第1話
才能と努力。この二つの関係性は永遠の課題だ。
どんなに努力を重ねたとしても、一定以上のレベルに達するには才能の二文字が邪魔をする。
いくら英才教育を施したとしても、ぽっと出の素人に出し抜かれるなんてことは、どこの世界でもありうる話だ。
だがここで問題が生じる。努力とは誰もができることだが、才能は違う。
その当人がおかれた環境で、その才能を発揮する機会がなければ、才能なんてものは発掘されない。
よく才能を原石と表現するが、その名の通りこの世には一切磨かれる機会のない原石がゴロゴロと転がっているかもしれない。
凍えるような雪国の少年にサーフィンの才能があっても意味はない。
天性の美的センスをもっていても、絵の具が買えない貧困層に生まれては意味がない。
抜群の語学の才能があっても、他国の言語と交流できなければ意味がない。
もしかしたら自分にはまだ出会ってないだけで、世界一になれる才能があるかもしれない。
そんな夢のような考えを否定できる者は誰一人としていないはずだ。
ある意味で学校とはその才能を見つける場なのかもしれない。
様々な学問、文化、運動を通して自らの適性を見定め、将来自らが進むべき道を模索する。
なるほど、小学校から大学までを含めた十六年間というモラトリアムは、決して無駄な期間ではないのかもしれない。
彼らは様々な経験を経て、自らを構築していくわけだ。
だがここで一つ、確かにしておきたいことがある。
世間一般で問われている才能なんてものは、実のところ努力でどうにでもなる。
今までの論理をすべて否定したことになるわけだが、例えばアメリカを代表する頭脳の持ち主と、日本の普通の学生が対決をする。
お題は日本の漢字。
よほどの特殊な状況でない限り、勝つのはもちろん日本の学生だ。
ではこの学生に日本語の才能があるのかと言われれば、もちろん違う。
ようするに慣れ、環境だ。
どんなアホな日本人でも、日本語は堪能である。
慣れという努力でクリアできる課題に才能なんて言葉は無意味だ。
では才能とは何か?
俺の答えはこうだ。
『努力では到達できない、一種の隔絶された能力』
では天才とは何か?
俺の答えはこうだ。
『環境に埋もれることもなく、そして本人の意思にもかかわらずに、周囲を畏怖させてしまう完成された存在』
天才という存在は、生まれた瞬間からすでに完成されているのだ。
新章ですが、少しずつ進めていければと思います。楽しみにしていただけたら嬉しいです。
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