6.はざまのできごと
ためらうように、口を開いて、閉じて。
もう一度開いて。
ロイは、幻の中に積もる雪よりも白い右腕をすうっと伸ばした。
「町に出て。冬が、半分すぎたころだ。噂が、流れた」
指し示されたそこは、透明な町角。
一糸乱れずに、馬に乗った騎士さまが行進する。
透きとおった騎士さまの向こうに、青ざめたロイの姿が見えた。
「隣の国と、戦がはじまった、と」
「隣の国? 」
問いかけるでもなく、アーフィは口の中で呟く。
村は、町にいらっしゃる領主さまが治めていらっしゃる。
そして、何人もいらっしゃる領主さまを、王さまが治めていらっしゃる。
ついこの間、学んだことだった。
「この村はね。運の悪いことに、隣の国との境界にあったんだ」
学んだこととまったく違うロイの言葉に、アーフィは少し混乱する。
先生が見せてくれたこのあたりの地図によれば、この辺りには大きな国が一つあるだけだ。
しいて隣の国を挙げるならば、山を4つと湖を3つ越えた向こう。
昔、ここに暮らしていた、とロイは言ったけれど、それは一体いつのことなのか。
歴史を学びはじめてまだ日の浅いアーフィには、おしはかることもできなかった。
少しの間、そうして考えていたアーフィが、“境界”という言葉の意味するところを理解して目を見張った頃には、幻の中では戦がはじまっていた。
見知らぬ鎧を身につけた見知らぬ騎士さまが、あちこちから駆りあつめた人々を軍団にして、争いに馳せさんじてゆく。
ひるがえる旗印の、アーフィには馴染みのない紋様を、射るような眼でロイは見ていた。
「私は・・・、必死で駆けて。村に戻ったよ」
めまぐるしく流れていく戦場の光景に、アーフィはロイの背中とおなかに回した腕にぎゅっと力を込めた。
手をはなしたら、そのぬくもりの冷たささえどこかに行ってしまうような気がして、恐ろしくてならなかった。
「村に戻った時には・・・すべてが終わっていた」
呆然と、眼を見開いたままの・・・眼を閉じることすら忘れたアーフィの前に、あちこちから煙のたちのぼる村の姿があった。
透き通った石の壁の後ろ。あの小さな家があった場所に、ロイが崩れおちるように膝をついたのが見える。
「・・・本当に。眼をそらしてくれて、かまわないんだ」
震えているのはロイだと思っていたアーフィは、その言葉でようやく、しがみついた自分の身体こそが、酷く震えていることに気づいた。
だって、こんな光景は見たことがなかった。
無事な家は一つもなく。村はずれの広場を囲む花も、蹂躙されてその影もない。
村の人々があんなに丹精こめて育てていた畑のものは、乱暴に引き抜かれてもっていかれているか、それとも泥の海に埋まっている。
あちこちから煙が立ち上っていて。その向こうに転がった・・・鎧姿の・・・・・・泥と血で汚れた、あれは・・・。
「・・・村の人、わたし、好きだと思ったのに」
それだけしか言えずに、アーフィは幻を見つめた。
夜の中に浮かぶ透き通った昼の幻は、闇よりもずっと重くアーフィに圧しかかった。
泣きだすことも出来ないほど重い光景から、眼をそらしていい、とロイは言うけれど。アーフィには、出来なかった。どれほどそうしたくても、どうしても、出来なかった。
「・・・・・戻ってきた時には、すべてが終っていた」
呟くように、ロイは言った。そうして、もう止めようとはせずに、続きを口にする。
「・・・誰も、生きて・・・いなかった。妹も・・・母もだ」
静かな静かな声は、泣き叫ぶよりずっと痛みを含んでいるような気がして、アーフィはロイの背中をゆっくりさすった。
さすりながら、もっと自分の身体が大きければいいのに、と思う。
そうしたら、お母さんがしてくれるみたいに、体全部を包み込んで抱きしめてあげられるのに。
「私は、泣いて。泣いたよ」
渇いた声で、ロイは続けた。
その視線の先、石の壁の向こうで、栗色の髪のロイさんが、妹の亡骸を抱きしめて慟哭している。
泣き叫ぶ声は、聞こえない。
ロイさんの思いやりだろうか、とアーフィは思った。
それとも、幻だから、聞こえないだけなのか。
「泣いて、泣いて、泣いて。泣き続けた」
目の前で、地面を叩くロイを、見ていることしかできないことが、どうしようもなく苦しかった。
そのときだった。
ロイのものであって、ロイのものではない声が、あたりに響いたのは。
『…んでッ』
血がにじむ拳を地面に叩きつける幻の中のロイを、痛々しさを覚えながらアーフィは見つめた。
『この子は、まだ十にもなっていないのに!』
あぁ、これはロイさんの想いだ、とアーフィは気づく。
視界の端で青ざめた黒髪のロイの背中を、そっとさすった。
『なんで! なんでだ!!
みんな、みんなみんな!
普通に、普通に生きてただけなのに!!!』
「聞かないでくれ」
重なる声に、アーフィは黒髪のロイを見つめた。
聞かせるつもりはなかったんだ、とロイは早口で言った。
声が、聞こえるはずはない、と続ける青ざめた唇に、背中をさすった手でそっと触れて、アーフィはその頭を撫でた。
そうでもしなければ、これ以上この場にいることに耐えられそうもなかったのだ。
『小さな村だけど!
飾り物もろくに買ってやれないけど!!
それでも! それでもっ!!
みんなで笑って、幸せになって、そうやって生きてくんじゃなかったのかよ!!!』
「・・・聞かないで、くれ」
怒りと痛みと悲しみが入り混じった声に、懇願が重なる。
どちらも、同じくらい痛々しくて、アーフィはもう一度その頭を撫でた。
耳を塞ぐ手は、もう残っていない。
『神サマ!!
なぁ! そうじゃないのか!?』
響く声に、アーフィは思った。
絶望という言葉を形にしたら、こんな声になるのかもしれない。
「耳飾りを、私の村では皆がつけていた。あれは、互いの幸せと、命への感謝と、それから・・・神さまへの祈りを、形にしたものだった」
静かに、ロイが言うのを、アーフィは黙ったまま聞いていた。
振り下ろした拳をそのままに、透き通ったロイが泣き叫ぶ姿が近い。
『んでッ! 何で!!
何で助けてくれなかったんだ!!!』
「私は・・・泣いて、泣いて。それから、妹を、母を、村の人を助けてくれなかった神さまを怨んだ」
淡々と紡がれた言葉に、アーフィは愕然と眼を見開いた。
先生が一番はじめに教えてくれたことだ。
裏の家の、3歳のミーファだって知ってる。
それくらい、当たり前の・・・、してはいけないことだ。
『……じない』
目の前で、透きとおったロイの唇から、透きとおった血がこぼれる。
『信じない』
震えながら、アーフィは幻を視つづけた。
夜の中の夕暮れ。
透きとおった太陽が遠く沈みゆく逢魔ヶ時。
紅く染まった世界の中で、紅い血が、透きとおっても尚、紅く大地を染める。
『あんたなんか。ただ生きていた、優しい人たちを助けてくれないあんたなんか!』
その先の言葉を言ってはいけない、と叫ぼうとして、アーフィは気づく。
これはもう、終わってしまったことなのだ、と。
『あんたなんか! 滅べばいいんだ!!!』
それは、冒涜ですよ
遠く。
お母さんの声が聞こえた気がして、アーフィは身体を震わせた。
ぼうとく。まぎれもなく、それは冒涜だった。
「・・・逃げてくれて、かまわない。何もしないから」
何もかもをあきらめた声が、思わずしがみついていた腕のすぐそばで響く。
そらせない視線の先で、耳からひきちぎられた銀の飾りが、あっけなく地面に転がった。
透きとおった栗色の髪が、黒く染まっていくのも、見えた。
髪だけではなく、眼も、爪も、眉や肌の毛の一本一本まで、漆黒に変わる。
あぁ、そうだ、とアーフィは今になって思い出した。
黒は。
純粋な、混じりけのない漆黒は。
罪の証だった、ということを。