4.つめたいぬくもり
ロイは、何も言わなかった。
アーフィも、それきり何も言わず、あらためて草原を見つめる。
いつの間にか、草原いっぱいに透明な村が広がっていた。
まるで100年も前からそこに在りつづけているようなたたずまいで。
里山近くの村だ。
みんなで畑を耕して、村全体でヤギや羊や馬を飼って、猟師さんが狩りに行って。
稀に、旅人さんが通りかかる。
そういった生活の片鱗が、幻に透ける。
そのさまは、どこかアーフィの暮らす村に似ていた。
花よりも、刺繍をした布の方を好んで飾っていることや、誰もが銀色の耳飾りをつけていること、それから夕暮れとともに闇がおしよせること・・・、意図して観察しなくてもすぐに思い浮かぶ“違い”をのぞいても、だいぶ。
「・・・・・・・?」
脳裏をよぎった何かに、問いかけを含んだため息がこぼれる。
稲妻に照らされた夜の世界のような一瞬のひらめきは、けれど形にならずに消えた。
さほど気にとめずに、アーフィは幻に意識を戻す。
それでなくても、五感に訴えかけるこの幻に、すっかり夢中だった。
この幻の前では、山一つ向こうの大きな町のお祭りの、何もないところから色とりどりのお花が現れる魔法ですら、かすんでしまうだろう。だって、そんなことを考える瞬間にも、何十人もの透きとおった人が村の中で動いているのだ。
幻の中の時間は、あっという間に過ぎた。
夜の帳がおりるとともに誰もが寝台で眠りについて、夜明けより少し前ごろには女の子たちが身体より少し小さいくらいの木桶を抱えながら村の井戸へと向かっていた。
どうやらこの村でも、水を汲むのは女の子の仕事のようで。
彼女たちが口ずさむ唄の、不思議な旋律をなぞりながら、アーフィは笑った。
さっきまでまったく知らなかった村が、やはり近しく感じられた。
笑った顔のまま、なんとなく振り返ってみる。
予想よりずっと近くに、自分より大きな身体がうずくまっていて。
今までその近さを気取らせなかったほど薄い気配にびっくりしたけれど、夜をそのまま写しとったような漆黒の双眸がどこか途方に暮れているようにも見えて。
アーフィは、なんとなく伸ばした手で黒髪を梳かすように撫でた。
お母さんが、水浴びのあとでしてくれるような、そんな手つきで。
「……私が、恐くないのか?」
ぽつり、と。
穏やかな雨よりも静かな声が、アーフィの鼓膜を揺らした。
その声ににじんだ怯えに、アーフィは少し混乱する。
ロイを怖がるような理由も、ロイが自分を怖がる理由も、何一つ分からなくて。
先生なら、分かるのかなぁ。
いつものようにアーフィは思う。
先生ならどうするか、と考えるのは、難しいことを尋ねられたときのくせのようなものだった。
先生なら、分かるのかもしれない。
心のどこかでそう思いながら、自分で考えなければならないのだとアーフィは気づいていた。
だって、今この場所に先生はいない。
いるのは、5つになったばかりの、どうしようもなく子どもな自分と、おかしなことにその自分を怖がっている大人のロイさんだけなのだ。
だから。
アーフィは分からないことをそのまま問いかけてみることにした。
「どうして? ロイさんは、悪い人じゃないでしょう?」
ロイは、何も言わなかった。
うつむいたその顔は、陰になって見えない。
のぞきこむかわりに、アーフィはロイの頭をそっと抱きしめた。
アーフィの小さな身体では、それが精一杯だった。
凍りついたかのように動きを止めてしまったロイに、どうしたらいいのか考えあぐねて、アーフィは透き通った村になんとなく眼をやる。
草原の向こうの丘のそのまた向こうから顔をだしたのは、やはり透明な、満月。
それぞれの家に眼を向けてみれば、今日の仕事を終えて帰り着いた人々が、食卓を囲むさまが視えた。
誰もが穏やかに笑っていて、それになぜだかほっとする。
「ロイさんは、優しい人だと思う」
だって、こんなに素敵な魔法を紡げるんだもの。
はじかれたようにロイが顔を上げて、二人の視線が交わった。
ロイの視線の強さと自分が口にした言葉の両方に、アーフィは少しとまどう。
ひとつは、ひとつであってすべてにはなりえない。
ことあるごとに先生に言われて、わかっていたはずだった。
にもかかわらずこぼれていた言葉にうろたえながら、アーフィは腕からすりぬけていった頭に手をのばして、さっきまでそうしていたように撫でた。
「・・・やさしい、ヒトたちだったんだ」
静寂を破った声は、ひどく震えていた。
震える手が、そのてのひらの向きで大きな樹の隣に建てられた家を指し示す。
そうしてロイは、震える声で語りはじめた。
村に暮らす、すべての人のことを。
イノシシを捕まえるのが上手な、猟師のクーパーさん。
奥さんのミスり−さんは皮をなめすのが上手で、町から来る行商人が感嘆するくらいだった。
その向かいの家に暮らしていたのが、村で一つきりの宿屋を兼ねた、酒屋のクルガンさん。
ガキに飲ませる酒はねぇ! が口癖で、悪戯をしては怒鳴られた。
その手前の村一番質素な家が、村長のヨーゼフさんの家。
ヨーゼフさんは、みんなと同じように朝早くから畑を耕していた。
誰よりも村のことを考えてて、村人一人ひとりのことをよく知っていて。
子ども心に、立派な人だと思っていた。
それから、村はずれにあるのが薬師のラズさんの家。
薬の調合には静かな場所がいいから、とあの場所に住んでいた。
気のいい人で、怪我をした子どもはたいてい、ラズさんに治してもらっていた。
ロイの言葉とともに、食卓を囲んで談笑する人々がアーフィの前に現れては消えていった。
アーフィの村よりちょっと少ないけれど、それでも何十人もいる村人一人一人を鮮明に映し出す幻に、アーフィは感嘆した。
映し出された誰もが、楽しそうに嬉しそうに笑っていて。
けれど、それを映し出しているロイが、ちっとも笑っていないことにアーフィは気づいていた。
「この時間が、とても好きだった」
もう震えていない声で、静かに言葉を紡ぐロイの視線の先に、小さな家があった。
夕食を囲んで、ロイのお父さんと、お母さんと、妹と、それから、栗色の髪の少年が談笑していた。
「ロイさん?」
少し混乱して、アーフィはロイを見つめた。
ロイの黒い髪が風に揺れる。
幻の少年の栗色の髪は、揺れない。
「あれが、私だ。栗色の髪の・・・今よりずっと、幼くて何も知らない頃の」
淡々と、ロイは言った。
髪の色が違うのに「私だ」と言うロイに、アーフィはやっぱり混乱して。
けれど、ロイが自分だと言うのだから、そうなのだろう、と思った。
どうして、と声高に問うには、夜が静かすぎる。
「耳の飾り、みんなつけてるのね」
なでる手をそっとおろせば、ロイの左耳に触れた。
今は春なのに、ロイの左耳は冬の桶にはった氷よりも冷えきっていて、一瞬だけアーフィの手が震える。
耳飾りに触れるのはためらわれて、アーフィはロイの頬に触れた。
そこも凍てついたように冷たかった。
「・・・祈りだ。互いの幸せと命への感謝、それから・・・」
それ以上は言わずに、ロイはそっと顔を動かして、アーフィの手を遠ざける。
「冷たいだろう。これ以上、触れないほうがいい」