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8”.カケガエノナイモノヲ、ヒトツ(side Roi)

 泣きじゃくるヒトの子を、ロイは突きはなすでもなく、抱きしめかえすでもなく見つめていた。

 しがみつかれた胸が苦しいのは、圧迫されているせいなのか、それとも別の何かなのか。

 呼吸の必要のない身体が息苦しさを感じる矛盾に思い至るその間にも、ヒトの子の体温ごしに流れ込んでくる感情の深さが、いっそ心地よくロイに響く。

 その心地よささえ借りモノでしかないことが分かっていてなお、愉快さがロイを包んだ。

 ・・・その愉快さも、北の城の魔王の感覚が投影されたにすぎないのだが。


 ロイは、感情をもたない。

 ロイは、感覚をもたない。

 ロイは、ヒトではない。

 ロイは、魔物ではない。

 といって、魔王でもない。


 正確なところを述べるなら、ロイは魔王の記憶の一部だった。

 ヒトから遠くはなれ、ヒトの感覚をなくした魔王が、耳飾りを媒介に記憶から創りあげた仮初(かりそめ)の人形。


 その身は、実体であって実体ではなく。

 その心は、もとより存在しない。

 魔王の記憶と魔力の固まりにすぎない、不安定なモノ。


「君が、そうやって泣くようなことは、なにもなかったのに」


 勝手に口からこぼれた言葉に、ロイは眉をひそめた。

 機能上の問題はない。

 ロイの身体は常に、相手の表層意識から言語化された情報を読みとりつづける。

 心を読む、というよりはその語彙(ごい)を利用した翻訳というほうがより近い。

 意図するものは、目の前のヒトの子の語彙の中で翻訳され、言葉として世界に踊りでる。

 その機能は、相手が使う言語の稀少さや難解さに関わりなく発揮される。

 神殿に仕える高位の者のみが契約を結んでようやく使うことが赦される神聖語でさえ、ロイの前では暗号にもならないのだ。ましてや、目の前の少女が使う言葉など問題になるはずがなかった。

 

 問題は、イタワリだとかコウカイだとかいうものがそこににじんでいたことだった。

 自分に存在するはずのないものが、当たり前のように口をついて出る。

 それが、ロイを当惑させ、北の城の魔王を(よろこ)ばせた。

 持ちえないはずの感情が、ロイの中でうずまいていることが。

  

「・・・ロイさん」


 呼ばれた名が、思考の海からロイを引き戻した。

 頬に触れる小さな手のぬくもりに、息を一つ吐く。

 無意味でありながら、ロイと呼ばれる以上はごく自然な行為だった。


 アーフィが、ロイをロイとして・・・ヒトの名によって定義した瞬間から、ロイはその言霊に縛られ、魔王の一部ではなく魔法が使えるだけの人間(ヒト)としてこの場に存在している。

 だからこそ、本来ならば干渉しえない深層を・・・少女の感情を応用して、自らの心を“感じて”さえいるのだった。


 目の前の少女の頬を、音もなく涙が伝う。

 ヒトとしての心が、こぼれる塩水をぬぐってやりたいと思った。

 昔、妹にそうしていたように。

 そうすればこのヒトの子は・・・アーフィは笑うだろうか。

 思った瞬間、不意にアーフィがふきだした。

 泣きながら笑うその表情は、北の城に転がっている数々の宝石よりよほど美しく、気づけば見入っていた。


 ヒトは、なぜこんなにも美しいのだろうか。

 その理由は分からなかった。

 分からないまま、ただアーフィに見入っていたロイは、何一つ見逃さないような真摯(しんし)さで見つめてくる青い(ひとみ)に、少しうろたえ。

 うろたえたという事実を、北の城の魔王が(わら)った。


 魔王にとっては、ロイの存在など単なる暇潰しにすぎなかったのだ。

 これほど奇妙な結果を生むとは、考えもしないほどの。


「わたしは。ロイさんと出会えて、よかったと思う」


 唐突な言葉に、眼が丸くなるのをとめられなかった。

 今、アーフィは何と言ったのだろう。

 反芻(はんすう)しても、言葉の意味は変わらずにそこに在り。

 疑うことのできない耳を、ロイは何度も問いただした。


 “よかった”、などと。

 魔王(ロイ)に出会えてよかった、などと。

 そんなことを正気で述べるアーフィの本意が分からなかった。

 たった今、目の前で繰り広げられた殺戮(さつりく)の幻にあれほど怯えていた彼女が、そんな答えにたどりつく理由は何一つない。

 相容れないものである魔王(ロイ)を、ヒトの子が肯定するなど、あるはずがないことだった。


 分からない。

 その感覚にまた、北の城の魔王が(わら)った。

 何百年ぶりかの鮮明な感覚が、ロイを満たしている。

 勇者と対峙(たいじ)するよりも、強い魔力をとりこむよりも、深く豊かに。

 その鮮明さが、快かった。


 魔力のつながりをたどって、魔王はロイの行動や感覚を把握している。

 ロイの目の前にいるのは、ある程度の魔力を持ってはいるものの、それを使いこなす技術をもたない単なるヒトの子だった。

 これが、たとえば成人をむかえたヒトであれば、ロイと眼が合った瞬間にでも・・・それどころか同じ場で息をしただけでも、狂戦士(バーサーカー)と成り果てていてもなんら不思議はない。

 魔王が北へ去ったのは、ヒトが刃を持って迫ってくるからではなかった。

 魔王の存在そのものが、ヒトを刃に向かわせるがために、魔王はヒトの地を離れたのだ。

 そして、今をして尚、北の城に籠っている。


 幼き子なればこそ、一部とはいえ、“魔王(ロイ)”に接してなお、正気を保っていられるのだ。

 健やかなその精神に隙はなく、魅惑の技も通じなければ傀儡(かいらい)にすることもできない。

 なればこそ、北の城の魔王はこの邂逅(かいこう)を少なからず(よろこ)んでいた。

 はじめは単なる暇潰しとして、今はもう少し深い興味の対象として。


 ヒトと魔王は相容れないもの。

 それは絶対の(ことわり)


 にもかかわらず、このヒトの子は、見えるはずのない幻を見、聴こえるはずのない声を聴き、その上で“魔王(ロイ)”に寄り添っている。

 その稀有さに、北の城の魔王はもう一度嗤った。


「出会えて、よかった」


 ロイの戸惑いをよそに、アーフィは視線を合わせたまま繰り返した。

 その笑みの美しさに、ロイは見入り。

 その言葉の深さに、戸惑いをますます深める。

 

「だって。ロイさんのことも、ロイさんのお父さんやお母さんや妹さんや、それから猟師のクーパーさんやクーパーさんの奥さんや酒屋のクルガンさんや・・・たくさんの人のことを知ることができたから」


 ありがとう、とアーフィは言う。

 その笑顔に、ロイはすべての思考を忘れた。


 感謝の言葉を受け取る資格など、持っていないはずだ。

 借りモノの心が、うめくように叫ぶ。

 その通りだ、とロイは思った。

 思う間にも、アンドのようなコウカイのような何かが胸を抉り、流れるはずのない涙が頬を伝ったような気がした。


 記憶による錯覚に過ぎない、と北の城の魔王が嗤う。

 それでも。

 戯れに思い返してみればそれは、500年ぶりの涙だった。

 

 アーフィの青い(ひとみ)に映った自分の顔に、ロイは一つ息をついた。

 意図しても創ることができないような、笑顔とも泣き顔ともつかない表情。

 はるか昔に喪ってしまった心が今ここにあるならば、自分は何を感じるのだろうか、と埒もないことを思う。

 その間にも、借りモノの心から広がる、叫びだしたいような泣き出したいような笑いだしたいような衝動に支配された身体が、勝手に口を動かした。

 

「・・・あり、がとう」


 ぎこちない声だった。 

 そんな声を出したことは、この500年間一度もない。

 北の城の魔王が、愉快そうに(わら)う。

 借りモノの心が、奥底から満たされている。

 どれが本当なのか、ロイにはよく分からなかった。


 それでも。

 それでいいと思えて。 

 気づけばアーフィを抱きしめていた。

 はるか昔、まだヒトであったころ、妹にそうしたように。

 母親に、そうされたように。


 そうしてみて、不思議な感覚にロイは気づく。

 じんわりと肌に広がるそれが、温かいという言葉で表せることを思い出して、ロイは笑った。

 最後の最後に、ヒトの温もりを感じられる。

 はかったような幸運に、笑わずにはいられなかった。


 そうして、しばらく抱きしめつづけて。

 その温もりを、ひどく畏れる心に、ロイは気づく。

 指先一本動かすことなく腕の中の温もりを消し去ることができるだろう自分が、忌々しくも醜いものに思えてしかたがなかった。


 ヒトとしての心がある、ということは、こんなにも厄介なことだったろうか。

 探ってみた、まだヒトであったころの記憶は、感覚を喪っていた時間の長さに霞んでしまっていて、答えの欠片も見つかりそうにない。


 ただ。

 疑うこともなくすべてを預けてくるヒトの子の重さに、眩暈(めまい)がした。


 あぁ、そうだ、とロイは思った。

 いのちは、こんなにもおそろしく、もろく、けれどあたたかく、いとおしくて、かけがえのないものだった。


 それは、やはりヒトの子の定義であって、自分のものではなかったが。

 そんなことはどうでもよかった。

 これほどまでに、ヒトらしい心を、もう一度感じられることだけで、十分だった。


 仮初(かりそめ)の身体に、借りモノの心。

 これほどふさわしい組み合わせは他になかろう。

 北の城の魔王が愉悦を隠すことなく(わら)うのを感じながら、ロイはアーフィを強く抱きしめた。


 しばらくのあいだ、そうして座り込んで。

 闇が一番深くなる頃に、ロイは顔を上げた。

 抱きしめていたアーフィの身体をそっとはなす


 ヒトであったころの記憶が、切りつけるような風の冷たさをロイに思い起こさせた。

 アーフィは凍えているだろう、とようやく気づいて、聞こえないように呪を唱える。

 温かい空気だけが、その身体のまわりにひきよせられるように。

 そうしておいてから、ロイは空をあおいだ。


 星がよぎる空の色は、何よりも深い藍色。

 幻の向こうがわに揺らぐ草の、光に照らされずともなお濃い緑が、鮮明に(ひとみ)に焼きつく。

 夜明け前の世界は、深い色をたたえてそこに在った。

 これほど鮮明に何かを見るのは、はじめてのような気がした。

 

 ためらうようにそっと手に触れる幼い温もりに名残惜しさを感じ。

 ロイは、ただ笑った。




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