えては来なかった。単純に叱られてる感じだ。
「急に動かないでください。確かに召喚魔法陣の上に何があっても問題ないとされていますが、今回タカハラ様がされたような移動が起れば、その上のものは全て他国に移動することになります。」
そうなんだ。
合言葉がないと移動はできないと私は知っている。けど彼らにしたら、いつ飛ぶかわからない場所に入りたくはないだろう。
そして思いついてしまった。
強い光を放った召喚魔方陣。襲い来る騎士たちの声。
私は、慌てて見える範囲の召喚魔法陣の外縁近くを見まわす。
何もない。けど、後ろは?
体ごと振り返ったら、召喚魔法陣も同じようにぐるりとまわった。回転もするのね。ちょっとびっくりした。
「だから、急に動くなといったでしょう。」
ファーノさんの怒り声が耳に入る。振り返って言い訳をした。眉が寄って情けない顔になっていたかもしれない。
「ウィンザムで、騎士の人たちが魔法陣に入って来ようとした時、移動したんです。もしかして、一歩でも踏み込んでいた人がいたら、足が、足だけが…。」
言いながら、スプラッタな状況を限りなくリアルに想像してしまった。駄目だ。気持ち悪くなってきた。確認しなくてはという気持ちが急速に下がっていく。
けど、自分が嫌だと思う事を人に押し付けられない。幼稚園児の頃に刷り込まれた『常識』が、残念な事に私の中ではまだ生きているのだ。
『自分がされて嫌な事を、他の人にしてはいけません。』
自分が動くことを、ファーノさんの言葉に従い、前もって伝えようとした時だった。
王様の前に、帯剣した人が立った。
彼とファーノさんの周りがあっという間に、人で固められる。緊張感に包まれた。
けれど警戒は、私に対してじゃない気がする。もっと後ろだ。
もしかして。
これって、誰か一緒に来てしまった事を想定してる?
神の石の後って誰かが潜めるくらい大きい。誰かがいるかもしれない?
全然、考えもしなかった。これが日本人の平和ボケというやつか。
王様の静かな声が届いた。
「タカハラ殿は、そこに居られよ。」
私はただ頷いた。
誰かがいても、逃げようがない。
剣に手をかけ、いつでも抜けるように構えた人が二人、右左それぞれ、召喚魔法陣の周りを後方へ向かってゆっくりと歩き始める。
私は、彼らの動きを目で追って、立ち竦むのみだ。
何をどう感じていいのか。なんだかもう、怖いのかどうかもよく分からない。
視界から、魔法陣沿いに進んでいた二人の姿が消えた。後ろに回り込んでる。
それからすぐだった。
「誰もいません。」
報告されて、王と大司祭長のための警戒態勢が、静かに解かれていく。
が、私はまだ緊張状態だ。思い切って声を上げた。
「あの、何もないですか? その、足だけ、とか…。」
声がだんだん萎んで行く。
「大丈夫です。」
安心させてくれる返事が来た。優しい笑顔付きだ。
「よかった。」
心の底から思った。
ずっと鳴いていたはずなのに、聞こえていなかった大ガエルの声が、耳に入ってくる。
和解出来ると信じている、ウィンザムを出る時そう言ったけど、この移動で誰か一人でも死んでいたら遺恨が残る。負のスパイラルが始まる原因になってしまう。
「本当よかった。召喚魔法陣のせいで、誰かの足がいきなり切断とか、動脈切って、失血死してたかも。マジよかった。」
安心から思わず喋っていた。
あ、視線を集めてる。しかも皆さんの動きが固まってる。
私、地金が出てしまった状態かしら? 呆れられてる?
切り替えよう。今ならきっとまだ大丈夫。
改めてきちんと背筋を伸ばし、微笑んで言い直した。
「何事もなくて、安心しました。」
「全くだね。ウィンザムであったことは、ファーノに話しておいてほしい。」
王様が、鷹揚な態度で応じてくれたので、私も素直にうなづいた。
「はい。」
ファーノさんは大きなため息をついている。
ちょっとした騒ぎにはなったもの、終わり良ければすべて良し。
結局、問題は足元で綺麗に光っている魔法陣だ。
それに疲れと空腹だ。
そうだ。椅子を持ってきてもらえばいいんじゃない?
思いついて、空を見上げた。ここもきらめく星で一杯だ。雨は降りそうにない。
召喚魔法陣の半径は五メートル程。周りを見渡してみる。暗いけど、広いのはわかる。
魔法陣の上に乗るのが嫌なら、避けてもらえばいい。
神の石は神殿の管轄だと言ったのはファーノさんだ。大祭司長様にお願いしよう。
「ファーノさん、椅子をお借りできますか? この魔法陣が消えるまで、座って待ちたいです。」
また深くため息をつかれた。けれどファーノさんは、側にいた人に何かを告げてる。きっと座らせてくれるだろう。
「お茶の用意も致しましょうか?」
おなじみになってきた、あの慈悲深そうな作り笑顔で聞かれた。絶対嫌みだ。
「いえ、大丈夫です。持ってますので。」
真面目にお断りする。
水が変わるとお腹を壊しそうだ。この魔法陣から出られない状況では、そんな危険は冒せない。トイレのことまだ考えたくないし!
日本は冬だった。サーモマグの中は温かいお茶だけど、ないよりいい。かなり汗もかいてしまっているから、脱水症状にならないようにしないと。
林檎を買っておいて良かった。果物って水分が多いはずよね。もう、ここでお弁当を食べてしまうのもいいかもしれない。
色々ありすぎて、私の中の『恥じらい』というリミッターは、不作動を起こしてしまったようだ。
生命維持が第一。
通勤バッグの中からサーモマグを取りだす。容量二百四十ミリリットル。ここに来る前に、すでに少し飲んでしまってる。残り少ないから、召喚魔法陣には早めに消えて欲しい。
人目があるから、管理人の愛ちゃんに呼びかけて助言を得ることもできない。
「飲ませていただきます。」
一応断りを入れた。
「遠慮はいらぬ。」
王様が笑って許してくれる。
許してもらえなくても飲むけど。
一口飲むと、思っていた以上に喉が渇いていた事に気づいた。召喚魔法陣が消えるまで、持つかどうか心配になって来る。
「異世界から来た人達の魔法陣、今まではどれくらいで消えたんですか?」
参考までに聞いてみる。答えてくれたのはファーノさんだ。
「数秒で消えた方もいれば、一時間ほどかかったひともいます。」
期せずして、時間のありようが同じだとわかった。一日二十四時間、一年三百六十五日、閏時間あり。地球と同じ。そう確信できるのは、きっと魔力のおかげだろう。確かに日常生活を支えてくれてる。
「一時間ですか。じゃあ、すでに消えていてもいい頃ですね。」
しばらく召喚魔法陣をぼんやり見ていたら、声を掛けられた。
「椅子をお持ちしましたよ。」
言ったのはファーノさんだが、持ってきたのは若い白ローブさんだ。早かった。
「ありがとうございます。」
私のお礼は、運んでくれた人に向いている。十代半ばかな。そっとこちらを窺っててきた彼と目が合う。笑いかけると、少しびっくりした様子になってから笑顔を返してくれた。そして、恥ずかしそうに仲間の後ろに隠れてしまう。いいなぁ、若いって。
彼もそのうちファーノさんみたいな鉄壁のビジネス用スマイルを身につけてしまうのか。それが大人になるってことかもしれないけど、お姉さんはちょっと淋しい。
さて、座ろう。
「移動させていただきます。」
前置きして、荷物を全部抱え直し、歩きだす。
向こう側の人たちは、私の行動を見てたはずなのに慌てて下がってる。
「もう少し、様子を見ながら動くということができないのですか?」
ファーノさんのお叱りに、小首を傾げて答えた。
「ゆっくり歩いているじゃないですか。」
また深いため息を疲れたが、気にしない。そんなに距離はない。話している間に椅子の所に来た。
木製で背もたれつき。クッションはない。ずっと座ってると、おしりが痛くなりそう。
頼めばクッションを持って来てくれるだろうけど、また皆で移動するのは面倒くさい。我慢しよう。あ、クッションなら、投げてもらえるか。
荷物をおこうとして、手元が思っていた以上に暗いのに気がついた。今まで光を放つ神の石の傍にいたから気づかなかった。これでは食事に支障をきたす。近視だから、できるだけ明るい方がいい。
椅子、神の石、篝火。順番に見てから決めた。
「ここ、暗いので、灯りの近くに行きます。」
決定事項として、王様やファーノさんに伝える。
動きますといってから、篝火の方へ進む。
普段見る火は、ガスコンロやキャンドルの灯りだけだ。こんな大きな火は少し怖い。なんといっても、それは高い位置にあるのだ。倒れて来ないでよという気持ちになる。
私物を足元に置いて、椅子を取りに戻ろうとした時だった。
「タカハラ様。椅子を運ばせます。魔法陣を少し遠ざけてください。」
ファーノさんは、意地悪笑顔の持ち主のわりには、基本、親切な人のようだ。さすがは神殿の長。
でも長は自ら動かない。運んでくれたのは別の若い男の子だ。
彼に感謝の言葉を述べ、彼が元の場所に帰ったのを確かめてから、召喚魔法陣を引きつれて、私は椅子の側にいく。
すぐそばに私物を下してから座った。固い。座布団が欲しい。
けど、座れてほっとした。今日はバーゲン巡りでいつも以上に歩きまわっている上に、こんな状況に追い込まれてる。
足のだるさに、疲れている事を実感した。
でもご飯を食べたら、少しは元気も出るはず。レジ袋を引き寄せ、お弁当を取りだした。割り箸を貰っておいてよかった。
非常に場違いだとは思うけど、夜ごはん、させていただきます。
いきなり食べ出したら驚かれるだろうから、一応お知らせしておく。
「大変申し訳ないのですが、私、今日、夕食がまだなんです。召喚魔法陣が消えるまで、出来ることもないので、食事をさせてください。」
持っていたお弁当を彼らの方に傾けた。
「タカハラ様。」
ファーノさんの声には、少し非難めいたものが入っていたが、王様は違った。
「食事が終わっても、召喚魔法陣が消えていなければ、休んで頂くためのテントを用意しよう。」
夜寝る心配まで解消してくれた。いい人だ。
「ありがとうございます。」
この国でお世話になると決めて良かったんじゃない?
大祭司長ファーノさんとも、なんだかんだ言いつつ、上手くやれるような気がする。
では手を合わせて。
いただきますと言おうとしたが、王様が先に口を開いた。
「こちらこそ感謝する。タカハラ殿のおかげで疫病も去る。」
固い椅子の上で、膝の上にお弁当を乗せ、掌を合わせたまま、にこやかな王様を見て、私は固まった。
疫病?