初日ですよ?
「疲れた……」
王子宮に来たばかりだというのに、もう胃のあたりがじんわりと痛い。
クリスはお腹の中が真っ黒だし、ソレイルは初恋で暴走しているし、メリアは幼過ぎて話にもならない。
精神は大人でも、体力は子供。応対と揉め事の所為で、すっかり疲れ切ってしまった。
ぼふっと大きなソファーに身を沈めると、ローガットは「こちらをどうぞ」と紅茶のカップを差し出してきた。
「お疲れでしょうから、温かいものを。どうぞ」
いつの間に……と、慄きながらカップに口をつける。
「さて、王女殿下」
「う、はい」
手帳を取り出して何か書き込んでいたローガットに名前を呼ばれ、シャキンと背筋を伸ばす。
「今日はこのあと、専属侍女が参ります。リスティア様の侍女は、統括宮のときと同じくリタ、ジーナ、イルマの三名が務めます。専属侍従につきましては、後ほど国王陛下がご指名なさるでしょう。また、王女殿下には女性の専属騎士がつきますが、そちらも陛下が適任者をお決めになりますので、お待ちください」
「分かったわ」
「それと本日の出来事は、全て国王陛下にご報告しておきます」
「全て……?」
「はい。先ほどのことも、その他のことも全て。それと、王女殿下がたいへん冷静に対処されたことも併せて」
(メリアもそうだけれど、ソレイルも叱られるのでは?)
感情的になって声を荒げて抗議していたソレイルを思い出し、小さく首を左右に振った。
最後の最後でメリアの肩を持ってしまったのは、下策である。もっと他にやりようが……と考えてみるものの、あのメリアの尻拭いをするのは中々困難なことで、誰がどうやっても無理かもしれないと、そこで思考を止めた。
(あれは、クリスでも無理だと思う)
すると――コンコン……と控えめなノックが響き、メリアを連れだしていたリオルガが戻ってきた。
「お待たせいたしました」
息ひとつ乱れず、あのメリアの対応をしていたとは思えないほど落ち着いた表情で部屋に入ってくるリオルガ。
そんなリオルガは、まず私の様子を確認してほっとしたように微笑んだ。
「ご令嬢は無事にお送りいたしました」
「ありがとう。でも、よくすんなり帰ったね」
「……少々、言い聞かせる必要がありましたが、最後は納得して戻られましたよ」
きっと反論する余地もなく、笑顔で遠回しに「帰れ」と告げられたのだろう。
リオルガは優しくて綺麗で、何でも許してくれそうに見えるけれど、怒らせるとイシュラ王より怖かったりする。
「暫くは大人しくしているかな」
「後ほど必要な処置を取りますので、もう王女殿下を煩わせることはないかと」
即答したローガットに頷くと、リオルガは私の前まで歩み寄り、膝を折って目線を合わせた。
「冷静に対処され、ご立派でしたよ」
「……うん」
「ですが、どうかご無理はなさらないでください。私をもう少し頼っていただけると、嬉しいのですが」
褒められるのは嬉しいけれど、こうして真正面からそんなふうに言われると胸の奥がむず痒くなる。
「頼っているよ?」
「そうですか?」
「そうだよ」
「では、今よりもっと頼ってください」
(この人がいてくれて良かった……)
そう思い頷くと、リオルガは微笑みを深めた。
と、そこで綺麗に終わればよかったのだが……。
「先ほどのことですが」
「先ほど?」
何のことだろうとリオルガを見ると、リオルガの目がふっと柔らかくなり空気が少しだけ変わった。その笑顔はとても優しいものなのに、どこか圧を感じるのは私だけだろうか。
「初恋の説明があまりにも自然でしたが」
「私の話ではなく、一般論です!」
目を瞬いたリオルガに、「私は恋などしません!」と宣言しておく。
「どうしてですか?」
「どうしてって、面倒だもの」
恋愛がどれほど厄介で、どれほど人を狂わせるのかを嫌というほど知っているから。
「それに、王族の婚姻は政治に関係してくるんだから、恋愛なんてしても無駄だよ」
「それは……そうですが」
うんうんと頷き「そうでしょう?」と胸を張ると、リオルガは困ったように笑う。
「何かおかしなことを言った?」
「いえ、ただ……リスティア様を好きになる方は、相当な努力をしなければ、想いを届けることすら難しいでしょうね。並大抵の覚悟では、お心に触れることすら出来ません」
「大袈裟な気が」
「ですが、恋などしないのでしょう?」
「面倒だし、無駄なことだからね」
再度きっぱり告げると、リオルガは肩を落とし、天を仰いだ。
***
昼食の時間になり、リタ達が私の新しい部屋へやってきた。イシュラ王の乳母だったリタは軽く室内を見回し、窓際の机へと視線を留め、どこか懐かしそうに目を細めていた。
そのままリタ達は手際よくテーブルを整え、白い布を滑らせるように広げ次々と料理を並べていく。
王子宮には皆で食事をする部屋などはなく、各自自室で食事をするらしい。
なので、クリスやソレイルと顔を合わせる機会も必要最低限なのだとか。頻繁に顔を合わせていたら疲れるのでとても助かる。
「美味しいけど、薄味だね」
柔らかく煮込まれた鶏肉のクリーム煮と、甘みのある根菜のロースト、そして焼きたてのパン。どれも優しい味で、量も丁度よく、子供でも食べやすいように工夫されている。
「統括宮殿での食事は大人向けに味付けがされておりますので。王子宮殿の調理室は、統括宮殿のとは別になっており、味付けも献立も特別に調節されております」
「そうなんだ」
王族の食事は豪奢であっても、子供への配慮はないものだと思っていた。
でもここでは、ひと口で食べられるよう丁寧に切り分けられ、細やかな気遣いまである。
(思っていたより、ずっと過ごしやすいかも)
こうして私室で静かに過ごせて、美味しい物まで食べられるのだから。
ただ難点があるとすれば、それは下の階にいるクリスとソレイルという厄介な存在だけだろう。
でもそれも、顔を合わせなければどうということはない。
鶏肉を口に入れ、ふわりとほどけるような柔らかさに思わず頬が緩む。
すると、部屋の隅でリタと話していたローガットが、こちらへ戻ってきた。
「王女殿下、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「来週からのご予定について、国王陛下よりお伝えするよう仰せつかっております」
「授業のことだよね」
「はい。授業は来週から始まりますが、初日は軽い確認を行うそうです」
「確認?」
「王女殿下がどれほどの知識や理解力をお持ちか拝見し、授業内容を調整する為のものでございます」
王族、貴族の子供は、教師がつく前に必ず能力の確認をされる。読み書き、計算、歴史の基礎、礼儀作法の理解度など、ある程度のことは乳母から教わっているので、それを見てどのような教師をつけるか、どの程度の内容から始めるのかなどを決めるのだが。
「分かったわ」
さて、どの程度の実力を見せておくべきか。あまり出来すぎても言い訳が面倒だし、かといって無能だと思われるのも困る。
ここは潔く天才の称号を取りにいくべきか……と悩んでいると、ローガットから声が掛かった。
「確認とはいえ簡単なものです。どうぞご安心ください」
簡単だというのであれば、そこで突き抜けていても不審に思われないかもしれない。それなら手を抜く必要もないのでは?
「うん、頑張るね」
「はい」
憂いのなくなった私は、にこやかに部屋を出て行くローガットに手を振り、鶏肉を頬張った。
本日は特に予定もなく、ただのんびりと過ごすだけ。
昼食のあとは本棚から数冊本を選び、ソファーで読書に耽る。美味しい紅茶とお菓子を楽しみながら全て読み終えると、夕食の時刻になっていた。
「わあ……」
テーブルには、昼食とは比べものにならないほど手の込んだ料理が並べられていく。
まず、黄金色のスープ。表面には細かく刻まれた香草が浮かび、上品な香りがする。
続いて、香草バターで焼き上げられた白身魚のソテー。レモンの輪切りが添えられていて、彩も完璧。そして焼きたてのパンと、デザートは桃色のムース。
(悪くない……)
お腹がはち切れそうになりながらなんとか完食し、食後は湯浴みをして、本日は終了となる。
身支度を整えられ、髪を乾かされ、肌触りのよい寝間着に着替えたら、ふかふかのベッドに潜り込む。
「……ふう」
柔らかい布団に包まれ、今日一日の疲れがどっと押し寄せる。
(来週から……本格的に始まるんだ……)
それまではこの生活を堪能しようと目を閉じ――。
「……あ」
パチッと目を開けた。
突然、ローガットの言葉を思い出したのだ。
『そして、夜は月光です』
満月の夜には廊下が銀の帯のようになるという、あれである。
今日が満月でなくても、月の光が届くようになっていると言っていたので明るいのだろう。
折角なので見てみたいと思ったら、眠気は一瞬で吹き飛んでいた。
私はベッドから飛び起き、少しだけ寝室の扉を開けた。
「リオルガ、いる?」
そう呼びかけるとすぐに足音が近付き、リオルガが顔を出した。
「はい、リスティア様。どうなさいましたか?」
「月の光が届くようになっている廊下が見たいの。ついてきてくれる?」
「喜んで」
では……と両手を差し出され、首を傾げる。
この手はなんだろうかとリオルガを見ると、「お疲れでしょうから」とそっと抱き上げられてしまった。
あまりに自然な動作で、拒む隙すらないとはどういうことなのか……。
「私は幼子じゃないんだけど」
「リスティア様は体力がありませんから」
満面の笑みと共に返された言葉にぐうの音も出ず、そのまま廊下へ向かうことになった。
夜の王子宮は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
「……わあ」
高窓から差し込む月の光が廊下に落ち、淡く光を纏っている。見回す限り、一階のどこもかしこも、同じように光に包まれていて、幻想的な姿へと変わっている。
「凄い……」
「もう少し奥へ行ってみましょうか」
ローガットが言っていた銀の帯を見る為に奥へと進んで行くと、床に落ちた月光が、細く長く伸びているのが見えた。
「……これ」
「どうやら、ここのようですね」
それは本当に帯のようで、細く長く伸びて静かに横たわっているだけ。光の色は銀にも白にも見え、触れたらすぐに消えてしまいそうなほど。
「わあ……きれい」
思わずそう口にすると、足を止めたリオルガが「誰かいます」と声を潜めた。
他にも人が?と目を細めて先を見つめると、月光の中に影が。
「……っ、え……!?」
そこにいたのは、イシュラ王だった。




