目撃者の沈黙
第一章 見てはいけないもの
雨音が、意識を引き戻した。
私——篠崎リョウは、濡れたアスファルトに倒れていた。四十二歳。平凡な会社員。いや、そうだった。昨日までは。
頭が割れるように痛む。記憶が、断片的にしか蘇らない。会社からの帰り道。いつもの裏道。そして——
血。
大量の血が、雨に流されていた。
私は、震える手でそれに触れた。温かい。まだ、新しい。
そして、その先に——
倒れている男。スーツを着た、四十代くらいの男性。胸に、深い刺し傷。目は見開かれたまま、動かない。
死んでいる。
私の喉から、悲鳴が漏れそうになった。だが、声は出なかった。恐怖が、声帯を凍らせた。
どうする。警察を呼ぶべきだ。だが——
その時、背後から声がした。
「見たな」
振り返ると、一人の男が立っていた。黒いレインコート、帽子で顔は見えない。だが、その手には——
ナイフ。血に染まったナイフ。
犯人だ。
男は、ゆっくりと私に近づいてきた。
「残念だが、お前も消すしかない」
私の体が、動かなかった。恐怖で、硬直していた。
男がナイフを振り上げた——
その瞬間、車のヘッドライトが私たちを照らした。
男が、舌打ちした。そして、闇に消えた。
車が止まり、窓が開いた。
「大丈夫ですか!?」
女性の声。三十代くらいの、心配そうな顔。
私は、何も答えられなかった。ただ、死体を指差した。
女性が悲鳴を上げた。そして、すぐに警察に通報した。
数分後、サイレンの音が響いた。パトカーが到着し、警察官たちが現場を封鎖した。
「あなたが、発見者ですか?」
刑事——名前は村上ケンジと名乗った——が、私に尋ねた。五十代、疲れた目をした男。
「はい......」
私は、かすれた声で答えた。
「何を見ましたか?」
私は、犯人のことを話そうとした。だが——
言葉が、出なかった。
なぜだ。話せばいい。犯人を見たと。黒いレインコートの男だと。
だが、私の口は、動かなかった。
「大丈夫ですか?」
村上刑事が、心配そうに私を見た。
私は、ただ首を横に振った。
「ショックを受けているようですね。今日は、これで。また後日、詳しく話を聞かせてください」
私は、警察署で簡単な事情聴取を受けた後、解放された。
家に帰る途中、私は考え続けた。
なぜ、犯人のことを話せなかったのか。
恐怖か。それとも——
家に着くと、郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人の名前はない。
開封すると、中には一枚の写真が入っていた。
私の写真。今日、事件現場にいた時の写真。
そして、裏には——
『黙っていろ。さもなくば、お前も死ぬ』
私の手が、震えた。
犯人は、私を監視している。
そして、口を封じようとしている。
私は、どうすればいいのか。
警察に相談すべきか。だが、すでに犯人は私の住所を知っている。警察に言えば、本当に殺されるかもしれない。
その夜、私は一睡もできなかった。
窓の外を見るたびに、誰かが監視しているような気がした。
物音がするたびに、犯人が侵入してくるのではないかと怯えた。
翌朝、会社に行くと——
同僚の田中ヒロシが、私に声をかけてきた。
「篠崎さん、昨日のニュース見ました? 殺人事件があったらしいですね」
私の心臓が、跳ねた。
「ええ......」
「被害者は、大手企業の役員だったらしいです。動機は不明だって」
田中が、興味津々という顔で話を続けた。
だが、私は聞いていなかった。
ただ、昨夜の脅迫を思い出していた。
「篠崎さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと寝不足で......」
その時、私の携帯が鳴った。
非通知番号からだった。
嫌な予感がした。だが、出ないわけにはいかなかった。
「もしもし?」
『篠崎リョウか』
低い、変質された声。
犯人だ。
『警告した。黙っていろと』
「私は、何も......」
『嘘をつくな。お前は、警察に事情聴取されただろう』
犯人は、私の行動を監視している。
『次に警察に近づいたら、お前の家族も——』
電話は、切れた。
私は、携帯を握りしめた。
家族——
私には、妻と娘がいる。二人とも、今は実家に帰っている。だが、犯人がそれを知らないとは限らない。
私は、絶望した。
誰にも相談できない。警察にも、家族にも、友人にも。
孤立している。
そして、犯人は——私を監視し続けている。
その日の午後、会社のトイレで、私は一人で考えた。
このまま、黙っているべきか。
だが、それは正しいことなのか。
殺人犯を野放しにすることは、正義に反する。
また、被害者が出るかもしれない。
だが、私が話せば——私と家族が殺される。
どうすればいいのか。
答えは、出なかった。
その時、トイレのドアが開いた。
入ってきたのは——見知らぬ男だった。
黒いスーツ、サングラス。明らかに、会社の人間ではない。
男は、私の隣に立った。
そして、小声で言った。
「篠崎リョウさんですね」
私の背筋が、凍った。
「誰ですか......」
「名前は、重要じゃない」
男が、サングラスを外した。
鋭い目。殺意を秘めた目。
「忠告する。余計なことをするな」
男は、ナイフをちらつかせた。
そして、去って行った。
私は、その場に崩れ落ちた。
恐怖で、体が動かなかった。
犯人は、ここまで来た。
私の職場にまで。
もう、逃げられない。
第二章 真実という牢獄
会社を早退し、私は自宅に戻った。だが、そこは安全な場所ではなかった。もうどこにも、安全な場所などない。
リビングのソファに座り、私は考え続けた。思考は堂々巡りだ。話せば殺される。黙っていても——いつか、口封じのために殺されるかもしれない。
窓の外を見た。向かいのビルの窓に、人影が見えた。監視されている。確信があった。
その時、インターホンが鳴った。
私の体が、硬直した。犯人か——
モニターを確認すると、村上刑事が立っていた。
ドアを開けると、村上刑事は申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、急に。少し、お話を聞かせていただけますか」
私は、部屋に通した。だが、心臓は激しく鼓動していた。
村上刑事は、ソファに座った。そして、私を真っ直ぐ見た。
「篠崎さん、あなたは何か隠していますね」
その言葉に、私は言葉を失った。
「いえ、何も......」
「嘘は、すぐに分かります」
村上刑事の目が、鋭くなった。
「あなたは、現場で何かを見た。だが、それを話さなかった」
「なぜですか?」
私は、答えられなかった。
村上刑事は、続けた。
「被害者——高村タケシ。大手製薬会社の研究開発部長でした」
「彼は、ある不正を暴こうとしていた」
「会社の違法な人体実験について」
私は、息を呑んだ。
「だから、殺された。口封じのために」
村上刑事が、私の目を見た。
「あなたも、危険です。犯人は、目撃者を消すでしょう」
「だから、協力してください。真実を話してください」
私の喉が、渇いた。
話すべきか——
だが、その時、窓ガラスが割れた。
何かが、飛び込んできた。
爆弾——いや、発煙筒だ。
部屋が、白い煙で満たされた。
「篠崎さん!」
村上刑事の声が聞こえた。だが、姿は見えない。
私は、咳き込みながら、出口を探した。
その時、誰かが私の腕を掴んだ。
「来い」
男の声。犯人か——
だが、抵抗する力はなかった。私は、引きずられるように部屋を出た。
階段を降り、裏口から外に出た。
煙が晴れ、私を掴んでいた男の顔が見えた。
見知らぬ男——だが、トイレで会った男ではない。
四十代、傷だらけの顔。元軍人のような雰囲気。
「誰ですか......」
「時間がない。来い」
男は、私を車に押し込んだ。
車は、猛スピードで走り出した。
「どこに連れて行くんですか!?」
「安全な場所だ」
男が、答えた。
「俺は、黒崎シュン。元警察官だ」
「元......?」
「ああ。五年前、ある事件を追っていた。だが、上層部の圧力で捜査は打ち切られた」
黒崎が、ハンドルを握りながら続けた。
「その事件と、今回の殺人は——繋がっている」
私は、混乱した。
「どういうことですか?」
「高村タケシが暴こうとした不正——それは、氷山の一角だ」
黒崎の目が、鋭くなった。
「製薬会社、政治家、警察——全てが繋がっている」
「そして、お前が見た犯人も、その組織の一員だ」
私の頭が、パニックになった。
「では、私は......」
「ああ。お前は、とんでもないものを見てしまった」
黒崎が、車を止めた。
そこは、廃ビルだった。
「ここに隠れろ。しばらく、姿を消すんだ」
「でも、家族が......」
「家族は、既に保護した」
黒崎が、私を見た。
「俺の仲間が、お前の妻と娘を安全な場所に避難させた」
私は、安堵と同時に、不安を感じた。
この男を、信用していいのか。
だが、選択肢はなかった。
廃ビルの中に入ると、既に数人の人間がいた。
一人は、三十代の女性——水野アヤと名乗った。フリージャーナリストだという。
もう一人は、五十代の男性——吉田タカシ。元製薬会社の研究員。
「篠崎さんですね」
水野が、私に話しかけた。
「黒崎さんから、話は聞いています」
「あなたは、殺人を目撃した」
「そして、犯人に脅されている」
私は、頷いた。
水野が、続けた。
「私たちも、同じです」
「この組織の闇を知り、狙われている」
吉田が、重々しく言った。
「製薬会社『メディファーマ』——そこで行われている違法な人体実験」
「新薬の開発のために、無断で患者を実験台にしている」
「そして、それを隠蔽するために——邪魔な人間を消している」
私は、戦慄した。
「高村さんも......」
「ああ。高村は、内部告発しようとした」
「だから、殺された」
黒崎が、地図を広げた。
「メディファーマの本社は、ここだ」
「地下に、秘密の研究施設がある」
「そこに、証拠がある」
黒崎が、私たちを見渡した。
「俺たちは、そこに侵入する」
「証拠を掴み、全てを公表する」
水野が、頷いた。
「それが、唯一の方法です」
吉田も、同意した。
だが、私は——
「待ってください」
私は、言った。
「私は、ただの会社員です。そんな危険なこと......」
「分かっている」
黒崎が、私の肩に手を置いた。
「だが、お前にしかできないことがある」
「何ですか?」
「お前は、犯人の顔を見た」
黒崎の目が、真剣だった。
「犯人を特定できるのは、お前だけだ」
私は、言葉に詰まった。
そうだ。私は、犯人を見た。
だが——それを思い出すことが、恐ろしかった。
その夜、私は廃ビルの一室で、一人で考えた。
本当に、これでいいのか。
黒崎たちを信じていいのか。
そして——私は、真実を暴く勇気があるのか。
答えは、まだ出なかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
もう、後戻りはできない。
第三章 沈黙の代償
翌朝、黒崎が作戦会議を開いた。
「メディファーマ本社への侵入は、今夜決行する」
黒崎が、建物の見取り図を示した。
「警備は厳重だ。だが、吉田の協力で、セキュリティカードを手に入れた」
吉田が、カードを見せた。
「これで、地下への入口を開けられる」
水野が、カメラを確認しながら言った。
「私は、証拠を撮影します」
「篠崎さんは、犯人の特定を」
黒崎が、私を見た。
「施設内の監視カメラ映像にアクセスする」
「そこに、犯人が映っているはずだ」
私は、不安だった。
「でも、もし見つかったら......」
「見つからないようにする」
黒崎が、断言した。
「だが、万が一の時は——」
黒崎は、拳銃を取り出した。
私は、息を呑んだ。
「殺すつもりですか?」
「必要なら」
黒崎の目は、冷たかった。
「相手は、殺人集団だ。容赦はしない」
その言葉に、私は恐怖を感じた。
これは、本当に正しいことなのか。
だが、黙っている時間はなかった。
夜、私たちはメディファーマ本社に向かった。
高層ビル。最上階には、社長室がある。
だが、私たちの目的は——地下だ。
吉田がセキュリティカードをかざすと、地下への扉が開いた。
「成功だ」
私たちは、薄暗い廊下を進んだ。
両側には、いくつもの部屋がある。
水野が、一つの部屋のドアを開けた。
そして——悲鳴を上げそうになった。
中には、ベッドが並んでいた。
そして、その上には——人が横たわっていた。
意識がない。チューブに繋がれている。
「これは......」
吉田が、暗い顔で言った。
「人体実験の被験者だ」
「無断で、新薬を投与されている」
私は、吐き気を催した。
こんなことが、許されるのか。
水野が、カメラで撮影した。
「証拠を、しっかり記録します」
私たちは、さらに奥に進んだ。
そして、監視室を見つけた。
黒崎が、ドアを開けた。
中には、誰もいなかった。
「ラッキーだ」
私は、コンピューターにアクセスした。
監視カメラの映像記録——
事件当日の映像を探した。
そして——
見つけた。
犯人が、高村を襲う瞬間の映像。
犯人の顔が、はっきりと映っていた。
私は、その顔を見て——
凍りついた。
知っている顔だった。
村上刑事——
私を担当している、あの刑事が、犯人だった。
「まさか......」
黒崎が、画面を見た。
そして、苦い顔をした。
「やはりな」
「知っていたんですか?」
「疑っていた」
黒崎が、説明した。
「村上は、メディファーマから金をもらっている」
「不正を隠蔽する役割だ」
私は、絶望した。
警察も、腐敗している。
では、誰を信じればいいのか。
その時、警報が鳴り響いた。
「見つかった!」
黒崎が、叫んだ。
「逃げるぞ!」
私たちは、廊下を走った。
だが、出口には——
武装した警備員たちが待っていた。
「動くな!」
私たちは、包囲された。
そして、奥から——
一人の男が現れた。
スーツを着た、六十代の男性。
「久しぶりだな、黒崎」
男が、冷たく笑った。
「俺は、お前を捕まえるのを楽しみにしていた」
黒崎が、男を睨んだ。
「藤堂......」
「そうだ。藤堂ヒデオ。メディファーマの社長だ」
藤堂が、私たちを見渡した。
「お前たちは、知りすぎた」
「だから、消すしかない」
藤堂が、警備員に合図した。
警備員たちが、銃を構えた。
私は、死を覚悟した。
だが、その瞬間——
爆発音が響いた。
建物が、揺れた。
「何!?」
藤堂が、驚いた。
黒崎が、笑った。
「保険だ」
「仲間が、別の場所で爆弾を仕掛けた」
「お前たちが、俺たちを殺せば——ビル全体が爆発する」
藤堂の顔が、青ざめた。
「貴様......」
その混乱の隙に、黒崎が動いた。
警備員の一人を倒し、銃を奪った。
「走れ!」
私たちは、再び走り出した。
銃声が、背後で響いた。
だが、私たちは止まらなかった。
非常階段を駆け上がり、地上に出た。
外には、黒崎の仲間が車で待っていた。
私たちは、車に飛び乗った。
車は、猛スピードで走り去った。
「助かった......」
水野が、安堵の息を吐いた。
だが、黒崎は暗い顔をしていた。
「まだ、終わってない」
「証拠を公表するまで、安心はできない」
私は、コンピューターから取り出したデータを確認した。
村上刑事の映像——
これが、決定的な証拠だ。
だが、どうやって公表するのか。
メディアも、警察も——信用できない。
その時、水野が言った。
「ネットです」
「SNSで、一気に拡散させる」
「そうすれば、隠蔽できない」
黒崎が、頷いた。
「それしかないな」
私たちは、安全な場所——黒崎の隠れ家に戻った。
そして、証拠の映像と写真を、ネット上に公開した。
瞬く間に、拡散された。
数時間後——
ニュースが、報道し始めた。
『メディファーマ、違法人体実験の疑い』
『警察官が殺人に関与か』
私たちは、成功した。
だが——
その代償は、大きかった。
第四章 真実の重み
証拠が公表されてから、世間は大騒ぎになった。メディファーマの株価は暴落し、藤堂社長は緊急記者会見を開いたが、否定するばかりで何の説得力もなかった。
村上刑事は、行方不明になった。逃亡したのだろう。
だが、私たちも安全ではなかった。
「まだ、油断するな」黒崎が警告した。「組織は、まだ崩壊していない。反撃してくる」
実際、その夜——隠れ家が襲撃された。
武装した男たちが、ドアを蹴破って侵入してきた。
だが、黒崎は予測していた。
私たちは、既に別の場所に移動していた。
「これからどうするんですか?」私が尋ねた。
「証人保護プログラムだ」黒崎が答えた。「信頼できる検察官に連絡を取った。お前たち全員を、保護してもらう」
数日後、私たちは検察庁で正式な証言をした。
検察官——名前は高井サクラ——は、四十代の厳格な女性だった。
「あなたたちの勇気に、感謝します」高井検察官が言った。「これで、メディファーマと腐敗した警察官を、訴追できます」
だが、高井検察官は続けた。
「ただし、あなたたちの安全は保証できません」
「組織は、まだ力を持っています」
「証言するということは、命を懸けるということです」
私は、覚悟していた。
もう、後戻りはできない。
裁判が始まった。
藤堂社長、村上刑事(後に逮捕された)、そしてメディファーマの幹部たち——
全員が、被告席に座った。
私は、証人として、法廷に立った。
「あなたは、事件の夜、何を見ましたか?」
検察官が尋ねた。
私は、深呼吸した。
そして、すべてを話した。
高村タケシが殺される瞬間を見たこと。
犯人が村上刑事だったこと。
脅迫されたこと。
そして、メディファーマの地下で見た、恐ろしい人体実験のこと。
法廷は、静まり返った。
被告たちは、険しい顔で私を睨んでいた。
だが、私は怯まなかった。
これが、真実だ。
そして、真実は——語られなければならない。
裁判は、数ヶ月続いた。
最終的に、藤堂社長と村上刑事は、有罪判決を受けた。
メディファーマは、解体された。
人体実験の被害者たちは、救出された。
正義は、勝った——
はずだった。
だが、私の心は、晴れなかった。
裁判が終わった後、私は黒崎に会った。
「終わりましたね」私が言った。
「ああ」黒崎が、窓の外を見ながら答えた。「だが、本当に終わったのか?」
「どういう意味ですか?」
「藤堂や村上は、捕まった。だが、組織の全体が崩壊したわけじゃない」
黒崎が、私を見た。
「まだ、闇の中にいる人間がいる」
「そして、いつか——復讐してくるかもしれない」
私は、背筋が寒くなった。
「では、私たちは......」
「ずっと、狙われ続ける」
黒崎が、苦い顔をした。
「それが、真実を語った者の運命だ」
私は、絶望した。
真実を語ることは、正しいことだった。
だが、その代償は——一生、恐怖と共に生きること。
「後悔していますか?」黒崎が尋ねた。
私は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「いいえ。後悔していません」
「なぜなら——沈黙することの代償の方が、もっと大きいから」
黒崎が、微笑んだ。
「そうか。なら、いい」
私たちは、それぞれの道を歩み始めた。
水野は、ジャーナリストとして、さらなる不正を追い続けた。
吉田は、人体実験の被害者支援団体を立ち上げた。
黒崎は、私設探偵として、警察が動かない事件を調査し始めた。
そして、私は——
会社を辞め、新しい人生を始めた。
妻と娘と共に、別の街で暮らすことにした。
名前も、変えた。
だが、過去は——消えない。
ある日、郵便受けに一通の手紙が入っていた。
差出人の名前はない。
嫌な予感がした。
開封すると、中には一枚の紙が入っていた。
そこには、こう書かれていた。
『お前は、見てはいけないものを見た。そして、話してはいけないことを話した。その代償は、いつか払うことになる』
私の手が、震えた。
組織は、まだ私を監視している。
そして、いつか——復讐してくる。
だが、私は紙を破り捨てた。
恐怖に支配されることは、もうしない。
真実を語った。それは、正しいことだった。
その代償がどれほど大きくとも——私は、後悔しない。
なぜなら——
沈黙することの代償の方が、もっと重いから。
高村タケシは、真実を語ろうとして殺された。
人体実験の被害者たちは、沈黙させられていた。
もし私が黙っていたら——彼らの苦しみは、永遠に闇の中だった。
私は、娘の顔を思い浮かべた。
彼女が生きる未来——
そこに、真実があってほしい。
たとえ、それが苦しくとも。
たとえ、それが危険でも。
真実は、語られなければならない。
それが、人間の尊厳だから。
第五章 目撃者の選択
それから三年が経った。
私——もう篠崎リョウという名前は使っていない——は、小さな町で静かに暮らしていた。
妻と娘は、幸せそうだった。過去のことは、ほとんど話さなかった。
だが、私は忘れていなかった。
あの夜のこと。高村タケシの死体。村上刑事の冷酷な目。そして——真実を語った代償。
時々、悪夢を見た。追われる夢。殺される夢。
だが、それでも——私は生きていた。
ある日、黒崎から連絡があった。
「久しぶりだな、篠崎」
「黒崎さん......どうしたんですか?」
「会いたい。重要な話がある」
私は、黒崎と近くのカフェで会った。
黒崎は、以前より老けて見えた。疲労が、顔に刻まれていた。
「実は、新しい情報が入った」黒崎が、小声で言った。
「メディファーマの残党が、新しい組織を作っている」
私の心臓が、跳ねた。
「まだ、続いているんですか......」
「ああ。藤堂は刑務所にいる。だが、彼の部下たちは野放しだ」
「そして——お前を狙っている」
黒崎が、私を真剣に見た。
「逃げろ。この町も、もう安全じゃない」
私は、拳を握りしめた。
「いつまで、逃げ続ければいいんですか?」
「一生だ」黒崎が、答えた。「それが、真実を語った者の運命だ」
私は、立ち上がった。
「もう、逃げません」
「篠崎......」
「私は、もう一度戦います」
私は、決意していた。
「新しい組織を、潰します」
黒崎が、驚いた顔をした。
「本気か?」
「本気です」
私は、黒崎の目を見た。
「このまま逃げ続けても、娘は幸せになれない」
「恐怖の中で生きることになる」
「だから、終わらせます。完全に」
黒崎は、しばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「分かった。なら、協力する」
私たちは、再び戦いを始めた。
水野や吉田にも連絡を取り、チームを再結成した。
新しい組織——名前は「ネオファーマ」——の本拠地を突き止めた。
そして、そこに乗り込む計画を立てた。
「今度こそ、完全に潰す」黒崎が、宣言した。
「証拠を掴み、全員を逮捕させる」
だが、作戦の前夜——
私の家に、一人の訪問者があった。
村上刑事だった。
だが、彼は——刑務所を脱獄していた。
「篠崎......いや、お前の新しい名前は知っている」
村上が、銃を構えた。
「お前のせいで、俺の人生は終わった」
「だから、復讐する」
私は、後ずさった。
「待ってください」
「待たない」
村上が、引き金に指をかけた。
その瞬間——
ドアが蹴破られた。
黒崎が、突入してきた。
村上と黒崎が、もみ合った。
銃声が、響いた。
私は、床に伏せた。
数秒後、静寂が訪れた。
恐る恐る顔を上げると——
村上が、床に倒れていた。
黒崎が、村上の銃を奪っていた。
「大丈夫か、篠崎?」
「ええ......ありがとうございます」
村上は、まだ息があった。
彼は、苦しそうに笑った。
「お前たちは......勝てない......」
「組織は......永遠だ......」
そして、村上は息絶えた。
私は、複雑な気持ちだった。
村上は、殺人者だった。
だが、同時に——システムの被害者でもあった。
権力に魂を売った、哀れな男。
翌日、私たちはネオファーマの本拠地に突入した。
激しい戦いの末、証拠を掴み、幹部たちを拘束した。
警察——今度は、信頼できる警察官たち——が到着し、全員を逮捕した。
ネオファーマは、崩壊した。
そして——
本当に、終わった。
数ヶ月後、私は元の名前——篠崎リョウに戻った。
もう、隠れる必要はなかった。
組織は、完全に潰れた。
私は、家族と共に、平穏な生活を取り戻した。
ある日、娘が私に尋ねた。
「お父さん、怖くなかった?」
娘は、すべてを知っていた。
私が殺人を目撃したこと。脅されたこと。戦ったこと。
「怖かったよ」私は、正直に答えた。
「でも、黙っている方が、もっと怖かった」
「なぜ?」
「真実を隠すことは、自分を裏切ることだから」
私は、娘の頭を撫でた。
「人は、時々、見てはいけないものを見る」
「そして、選択を迫られる」
「黙るか、語るか」
「黙れば、安全かもしれない。でも、心は死ぬ」
「語れば、危険かもしれない。でも、魂は生きる」
娘が、私を見上げた。
「お父さんは、どっちを選んだの?」
「語ることを選んだ」
私は、微笑んだ。
「そして、後悔していない」
娘も、微笑んだ。
「お父さん、かっこいい」
その言葉が、何よりも嬉しかった。
私は、窓の外を見た。
青い空。
自由な空。
もう、誰も私を監視していない。
もう、誰も私を脅さない。
私は、自由だ。
真実を語ったから。
沈黙を拒否したから。
それが、私の誇りだ。
目撃者として、私は見た。
そして、語った。
それは、時に孤独で、恐ろしく、危険な道だった。
だが——
それが、人間としての道だった。
真実は、時に重い。
真実は、時に痛い。
だが、真実は——語られなければならない。
沈黙することの代償は、あまりにも大きい。
自分の魂を失うこと。
人間の尊厳を失うこと。
そして——未来を失うこと。
私は、選んだ。
語ることを。
戦うことを。
生きることを。
それが、目撃者の選択だ。
そして——私は、その選択を誇りに思う。
夜、ベッドに横になり、私は考えた。
もし、あの夜に戻れたら——
私は、また同じ選択をするだろうか。
答えは——イエスだ。
何度でも、同じ選択をする。
なぜなら——
それが、正しいことだから。
真実を語ることは、決して間違いではない。
たとえ、代償が大きくとも。
たとえ、苦しくとも。
真実は、語られなければならない。
それが、人間の証だ。
私は、目を閉じた。
もう、悪夢は見ない。
なぜなら——
私は、自分の選択に、誇りを持っているから。
目撃者の沈黙は、破られた。
そして、真実は——
永遠に、語り継がれる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
読者の皆様には、感謝いたします。
ラプ太郎先生の次回作にも乞うご期待ください。




