第一章 包丁男と平凡女
オレンジ色に染まる校舎。カア、カアと黄昏ながら鳴くカラス。遠くの方で聞こえる野球部の練習音。
「大好きですよ、頼子さん」
その中で一つの言葉がぽつりと浮かぶ。
「あの、そう言われてもね…」
藤堂頼子の額から冷汗が流れ落ちる。一歩後ずさると、校舎の壁に背中がぶつかった。追い詰められ、とうとう逃げ場を失ったか。
「何でですか?こんなに好きなのに」
目の前の男、波多野巡が眉を寄せて頼子に問う。彼は二歩前に進み、二人の距離が近くなる。
「これ以上ち、近づくな!」
頼子が大きな声を上げる。誰か気づいてこちらに来てくれればいいのだが、ホームルーム終了からもう随分と経っている。ここに来ようとする変わり者は滅多にいないだろう。
「嫌です。もっとあなたの傍に居たい。あなたと、話していたいんです」
「だったら、その包丁をどっかやってよ」
目線を左斜め下に移すと、巡が握っている包丁の刃がきらりと光った、ように見えた。
「嫌です。こうしないと、あなた逃げるでしょう?」
「包丁持たれてる方がもっと逃げたくなるわ!」
「逃げられなければ僕はそれで良いんです。ああ、怖がるあなたの顔もなんと美しい…」
「-つっ!」
頬を撫でられ、背筋に寒気が一気に走る。その一方で顔が熱くなるのを感じる。
いったい、なんでこうなったんだろう。頼子の頭の中で、記憶を司る部分が一気に働いた。
一週間前転校生として現れた巡。自己紹介が済んで、てっきり指定された席に座るかと思ったら、全然別方向の頼子の席に足を進め、彼女の手を握って言った。
「愛しています」、と。
その直後、教室内が騒然となったのは言うまでもあるまい。頼子は目を白黒させるしか対応できなかった。だいいち、巡とは初対面である。一目惚れでもされたというのだろうか。
彼氏居ない歴=年齢であるので、彼が気になる男子一位にランクインしたのだが、毎日ホームルーム前、休み時間、放課後と毎度愛を囁かれてたのではたまったものではない。何より、心臓に悪すぎる。
なので昨日は休み時間は女子トイレ、放課後はすぐ帰宅と対策を取ったのだ。
そして今日。
放課後、無理矢理学校内の目立たない場所につれていかれ、包丁を突き付けられた。
「愛してます」と呟かれながら。
巡が頼子の中で気になる男子一位から(異常だから)気にしなければいけない男子一位に陥落した瞬間であった。
「君はどうやったら、僕のことを愛してくれる?」
「取りあえず、落ち着いて、包丁を捨てようか」
「それとも、もう僕のこと愛してくれているのかな?」
「どんな思考回路でそんな結論に辿り着くのかな?」
「だって君、昨日以外はちゃんと僕の傍に居てくれたじゃないか。昨日はきっと、そう、照れ隠しだったんだね」
「いや、普通に怖かっただけなんですけど」
「怖いのなら…」
彼の端正な顔がずいと近くなった。
「優しくしてあげるから。じっとしてて」
「何すんの!?嫌だから離せー!」
「…まだ早い?」
巡がシュンとした顔で問うてくる。
「早いも何も、私はあなたのことまだ好きじゃないです!」
「じゃあ、いつかは好きになってくれるということだね」
「えーと…そ、それは…」
包丁男に、果たして恋心が芽生える日が来るのであろうか。
「じゃあ、君が僕を好きになってくれるまで待つよ。…じっくりとね」
最後の言葉がやけにねっとりと聞こえたので、体中に鳥肌が立つ。
「………」
余りの気持ち悪さに、声を出すことが出来なかった。本当は、「あんたなんか大嫌いー!」と叫びたいところなのだが、口を動かすことが出来ない。
何故なら、だって。
「じゃあ、僕は行くね」
巡は頼子に背を向けると軽い足取りで歩を進めていった。
その瞬間、彼の進む方向に、楕円形で毒々しい色をした異質の空間が現れる。巡は何の戸惑いも無しにその空間へと入っていき、姿を消した。頼子の体中の力が一気に抜け、その場でへたり込んだ。
そう、彼は、あらゆる意味で普通の人間ではなかったのである。