8.あたりまえのことを、ひとつ
アーフィは泣きじゃくっていた。
震える腕で、ロイを強く強く抱きしめて、泣きじゃくることしかできなかった。
ちっぽけな腕の長さは、ロイさんの身体ひとまわり分もなくて、それがなんだか悲しくて、さびしかった。
ロイはもう、アーフィをひきはがそうとはしなかった。
だから、アーフィはしばらくそのまま泣いていた。
言葉にするべきことが、いくつもあるような気がしたけれど、何一つ言葉にできなかった。
「君が、そうやって泣くようなことは、なにもなかったのに」
ロイさんが一度も泣かないからだ、とアーフィは思った。
同時に、彼はもう泣けないのだ、と直感に知らされて。
また涙が止まらなくなった。
「・・・ロイさん」
むせび泣きながら、右手でロイの頬に触れる。
血が流れているとも思えないほどの冷たさに、ヒトではないのだ、と感覚が断じる。
けれどどうしても、ヒトではないと思いきれなかった。
迷いを抱えたままのアーフィの頭に、冷たさに少しずつ感覚を喪っていく手のことが思い浮かぶ。
しもやけになってしまってもかまわない、と思った。
あのかゆさも、痛みも。
今はどうでもいい気がした。
一つ息を吐いてみれば、そんなことを今思った自分が馬鹿らしくて、アーフィは少しだけ笑った。
泣きながら笑って、ふっとロイの黒い眼を見つめた。
お母さんが、真面目な話をしようとするときにそうするように。
「わたしは。ロイさんと出会えて、よかったと思う」
自然と、言葉が口をついて出た。
声になったそれは、当たり前の響きで闇にとけた。
アーフィはまた一つ、息を吐いて、吸った。
簡単なことだった。
言えることは、言いたいことは、いくらでもあった。
口をついたことばは、そのはじまりでしかない。
ロイさんがここにいることにではなく、生きてきたことにでもなく。
出会えたこと、という言葉を選んだ自分に、アーフィは笑った。
笑いながら、言葉を続ける。
「ロイさんのことも、ロイさんのお父さんやお母さんや妹さんや、それから猟師のクーパーさんやクーパーさんの奥さんや酒屋のクルガンさんや・・・たくさんの人のことを知ることができたから」
ありがとう、とアーフィは言う。
まだ少しにじむ視界の中で、ロイは真っ黒な眼を見開いて、なんだかよく分からない顔で笑った。
その笑顔に、アーフィの胸がじわりと熱くなる。
自分をいじめるような笑顔でも、創ったような笑顔でもない、ただの笑顔。
それが、とても嬉しくてならなかった。
「・・・あり、がとう」
かすれた声とともに、自分の身体が宙に浮かんだような気がして、アーフィは眼を丸くした。
もっともそれは気のせいで、実際はロイに抱きしめられていたのだった。
兄が、妹にするような、親が子どもにするような、穏やかで強くも弱くもない抱きしめ方で。
白い肌は、やっぱり冷たかったけれど。
その腕の中は、なぜだかとても暖かい気がして。
アーフィは力をぬいて、身体をぜんぶ、ロイに預けた。
すべての気力を使い果たしたような、何か暖かいもので満たされているような、不思議な気分だった。
ロイの腕の中で。
何かが伝わっているといい、とアーフィは願った。
もっと背が高ければ、もっと手が長ければ、しっかりと抱きしめてあげられるのに、ともどかしく思いながら、ロイさんが笑っていられるように、と強く願いつづけていた。
そうして、どれだけかよく分からない時間を、アーフィはロイに抱きしめられて過ごした。
闇が一番深くなる頃に、そっと腕をとかれて、地面に足をつける。
こんな時間にあるはずのない、暖かい空気に包まれて笑った。
自分のまわりのほんわかした空気が、ロイの魔法だということが分からないはずもなかった。
感謝の思いをこめて、白いてのひらにそっと触れる。
冷たい手は、アーフィの熱でちょっとだけ温かくなって、それが少し嬉しかった。