息をするのに権利はいるか?
二十一世紀の半ば、世は空前の専制主義全盛時代だった。世界最後の民主主義国家の安寧は、クーデター派の放った一発の砲撃によって完全に破壊された。火炎と阿鼻叫喚の洗礼の後、クーデターの首魁だった陸軍司令官は独裁者として、かつての大統領府に君臨している。
「失礼致します、閣下」
秘密警察の隊長が、独裁者の執務室までやって来た。
「どうした、反政府のゲリラの所在でも分かったか?」
「いいえ。その情報についてはまだ掴んでおりません。今回は別の用件で参りました」
秘密警察の隊長は執務室の外に控えている男を呼び出した。男は隊長に会釈し、続いて独裁者にも会釈する。秘密警察の隊長は敬礼して外へ引き下がった。
「これはこれは総統閣下。お目にかかれて光栄にございます」
男はうやうやしく挨拶する。
「貴様は何をしにここへ来た?」
独裁者は眉を潜めて、やって来た男をなめるように見回した。初老よりかはやや老け気味の男は、痩せていて背が高く、眼鏡越しの眼光は鷹のように鋭かった。しかし巷に徘徊する密偵のような殺気は感じ取れない。
「はい。商売をしにここまで参りました」
「商売だと? ふん……」
独裁者は不機嫌そうに鼻を鳴らした。「ばかばかしい。この儂にリムジンでも売り付けに来たのか?」
「まさか。滅相もございません」
商人を名乗る男は微笑を崩さない。このとき独裁者は、その微笑が単に権力者にこびへつらうためだけのものではなく、あの商売人に特有の、陶器めいた無機質な微笑であるということに気がついた。
「私が取り扱うのは、そのようにちゃちなものでは御座いません。リムジンの七の七十倍ほどにも値打ちがあるものでございます」
もみ手をする商人の前で、独裁者は不満げにいがらっぽい咳をする。「さては貴様、軍需産業の回し者だな? ミサイルでも売りつけに来たのか? ……それだってどうせ旧式の、共産時代の頃の遺物だろうがな」
「さすが! ……と、言いたいところですが、それも違います」
商人は突然身を乗り出すと、独裁者の側に顔を寄せて耳打ちした。「総統閣下、世界が欲しくはございませんか?」
それを聞いた独裁者は椅子にふんぞり返ったまま、身じろぎ一つしなかった。やがていたずらっ子のように舌を出すと、高らかに笑ってみせる。
「ハハハ――面白いぞ、ペテン師。儂も久しぶりに笑ったわい。どうれ、貴様の大ぼらに付き合ってやろうじゃないか」
「どうやら閣下は大変疑り深い性格のようですね。……いいでしょう。ここはひとつ私が“死の商人”にでもなりましょう。総統閣下、……今最も殺してやりたい人物は誰でしょうか?」
「ふむ……」
独裁者はここでしばらく考え込んだ。「もし、儂がここで殺したい人間の名前を言ったら……お前はどうする?」
「その人物を殺して差し上げましょう」
突拍子のないセリフのわりに、商人はやけに穏やかな表情をしていた。独裁者は、今度は慎重に身構えて周囲の様子を確認する。「――儂を油断させて、どうするつもりだ?」
「滅相もない、閣下。……しかし信じていただけないというのなら――こんなのはいかがでしょう? 私は依頼を受けてから二十四時間の内に、銃も使わず毒も使わず、思い描いた相手を即座に殺して差し上げます。その間、閣下は御自分の目の届くところに私を拘束しておけばよろしいのです」
独裁者はいぶかしげな目つきで商人を睨んだ。聞けば聞くほど、商人にとっては不利な商談だ。法螺にしては後味が悪すぎる。自殺志願者と言う可能性もあるが、それにしても商人は、ことこの商談に関する限りでは活き活きとしている。
独裁者の頭の中に、ふと反政府ゲリラの頭領の顔が浮かんできた。
「そうだな、もし殺して欲しい人間がいるとするならば、わが国を跋扈して治安を悪化させている、反政府ゲリラの頭領だな」
「なるほど。ではこれから二十四時間の内に、その男をはっきりと殺してごらんに入れましょう」
「ああ、そうだな。できるものなら」
独裁者はテーブルの裏に隠してあるスイッチを押した。異変に気付いた親衛隊達が一斉に乗り込んできて、独裁者の眼前にいた商人を逮捕する。
「まて、待て」
乱暴に商人を引っ立てようとする親衛隊たちを、独裁者は手で制した。「この男を今から二十四時間だけ、独房へ突っ込んでおけ。そして妙なまねをしないかどうか、終始監視しておくのだ」
こうして商人が独房へと連行されるのを、独裁者は確認した。
さて、次の日の早朝である。独裁者は幸せな安眠を秘密警察の隊長による電話によって妨げられた。身を起こし、独裁者は不機嫌そうに電話に応じる。
電話越しの秘密警察の隊長は興奮しているらしかった。無理もない。反政府ゲリラの頭領が死んだと言うのだから。
独裁者は急いで服を着替えて大統領府へ行くと、すぐさま指令を出して商人を釈放させた。商人が大統領府まで護送されてくる間に、独裁者は反政府ゲリラに関する仔細な情報を入手していた。
それは夜中のことだった。反政府ゲリラは東部の砂漠にある町を拠点としていた(秘密警察の隊長からその町の名前を聞いたとき、独裁者は忌々しげに舌打ちした)。そこを巡回していた警邏の目の前に、突然男が叫び声をあげて踊りかかってきた。警邏は慌てて男をかわしたが、男はそのまま踊り狂ったようになり、ついには自分の持っている護身用拳銃で自分の頭を撃ちぬいたのだという。動かなくなった男を警邏がよくよく確認してみると、なんとその男こそが反政府ゲリラの頭領だったのだという。
「しかもその頭領はご丁寧に全国にあるアジトの地図を持っておりました」
秘密警察の隊長は嬉々として、報告の最後を締めくくる。「すでに軍は準備万端です。閣下の一声で即座に動き出せるでしょう」
「ようし、でかした!」
並外れた高揚感に鼓舞されて、独裁者は声を張り上げた。と、ちょうどそのとき、脇を親衛隊に固められた昨日の商人が独裁者の前にやってきた。独裁者は長らくの戦友に久しぶりに再会したかのように馴れ馴れしく商人の肩を叩くと、早速商人がどのようにしてゲリラに死をもたらしたのかを尋ねた。
「閣下はお疑いになるかもしれませんが」
と前置きした上で、男は話を続ける。「実は私には、誰かを呪い殺すための能力が備わっているようなのです」
「いやいや、儂は疑わんぞ」
独裁者は上機嫌に何度も頷いた。「さぁ、話を続けてくれ」
「このあこぎな商売を始める前に、私はとある銀行で債務回収の仕事をしておりました。何とかしてお金を取り立てようと私も必死ですが、当然借金している側も必死なのですよ。なにせ私にかかっているのは職責だけですが、相手にとっては自分の人生を賭けているのですからね。ですが私も金貸しのプロフェッショナルとしてありとあらゆる手段を使いました。世間的に見れば、私は恐るべき鉄面皮なんですよね。それで同僚達の中でもトップの成績をおさめられるようにはなったのですが、自殺する債務者の方も大変多かった。で、そういう人たちが私に怨霊として取り付いたようなのです。それも何百人と。そのうちに私を呪う、という本来の目的を怨霊たちも忘れてしまったようで、あるときから私は手なずけた怨霊たちを利用して人殺しが出来るようになってしまったのですよ」
「ふーむ」
独裁者は商人の話を興味深く聞き終えてから、狐のごとき狡猾さでこのように聞いた。「なぁ、商人。報酬の代わりと言うわけではないが、どうだ、この国の市民権を得るつもりはないかね?」
我ながらへたくそな提案だ――と独裁者自身も考えていたが、商人は満更でも無さそうに目を輝かせた。
「えぇ、ええ。実は私も閣下にそれをお願いしに上がりに来た次第なのですよ」
「なるほど、そうかね! ハハハ、それはいい。国賓として扱ってあげよう」
独裁者は会心の笑みを浮かべていながら、腹のそこではいろいろな謀略をめぐらせていた。そう、商人の言ったとおり、独裁者は「世界を征服する」つもりでいた。商人を飼い殺しにしつつ、世界中の国家元首を次々と仕留めてゆくのである。余計な死者も出さず、真相は自分のみが握っている――この極上の秘密だけで、独裁者の笑いは更に拍車がかかった。
翌日、秘密警察の隊長が死んだ。独裁者との諮問会議の途中で、突然逆上した挙句、大統領府の三階の窓から踊りだして転落死したのである。
独裁者はすぐさま商人を呼び出して、この事件について問いただした。
「ええ、彼を呪い殺したのは私です」
「なんだと」
涼しげに答える商人に対して、腹心の部下を失った独裁者は食って掛かった。「貴様、なんてことをしてくれる。どうなるか分かっているな?」
「それはこちらのセリフでございます」
商人は頭を垂れたまま、声も態度も変えずに言った。ただその口調には、独裁者をどやしつけるような響きがこもっていた。
「閣下、私の呪いは即効性があるということをお忘れなきよう。閣下を含め、ここにいる皆様を一瞬の内に踊り狂わせて殺してしまうことも可能なのです」
独裁者は脅しつけるように商人を睨みつけたが、それ以上のことはできなかった。密かに銃を構えていた親衛隊の一人が、突如として奇声を上げ始めたからである。彼は乱暴に他の親衛隊員に押さえつけられて、部屋を去って行った。
部屋は水を打ったように静まり返った。誰の目から見ても、商人の有利は明らかだった。
出し抜けに、商人が話し出す。
「皆様を殺すなどとは滅相もない。ただしこれからは、私の言うことに従ってもらいたいだけなのです。既に他の国の独裁者の方々は従ってくれております。後は閣下、あなた一人で御座います――」
三ヵ月後、世界中の独裁者達は国際的な連合を作ると、独裁者の中の独裁者として、一人の男を担ぎ上げた。彼は皇帝として全世界に君臨したのだが、彼の職業がかつては銀行員だったなどと知る人間はいるまい。