7.とこしえではない永遠
幻の空気が一瞬で変わったことを、アーフィは感じとった。
透明なのに、叩きつけられるような暴風が、辺り一帯に吹き荒れているのが分かる。
分かってしまった瞬間に、アーフィは泣き出していた。
ロイさんが、それまでのロイさんではなくなってしまったことが、哀しくてしかたがなかった。
「・・・気づいたときには、私の村は石積み一つ残さずに消えてしまっていた」
言葉とともに、そっと身体をはなそうとしたロイに、アーフィは強くしがみついた。
はなれてはいけないような気がした。
たとえ、その肌がどれだけ冷たくても。
その気配に、鳥肌がたっても。
「・・・気づいただろう? 私は、君のような、ヒトではない」
自分をいじめるような口調に、アーフィは首を横に振ったけれど。
ロイさんは止めなかった。
・・・魔王が、もう500年も前からこの世界を襲っているのじゃよ
思い浮かべてしまった村長の言葉にも、アーフィは首を横に振りつづける。
「隣の国も、私の国も、同じように消えていた。だから、この辺りには・・・君が住むような、小さな村しかないんだ」
静かに言葉を続けるロイの眸をなんとか見つめて、アーフィは首を横に振る。
これ以上、聴きたくなかった。
「それから・・・、私はヒトに襲われた。私が滅ぼした国に住んでいたヒトの家族や、友人や、恋人や・・・そのすべてを、私は消してしまった」
魔に堕ちたばかりの身体で、強大な力を制御しきれなかったのだ、とロイさんは言い、それも言い訳にすぎないのだ、と自嘲した。
「もう、どうでもいいと思った。ヒトなど滅びてしまえ、と。そう考えて」
そうして、歯向かう者を消しつづけて。気づけば300年がすぎていた
淡々と続けられた言葉を、どうしていいのか分からずにアーフィは聞いていた。
300年という途方もない時間に、その漆黒の髪の意味に、つみかさねつづけられた行為に、かけられる言葉など何一つないような気がした。
「ある夜に。私はこの場所に立っていた」
風が、黒くて長いその髪を静かに揺らす。
夜の草原に、透明なもう一つの草原が重なる。
透き通った黒髪のロイが、そこにたたずんでいた。
「300年間、ずっと。訪れることを避けていたこの場所は。瓦礫の一つも残っていなかった」
何をするでもなく立ち尽くしたままの半透明なロイを、アーフィは見つめた。
眼をそらすことはしない、と言ったのは、そういえば自分だった、と思い出す。
「何も、感じなかった。悲しみも、怒りも、怨みも。何も感じないことが哀しくて、恐ろしくて、苦しいはずなのに。それでも、私は何も感じていなかった」
まるで懺悔のようだ、とアーフィは思った。
その瞬間、すべてが腑に落ちる。
酷くずるいことをしている、と言ったロイさんの顔がふっと脳裏に浮かんだ。
確かにそのとおりだった。
まぎれもなく、これは懺悔だった。
けれどここには、町の神父さまがいない。
本当は、神父さまに「赦す」と言ってもらわなければ、懺悔は終わらないのに。
その神父さまがいないのだ。
だからアーフィは、ロイにしがみついていた腕で、その身体を抱きしめなおした。
そうすることしかできなかった。
「どんなに呪っても、世界は朝をむかえて。
どんなに力をふるっても、ヒトは私にかかわりのないところで生まれつづけた。
殺せば殺すほど、何かを奪えるような気がして・・・あてもなく殺しつづけていたけれど。
手に入ったものなど何一つなかった。
・・・もうね、何もかもがどうでもよくなっていたんだ」
震えているのは、自分なのかロイさんなのか、アーフィには分からなかった。
涙でにじんだ視界の中、透きとおったロイが膝をつく。
その手に、夜の闇が集まって、剣が生まれるのが見えた。
「何も感じないのなら、消えてしまえばいいと思った」
淡々と語られたその瞬間に、透明な漆黒の剣が透明なロイの首を貫いた。
けれど、何もおきなかった。
「・・・消えることすらできなかった。私の力は、私にだけ、通じなかった」
ロイの身体に、剣がとけこんで消えていくのを、アーフィは見つめた。
がくり、と。
膝をつく音が聞こえた気がした。
叩きつけられた手に、力はなく。
透きとおった頬に涙はなく。
けれど、総毛立つほどの慟哭を、アーフィは感じた。
「たたきつけた手に、痛みが走った」
痛み、なんて。
まだ感じられるのかと驚いた、とロイが言う。
その視線の先では、透明なロイが、手に食い込んだ銀を食い入るように見つめていた。
「まぎれもなく、妹の耳飾りだった」
淡々と、本当に淡々と語られる過去は、本当がどこにあるのか、その口調からは分からなかったけれ。
それでも、視界に映るロイの姿は、事実をアーフィに教えてくれた。
ロイの手に刺さったそれは、耳にあけた小さな穴に針のように細い輪を通すことで耳を飾る、女物の耳飾りだった。手に刺さったのは、その細い細い輪の一部。
小さなそれが、風化せずに残っていたことも、この場所にあり続けたことも、その瞬間に手に刺さったことも、奇跡としか言いようがないことだった。
「300年もかけて、私は、自分がかつてヒトだったことを思い出したんだ」
透きとおったロイの両手が、耳飾りをそっと握る。
祈るように、口付けて。
そして、穴のない左耳に無理矢理それを飾った。
「もう、このときには痛みをなくしていたけれど。前のように・・・何も感じずに力を振るうことはできなくなっていた」
耳からしたたった血は確かに紅かったのに、ロイは人ではない。
アーフィには、信じられなかった。
何をもって人を人とするのだろう。
と、アーフィは思い。
その左耳に一つだけ揺れる銀色の耳飾りに、切なさを覚えてますます泣いた。
「だから、北の。人里離れた場所に、流れて・・・そこでずっと過ごしてきたんだ」
アーフィの眸から、ポロポロと涙が落ちる。
ヒトを殺す、とロイは言った。
ずっと、そうしていたのだ、と。
ヤギを、食べるために殺したことが、アーフィにはある。
可愛がっていたヤギを、お母さんとお父さんと一緒に、足を押さえて殺して、血を抜いて、皮を剥いで、肉を削いだ。
そうして作った料理は、美味しくて、ヤギに感謝しながら大事に食べたけれど。
ヤギの鳴き声と、暴れる足を全身で押さえていた感覚は、何匹殺してもすべて忘れられない。
ヒトを殺すのは、それとは次元が違うのかもしれない。
それでも、ずっとひどい気分がするんじゃないだろうか、とアーフィは思って。
それすら感じないと言ったロイさんを、哀しく思った。
腕の中の、冷たいこの存在が、かなしくてかなしくてならなかった。
だからといって、ロイさんは悪くない、と言うことは・・・ロイがしたことを罪だと言わないことは、アーフィにはできなかった。
その二つは、まったく別の問題だった。
たとえばお父さんが殺されたら。
自分はきっと相手を怨むだろう。
お母さんが、なんて。考えたくもない。
それくらい、知ってる人が殺されるのは、嫌だ。
・・・死んでしまうのは、嫌だ。
それでも人は必ず死んでいくんだよ。
そう教えてくれたのは、先生だった。
だから、大切なんだと先生は言った。
命は永久ではないから、愛しくて、永遠なんだ、と。
やはり、謎かけのような言葉とともに。
命はとても大切で
互いに、いつくしむべきもの。
どうしようもないほど本当のことを思い出して、アーフィはうつむく。
ロイさんのすべてが罪だとは、アーフィには思えなかった。
思えないけれど、すべてが罪でないと言うこともできなかった。
ただ。
このままだと、どうにもしがたい真っ黒なものにロイが縛りつけられてしまう気がして。
アーフィは心の底から。
ロイに、笑って欲しいと思った。
自分をいじめるような笑顔でも、創ったような綺麗な笑顔でもなく。
ただ、笑って欲しいと思った。