1. はじまりの夜のはじまり
朝がくるには、ほど遠い時間のことだった。
喉の渇きに眼を覚ましたアーフィは、底まで干上がった水がめの前でため息をついた。
水がすぐに飲めないことではなく、水を絶やしてしまったことが悔しくて唇を噛む。
数えで五つになった一昨日から、水くみはアーフィの仕事だった。
常に、アーフィの腰より少し上まで水をたたえておくのがその基本。
お母さんなら、こんな失敗はしないのに。
思うでもなくこぼれた呟きに、この三日間でしでかした失敗の数々が脳裏から浮かび上がる。
それだけで沈みかけた気持ちを首を何度か横に振ることで立て直して、アーフィはマントに手を伸ばした。
井戸まで一往復か二往復して、水をくんでくればいいだけのことだ、と自分に言い聞かせながら。
夜着の上からマントを羽織って、木桶を持ちあげて。
ちょっと癖のある木の扉を、軋ませないようにそっと押し開ける。
扉の外は、この時期の夜にふさわしく、ひそやかな空気を纏っていた。
羊毛のマントの襟をくすぐる夜風に、アーフィは首をすくめる。
何を思うわけでもなく見上げた夜空は、こころなしか常より星がざわめいているように見えた。
湧き上がってきた理由のない不安に、草や土や樹や羊の毛のにおいを呼吸ごと吸い込んで、アーフィは一つ息をつく。
それから、木桶の持ち手をぎゅっと握って、月とおなじ明るさの道をあぶなげのない足取りで歩き出した。
村の中心にある井戸までは、幼いアーフィの足でも、そうかからない。
石造りの井戸は、昨日と同じ重厚さでそこにあった。
決められた場所に木桶を置いて、そっと魔法の言葉を唱える。
教えてもらったばかりの、井戸から水を呼び出す呪を。
一昨日と昨日のような失敗を重ねたくはなかった。
成功を祈りながら、じっと井戸を見つめる。
音も無く浮かび上がった水の球が静かに桶を満たすのを見届けて、アーフィは笑った。
はじめて、一度で成功したのだ。
誇らしさで胸がいっぱいだった。
「水をこぼさずに、持ってかえるまでがお仕事」
数日前に母に言われた警句をかみしめるように呟きながら、アーフィは桶を持ち上げる。
どんな重いものが入っていても、持ち運ぶ人がせいいっぱい力を出せば持ち上げられるように魔法がかけられている桶を。
うんと軽くする魔法をかけないのは、どうして。
先生にたずねたのは、つい昨日のことだった。
そのほうが簡単な魔法だし、使う人だって楽なのに、と。
でもね、とふんわりと笑った先生の眸を思いだして、アーフィは木桶を持つ手に力をこめる。
「そうしたら、きっと勘違いしてしまうだろうから」
口にしてみた言葉は、やっぱりよく分からなかった。
先生が言うことは、最上級の謎かけのように難しいことがある。
どういう意味かたずねても、いつか分かる日までの宿題、と教えてもらえないのだ。
だからアーフィは、何度も思い返しては考えているのだけれど、ヒントすら見つけられずにいるのだった。
いつか、分かる日がくるのかな
アーフィは1人ごちて、それから木桶の持ち方を少し変えた。
腕がだるくなってきていた。
このまま歩いていたら家にたどりつく前に桶ごとひっくり返ってしまいそうで、道端にしゃがみこむ。
闇に慣れた目にも、村の様子はあまり見えない。
夜なのだ。
日が沈んだ後まで起きている人は、この村にはいない。
当然、窓に灯りがともることもなく、月灯りの魔法もかろうじて道を照らしている程度だ。
早く家に戻って眠ってしまおう。
桶を抱えなおして、立ち上がろうとしたときだった。
村をかこむ柵の向こうに、きらきらと揺れる光が見えたのは。
夜は、村の外に出てはいけないよ
先生に諭されたのは数日前のことで、アーフィはその言葉をちゃんと覚えていた。
けれど、アーフィの村は、魔王と勇者が遠くで戦っていることすらお伽話としか思えないほど平穏だったので。
得体の知れない光に、恐怖を呼び起こされたりはしなかった。
ただ。
舞いおどるような光の動きに、きれいだなぁ、とみとれて。
もっと近くで見たいなぁ、と。
単純に、そう思った。
だからアーフィは、大急ぎで桶を家に運んで、中身を水がめに移して。
それから、村の入り口に向かう道へ駆けだしたのだった。