2. 知らない人と知りあう
はやる心は、アーフィの足を速めこそすれ、ゆるめることはなかった。
駆けて駆けて駆けて、息が乱れきったころにようやくたどりついたのは、村から1レイルほどの距離にある草原。
ヤギたちのエサにする草を刈りに、村の子ども全員で来たのはつい昨日のことなのに、はじめて見る場所のように感じる自分に動揺して、アーフィは何度もまばたきをした。
雪のように細やかな光が、音もなく草原中を舞いおどる。
朝露の雫に似たきらめきが幾重にも宙に浮かぶその様は、星々がワルツを踊っているかのようで。
この世のものとは思えない美しさに、アーフィは言葉を忘れて立ちつくした。
「そこにいるのは、ヒトの子か」
唐突に、聞き覚えのない声が響く。
アーフィは飛び上がるほど驚いた。
この草原の近くに、アーフィの村以外の集落はない。
その村だって、山賊や、魔物すら来ないほどには、辺鄙な場所にあるのだ。
昼ならまだしも夜に、知らない人がここにいるなんてありえない。
そんなことは、考えるまでもなく分かっていて、こういうときは村の大人を呼びに走るべきなんじゃないかと心のどこかで思ったけれど、アーフィはそうしなかった。
声のしたほうを真っ直ぐ見つめて、笑いかける。
「わたし、アーフィっていうの」
何のためらいもなく。アーフィは名のった。
さっきの声が、とても優しい響きを帯びていたからだ。
「あなたは?」
空中を踊りつづける光たちのおかげで、眼を凝らさなくても声の主は見えた。
くるぶしまで包み込むような長さの、黒い襟つきマントを羽織った男の人。
いつか街で見かけた吟遊詩人のお姉さんよりも白い肌に、紅い唇が良く映えていて。
先生より長い、夜明け前の世界を閉じ込めてもそうはならないような漆黒の髪の毛がその背中を覆っている。
左耳に、風とともにゆれる銀色の耳飾りが見えて、アーフィは不思議に思った。
男性が装飾品をつけるような習慣は、アーフィの村にはないからだ。
「私は・・・、」
呟くような声で、男性は言う。
村の先生の声のように低くて物静かで、先生よりずっととらえどころのない、流れる水のような声。
その声に少しききほれていたアーフィは、白い顔に浮かぶ笑みがなんだか哀しそうに見えて眉をひそめた。
無理やり笑ったって、いいことなんか一つも起きないのに。
「私は、ロイという名前だった」
ロイ。
年に何回か、街からくる行商人さんとおんなじ名前。
思い出したままに言ってみれば、ロイと名乗った男の人はまた笑った。
さっきより楽しそうな微笑みに、アーフィは少し嬉しくなった。
「ロイさんは、何してる人? 魔法使いさん?」
問いかけたのは、きらきら揺れる光があんまりにもきれいだったからだ。
だからアーフィは、ちょっと好奇心が混じった口調でたずねて、そうして、傷ついたような顔になったロイに気づいてとまどった。
「・・・魔法使い、というわけではないのだけれど」
静かな声で、ロイは言った。
かすれたようなその声に、なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、アーフィは口を閉じる。
「・・・そう、だね。昔は、この場所で畑を耕していたよ」
昔、というのがいつのことなのか、アーフィにはよく分からなかった。
ここはずっと草原で、畑なんてなかったのだから。
「わたしが生まれる前のこと?」
そうだ、とロイは頷く。
君が生まれる、ずっとずっと前のことだった、と。
その顔に浮かんでいたのは、大人が古いことを思い出すときのような、何かを懐かしむような表情だった。
「昔、この草原には村があって。そこに、住んでいた」
ロイが言い終わるか終らないかのうちに、草原はその姿を変えた。
まるで昼のように明るくなった視界に、見たことがない刺繍のされた布で飾られた、質素な木造りの家々が並ぶ。
あっという間に、石造りの井戸や家と家をつなぐ小道、そして談笑する人々も現れた。
「すごぉい」
眼を見張ったアーフィは、すぐにどれもが透明なことに気づいた。
あちこちで笑う、栗色の髪の子どもたちも、村の慣わしなのか誰もが両耳につけている銀色の耳飾りも、やっぱり透きとおっていて。
その向こうで草が揺れるのが見える。
「まほう?」
アーフィは、尊敬の眼でロイを見つめた。
年に一度、夏の祭りのときにやってくる魔法使いさんだって、こんな凄い光景を見せてくれたことはなかったからだ。
「・・・あぁ。今夜かぎりの、魔法だよ」